第参幕 白色

 熱い……。


 ここは熱い……。


 さっきまでの重苦しい沈黙はとうに消え去り、今あるのは阿鼻叫喚と炎がその牙を用いて命と物質を貪る補食音だけだ。


 血だらけの壁や襖は頽れ、柱は折られ、足下には炎に補食される無力な人間だった黒い影が横たわり、床は無残な大穴を開けて役目を放棄し、誰にも消されない炎は次々と座敷を呑み込んで肥大化している。


 私はその地獄の中にいる。家族がどこにいるのかも、どこへ逃げたらいいのかもわからないまま、迷宮みたいな廊下を走っていた。だけど、その足は縺れるし、それを指示するはずの脳みそまで満足に働いてくれなかった。何故なら、時々聞こえてくる苦しげな悲鳴と懺悔するような声、懇願するような哀れな声に加えて、壊れたような狂ったような女の嗤い声がこだまみたいに響いていたからだ。


 早く逃げないといけない……。


 十歳の子供でもわかる危険な状況。泣きもせず、卒倒もしなかったのはある意味で件の嗤い声のおかげだったんだと思う。それでも身体はふらつき、至る所から吐き出される炎と黒煙は順調に私の精神を蝕んでいったんだろう。


 どこに入り口があって出口があるのかわからないまま歩いていた時、燃え盛る座敷から黒焦げの人が襖を破って廊下に頽れて来た。魚のように悶える身体と皮膚の隙間から覗くマグマのようなひび割れに私は後退りした――その直後、


 その座敷の中から長い女羽織を纏った人影が柳のような黒髪を連れてゆらりと出て来た。怪我でもしているのか、足の動きも身体の動きも酷く歪で、本家か分家の誰かだと思った私は駆け寄ろうとして――全身の悲鳴と一緒に尻餅をついた。


 血だらけの女羽織から覗く四肢は血と膿で汚れた包帯を纏い、ギョロリと私を睨んだ目の下には包帯とその隙間からは焼けたような黒い肌が覗き――焼け落ちた右頬の奥には血と膿が塗りたくられた歯が剥き出しになっている。


 あっ……あぁ……。


 悲鳴をあげる心臓が喉を塞ぎ、私の口は言葉にならない空気を吐き出すことしか出来ない。だけど、それは包帯の人も同じなのか、ヒュー、ヒューと風のような音を吐き出しながら足下の黒い人を見下ろし――右手に握り締めていた軍刀の切っ先を頭に突き下ろした。


 耳を覆わせる湿った音が響き、私はその場から逃げ出した。確信はなくても、あの狂笑の主がこの包帯女であると頭が告げているし、彼女が人を殺すところを見てしまった以上、私も殺される。


 堪らずお母さんとお父さんのことを叫びながら、私はその場から転がるようにして逃げ出した。今にもあの包帯女が軍刀を振り回して追いかけて来る。そう思ったけど、肩越しに振り返った時に見た包帯女は、ただ私のことを見ているだけで動こうとはしなかった。


 ただ、大きく見開いた右目だけが、私をずっと見つめていた。



 それは高神家の全焼時に見た光景。


 もうあれから十年経ったのに、私は未だにあの光景を夢で見る。


 私は私という意識を取り戻し、静かに目を開けた――と同時に胸が痛み、頭もそれに同調してふらふらと動き始めた。停滞していた血の流れが濁流のように脳と全身を荒らしているのか、心臓は悲鳴をあげているし、視界はグルグルと回って、耳に至っては甲高い音が鳴り響いている。おまけに、眠気と紛うような心地良い誘いが全身を撫でていて、身体の方はその誘いに乗ってしまったのか、異様に重く感じる。


 自分の身に何があったのか確かめたくて、私は眠気の訴えを無理矢理取り下げて目を閉じた。重たい片手で頭を押さえながら、片方の掌に意識を集中させる。どうして掌なのかというと、そこぐらいしかまともに動く箇所が無いからだ。


 そうすることで自分の身体は次第に落ち着きを取り戻し、濁流の血液も落ち着きを取り戻してくれた。視界の回転も止まり、聴力も正常になった。残るのは頭痛と身体の痛みだけで、どうにか動けるようにはなった私は改めて目を開けた。


 そうして真っ先に飛び込んで来た光景は、荒れた車内、伏せているみんなの身体、車内に漂う煙とその臭い――を感じて、私はようやく自分たちの身に何が起きたのかを思い出した。


 雛曵祭、帰路、挟霧、人形峠、飛び出して来た人影、暴走、激突――。


 事故だ……確か……道路に飛び出して来た何かを跳ねた衝撃で……。


 ひしゃげたボンネットと粉々になったフロントガラスを一瞥した私は、運転席で突っ伏している綾香さんを見――思わず小さな悲鳴をあげた。


「綾香さん……綾香さん……!」


 何故かエアバックが作動しなかったようで、綾香さんはハンドルに突っ伏している。揺すってみたけど、死んだように反応がない。


 私は自分の胸を締め付けるシートベルトを外そうとして――自分の左手に痛みを感じた。その原因を求めて左手をあげると、手の甲に大きな花が咲いていた。痛みはあるし、見た目も痛々しいけど、特に気にせず自分のシートベルトを外した。

 

「綾香さん……」


 力なく突っ伏している綾香さんのシートベルトを外し、その身体を静かに起こした。幸いにも怪我は切傷と額の大痣だけみたいだけど、いくら声をかけても反応がない。そっと測った脈に異常はなく、きちんと息をしている。ハンドルに頭をぶつけたなら脳震盪か脳挫傷――それも意識不明とくればかなり危険な状態だ。だけど、綾香さんの様子を見るに、気絶しているよりも眠っていると言ったほうが正しく思えるほどの静かな息遣いと身体の動きがある。


 後部座席を見ると、五人とも気を失っているようで動きは見られない。


「瑠偉……?」


 声をかけたけど、綾香さんと一緒で反応はない。


 とにかく全員を起こさないといけない。私は横のドアに触れたけど、窓が割れているうえに大きく歪んでいる所為か簡単には開かない。「もうっ……!」と苛立ちを連れて私は痛む頭を押さえながら、二度、三度とドアを蹴り付けた。すると、ドアは大人しく開き、私は滑るようにその隙間を抜けた。


「霧が濃いな……」


 周囲の霧は濃くて、会話域程度しか視界の確保が出来ない。それでも雪はある程度弱まったみたいで、凍死するほど危険というわけじゃないかもしれない。とはいえ、気を失っている人を放置出来るほどじゃない。


 見るとセダンは正面から大木と激突したようで、太い幹がボンネットに食い込んでいる。エンジンは停止しているみたいで、車に詳しくなくても動かないことは明白だ。ガソリンが出ている様子はなく、爆発する可能性もないだろう。


 携帯電話を取り出し、セダンが落ちた場所を探して周囲を照らす。浮かび上がるのは雪と木々と深い白闇ばかりだけど、とりあえず私たちが落ちて来た崖は見えた。優しくない岸壁の上を照らすと、私たちの方へガードレールの一部が飛び出しているのが見えた。戻るのは無理そうだ。


 私は車に戻り、愛里側のドアを開けようとしたけど、歪みの所為でこっちはビクともしなかった。仕方なく反対側へ行き、瑠偉を起こそうとドアに触れた。だけど、そこの窓には蜘蛛の巣みたいな罅があって、嫌な想像が私の心臓を締め付ける。


 どんなに願っても、どんな善人でも、人はあっさりと死ぬ。それだけは無慈悲かつ平等だから、生きていてほしいという願いも無駄でしかない。それでも、私は瑠偉の命があることを願ってドアを無理矢理動かした。


 苦労を知らない、と嫌味を飛ばされる両手で数回の試みを繰り広げ、どうにかこうにかこじ開けることは出来た。そうして転がり出て来たのは瑠偉ではなく、京堂さんだった。


 雪の上に上半身を倒した京堂さんは息をしているけど、嫌な予感の通りに意識がない。蜘蛛の巣を作ったのは京堂さんみたいで、頭には血が付いている。重たいを身体を車内から引きずり出し、起こした上半身をドアで支える。


「……もし? 京堂さん……もし……?」


 呼びかけてみる。それで起きてくれれば苦労はしないけど、脳震盪の場合は頭を安易に揺らすと危険だから、起こす為に揺さぶることは出来ない。だけど、息も脈も正常なら大丈夫だよね。


 頭の血も止まっていることを確認してから、私は瑠偉のシートベルトを外した。力なく座り込んでいるから心配したけど、その身体に外傷としての怪我は見当たらないし、脈も息も正常だ。京堂さんが庇ってくれたのかもしれない。


 そんな瑠偉を座らせたまま、隣にいる大淀さんを確認した。彼もまた外傷は見当たらない。大淀さんには後でシートベルトにキスしておいてもらおう。そんなことを考えた時、


「桜……さん」


 その声と同時に、後部座席の足下を埋めていた荷物の下から天龍さんが顔を出した。シートベルトを譲っていたみたいで、繊細な眼鏡は無く、額には浅い切傷と赤い晴れがある。


 そういえば……。


 私は自分の左手甲を改めて確認した。動かしたからか、さっきよりも傷口が開いて血の勢いが増している気がした。このままだとみんなの荷物に血が付きそうだ。


「桜さんは……怪我していませんか?」


 私は頷き、誰かのバッグの上に乗っていた眼鏡を天龍さんに手渡した。フレームが曲がっているから、きちんと使えるかどうかはわからない。


「これは……駄目そうだな。予備の眼鏡を使うか……」


「動けますか? 動けるなら……みんなの荷物を外にお願いします」


「……わかりました」


 視界を正すためか、天龍さんはかぶりをふると、無残な眼鏡を連れて散乱した荷物を外に運び始めた。


 私はその横を擦れ違い、愛里の状態を確かめた。


「……愛里?」


 そっと身体を揺すると、予想に反して愛里はすぐに目を開けた。


「あれ……? 何か起きたんスか……?」


 顔をあげた愛里だけど、歪んだ車内を見ても状況を理解出来なかったのか、寝起きのように頭を掻いている。


「……愛里さんは平気そうですね」


 私の後ろから車内を覗き込んでいた天龍さんに頼んで、愛里を外に出してもらい――天龍さんに勢いよく腕を掴まれた。


「桜さん……! 怪我しているじゃないですか!」


「いいんです、私は。天龍さんは……荷物と綾香さんをお願いします……」


 私の怪我なんてどうでもいい。傷物の傷が一つ二つ増えても同じことだし、車内から瑠偉と大淀さんを運び出すことの方が大事だ。不服そうな天龍さんを無視し、車内の奥に潜り込む。


「そうだ、愛里さん、確かレジャーシートを持って来ていましたよね?」


「ん……そのバッグに入ってるっス」


 指差されたバッグを車外に出した天龍さんは、少しの捜索の後にレジャーシートを広げた。それを見ながら車外に出た愛里は、微かに始まった風で捲れないように荷物を四方に置いた。


 私はその光景を背中に、大淀さんのシートベルトを外した。苦労はしたけど、大淀さんは途中で目を開けてくれた。おかげで身体を引きずる必要はなくなり、私も一緒に車外へ出た。その際に、大淀さんはしきりに首の痛みを訴えたから、むちうちかもしれないと伝えておいた。


「首……あまり動かさないでください。それと……首を水タオルなどで冷やして……」


「ここ雪山よぉ? お湯のほうが良いなぁ」


 軽口が出せるなら大丈夫みたい。


 奥に転がっていたバッグを連れて車外に出ると、


「いたた……」


 横にされていた瑠偉が起き上がった。


「ああ、瑠偉さん、良かった」


 天龍さんは瑠偉の側に屈み、手短に状況を説明した。その間、私は瑠偉の頭を無言で撫でていた。


「あんな上から落ちたの……?」


「綾さんの運転に感謝だね……」


 聳える岸壁と大破したセダンを交互に見て戦慄を吐き出す瑠偉。それは愛里も同じで、彼女もレジャーシートに座ったまま動こうとしない。


「天龍さん……綾香さんは?」


「京堂さんと同じです。意識はありませんが……息はしています」


 天龍さんは愛里と協力して綾香さんを車外に出してくれていた。今は京堂さんと一緒に横にしてある。


「とにかく、救急車を呼びたいんですが……携帯が圏外なままで……」


 見せられた携帯の画面には、圏外とはっきり表示されている。私も携帯を取り出して確認してみたけど、天龍さんと同じ表示だ。


 どうするべきか、その答えを求めて私は周囲を見渡した。すると、首を撫でながらセダンを調べていた大淀さんが頭を掻きながら私と天龍さんの横に来た。


「いやはや……まさか綾さんが事故るとはね」


 その言葉に瑠偉はセダンを一瞥してから言った。


「……あれは綾さんの運転技術とは関係ないじゃん。何かが飛び出して来たんだよ」


「飛び出して来たって……まさか……誰かを轢いたんじゃないっスよね……? いやっスよ……? 犯罪者になるなんて……」


「ちょっと……飛躍しないでよ。鹿とか野生動物かもしれないし、雪が落ちて来たのかもしれないんだからさ」


 セダンに血痕は付着していないんだから、と瑠偉は愛里を宥めるけど、大淀さんがまた余計なことを言い出した。


「その通りさ、愛ちゃん、俺たちは犯罪者だぜ?」


「はぁ……?! 車さんさぁ……この状況でよくそんなこと――」


「そう! 人形を轢いた罪で犯罪者さ」


 待ってました、と言わんばかりに大淀さんは神妙な顔付きを緩めるとニヤリとした。


「人形……?」


 その声は愛里だけのものだけど、私たちの声でもある。


「これを見てみな」


 大淀さんはそう言って木が食い込んだボンネットを携帯電話のライトで照らし――それを見た瑠偉は「うわっ……!」と、悲鳴をあげた。


 照らされたボンネットの上、ひん曲がったワイパーを――肘から千切れた左腕が掴んでいる。今にも動き出しそうなほどで、千切れた部分からは血のような液体が滴り落ちて、ボンネットに花を咲かせている。さっき見た時は気付かなかった。


「大淀さん……これは人形なんかじゃ……」


 天龍さんは恐る恐る腕に近付いた。その表情には苦虫が見える。おそらく大淀さんが事故のショックで壊れたんじゃないかと思っていたんだと思う。だけど、大淀さんが言ったことが事実だとわかった瞬間の安堵は私たちからでもハッキリとわかった。


「確かに……人形の手ですね」


「だろ? 機巧仕掛けが中から露出してるしなぁ」


 大淀さんはヒョイとその左腕を掴んだ。


「あっ……下手に触ったりしたら」


「大丈夫だって、人を撥ねたわけじゃないし……目撃者が六人もいるし?」


 左腕を熱心に眺めている大淀さんの横に立った私は、見せてほしいとねだってみた。


「ほら、桜ちゃんも見てみ。この断面を……」


 携帯電話のライトで浮かび上がる腕の断面は、生々しいの一言で表現出来る。人間でいう骨は木かプラスチックかわからない何かが担い、その周囲の肌はシリコンなのか紙粘土なのかもわからない材質が使われ、その中には大小様々な歯車とか奇怪な部品が埋め込まれている。加えてミリ単位の細いケーブルが血管とか神経並みの精密さで張り巡らされている。おまけに千切れたケーブルからは血なのか接着剤なのかもわからない無臭の赤黒い液体が滴り落ちている。人によっては卒倒してもおかしくない精巧さだ。


「人形に……施す技術ですか……?」


「ほれ、みんなも見てみ?」


 本当の左腕なら見せびらかすことはないんだろうけど、大淀さんは楽しそうに愛里たちへ腕を見せた。その反応は当然二択で、愛里や瑠偉は気持ち悪いほどの精巧さに辟易したけど、天龍さんは感嘆を口にしてその断面を何枚もカメラに取り込んでいた。


「これ……一体誰が作ったんでしょう」


「泉屋さんなんじゃないかい?」


「……この精密な人形を大正時代の人が……ですか? 下手したら桐生楓の作品よりも上ですよ?」


「そうは言ってもねぇ……」


「いや、二人とも……それよりも誰かの持ち物だったら弁償代が膨大なんじゃ……」


「拓ちゃん、その心配はないでしょうよ。放置されてるんだし、持ち主は不明なんだから。問題はどうしてこれが道路にあったのか――」


「動いていました」


「はっ?」


 私の言葉に全員の視線が集まった。


「……助手席にいたから見てました。この人形……道路に飛び出して来たんです」


 見開かれた大淀さんからの視線が刺さる。だけど、私は嘘をついてるわけじゃない。私が見たありのままを告げた。逃げ惑うかのように道路へ飛び出して来た光景は、綾香さんも見ていたはずだ。目を覚ませば同じことを言うと思う。


「まさか……人形だぜ?」


「大淀さん……案外本当かもしれませんよ……? これほど精密な人形なら動かすことが出来るかもしれません。……茶運び人形みたいに」


「はは、まさかねぇ……」


 大淀さんの視線が全員に回る。人形がひとりでに動いていた、なんてことを認めたくない嫌な沈黙が広がる。


「とっ……とにかく、おキョウさんたちを安全な場所へ運びましょうよ。道路に戻ることが出来れば車を拾うことも出来るかもしれないじゃないっスか」


 愛里に促され、天龍さんと大淀さんは互いに頷いた。


「愛ちゃんに賛成といきますか」


 左腕をボンネットに戻し、大淀さんは瑠偉を見た。


「瑠偉よ、確か……医療品が入ったバッグを持ってなかったか?」


「ああ……」


 瑠偉は頭を押さえながらふらふらとセダンの後ろへ向かい、トランクを開けた。


「エアガンも出すか」


「何で」


「おいおい、携帯電話の頼りない光だけでこの森を進めって? それに携帯電話は連絡手段なんだから、余計なことで消耗させたくないだろう」


「ああ、そういうこと……」


 瑠偉はファーストエイドキットを愛里に手渡すと、そのままガンケースのチャックを開けた。


 それが気になり、私もガンケースを覗き込んだ。私にはサバイバルゲームの心得がないから、必然的にエアガンの知識もないけど、その精巧さには驚かされた。


 フラッシュライトという装備が装着されたハンドガンを構え、瑠偉は周囲の霧を照らす。


 それに続いて大淀さんも自分のガンケースから、瑠偉と同じようにライトを装着したライフルを取り出した。


「これも……装着しておくか」


 そう言って大淀さんがケース内のポケットから取り出したのは、映画で見かける暗視装置だ。


「霧の中じゃ無意味でしょ」


 ガチャガチャとライフルを弄る大淀さんを見、瑠偉はライトの明かりを確認しながら言った。私は暗視装置の構造がわからないから何とも言えない。


「必要になることがあるかもしれないでしょうよ」


 やいやいと言い合う二人に肩をすくめた私は、京堂さんの手当てに苦戦している愛里の横に屈み込んだ。


「愛里、京堂さんと綾香さんの手当ては私がやるから、天龍さんの手当てをしてあげて」


「わかりました。タク先輩、診察しますよ」


 天龍さんを診察する愛里を背中に、まずは京堂さんの頭を診た。傷口から流れていた血はもう止まっていて、乱暴にしなければ流血の心配はなさそうだ。未開封だったペットボトルの水で濡らしたハンカチで傷口の周囲を拭き、愛里から受け取ったガーゼを包帯で巻き付ける。それは綾香さんも同じで、ぶつけた部分に濡らしたガーゼを押し当てて包帯を巻いた。


「相変わらず手当てには心得があるね」


 私の手当てを後ろから見ていた瑠偉が言った。振り返ると、彼女はさらに何か言いたげに口を動かしている。そう言えば、初めて瑠偉の前で他者の手当てをした時も彼女は同じように口籠っていた。


「瑠偉……?」


「ああ……いや、ほら、あんたの手当てしてあげるから、手を出して」


「私のは……」


「いいから出すの」


 瑠偉はグイと私の腕を引っぱり、水で患部を洗った。


「ルイ先輩、包帯っす」


 天龍さんの手当をしていた愛里から包帯の残りを受け取った瑠偉は、腕と手の甲に包帯を巻いてくれた。


「……ありがとう」


「どういたしまして。もう少し自分の身体を大切にしなさいよね……」


 ああ、そうだ。初めて手当てを見せた時もそう言われた気がする。他にも確か、私には浮世離れと自らの生を実感していないような印象――極端に言ってしまうと、生きることに未練や執着を持っていない、死への妙な達観のような雰囲気を纏っている気がすると言っていた。だけど私は彼女の慧眼に驚きつつも、その主張に目くじらを立てることはなかった。おそらく、その通りだったから。


「瑠偉の身体も大切にね」


 血で濡れた瑠偉の手を拭う。美容に関して瑠偉は小学生の時から気にしていたらしい。今でも肌とか髪とかのケアは欠かさない。その成果で肌は綺麗だし、モチモチしていて好きだ。私の血なんかで穢したら可哀相だ。


「あっ……京堂さん? 俺がわかりますか? 天龍です」


 血で汚れた瑠偉の手を拭いていると、天龍さんが声をあげた。見ると、京堂さんの身体に動きがあった。


「動かないで。状況は俺が説明しますから」


「何が……あった……?」


「交通事故です。脳震盪の可能性があるようなので、あまり動かないで」


「事故……脳震盪……?」


 そう言われてもすぐには実感出来ないようで、京堂さんはしきりに瞬きを繰り返し――突然目を見開いた。


「綾香は? 綾香は無事か……!」


「ちょっと――」


 止めようとした天龍さんを静かに退かし、京堂さんはひしゃげたセダンに駆け寄った。


「綾香……綾香……!」


「堂さん、綾さんはそっちっすよ」


 自分のライフルと京堂さんの分だと思われるガンケースを背中に下げたまま、大淀さんは横になっている綾香さんを指差した。


「京堂さんと同じで、脳震盪かもしれないってサクラ先輩が……」


 水で濡らしたタオルをしぼりながら、愛里は「あまり動くと後に響くっスよ」と、急な動きに釘を刺した。


 だけど、京堂さんはその釘を無視して綾香さんの側に屈み込んだ。それはまるで眠れるお姫様へ口づけするような動作だったけど、手が頰に触れる前に天龍さんが「京堂さん」と、それを制止した。


「ああ……そうか、脳震盪か……脳震盪……」


「堂さん、大丈夫っすよ。ちゃんと息をしているか、脈に異常がないかを桜ちゃんがしっかりと確認してくれましたから」


 いつも以上に飄々とした口調で、大淀さんは言った。それはおそらく、京堂さんを落ち着かせようとした態度なんだろうけど、効果はあるんだろうか。


 元カノさんでも心配はしますか……京堂さん。


「桜ちゃん、拓ちゃんよりも君の方が詳しい説明出来るっしょ? 堂さんによろしく」


 肩をすくめた大淀さんに説明を押し付けられ、私は京堂さんへここまでの経緯を説明した。もちろん、動いていた人形のことも。


「……そうか、事故でこんなことに……」


 京堂さんは静かにかぶりをふった。


「それで、本当に人形が……道路に飛び出して来たのか……?」


 訝しげに眉を顰める京堂さんに、私は人形の左腕を渡した。京堂さんは無言のまま断面を眺め、少しだけ笑った――ような気がした。だけど、それを指摘する前にかぶりをふると綾香さんを見た。


「弁償代もかかりそうだな……綾香」


 そう言いながら京堂さんは左腕をボンネットに置いた。


「あの、とにかく、ここから移動しませんか? さっきよりも雪が強くなってきたようですし……霧も濃くなってきました。このままじゃ何も見えなくされてしまいそうです」


 不安げに携帯電話を岸壁に向けた天龍さんの明かりに続いて、瑠偉もエアガンのライトを向けた。


「じゃあ……とりあえずは斜面に沿って移動してみますか?」


 さっきまで見えていたはずのガードレールはもう根元しか見えなくなっている。これ以上濃くなると本当に動けなくなるかもしれない。


「そうだな。とりあえず……綾香は俺と桜で運ぶ。拓真は俺の荷物を――」


 京堂さんがそう言った瞬間、近くの茂みがガサガサとざわめいた。続いて雪を踏み抜くような足音が近付き、瑠偉はエアガンを構えて音の方向にライトを当てた。だけど、京堂さんがそれを制した。


「人だったらまずい……」


「でも……」と、瑠偉は抗議した。その気持ちはわかるけど、相手が猪とか熊ならBB弾じゃ話にもならない。出来るのは後ろに下がることくらいだ。


 みんなが警戒する中でもう一度茂みがざわめき、瑠偉はバッグから取り出したサバイバルナイフを構え――。


「ありゃ? どうかしました?」


 茂みから出て来たのは大淀さんだった。その瞬間、私もみんなと一緒に大きな息を吐き出した。疲れが一気にのしかかってきたような気がして、苛立ちが募る。


「どこに行ってたんだ……お前は」


 半ばうんざりしたような声音の京堂さん。


「ちょっと散策に。熊でも出ました?」


「お前が出たよ」


「あらら、それでこのムードっすか」


 京堂さんに睨まれ、大淀さんは、にひひ、といやらしい笑い声をあげたけど、すぐに真面目な顔付きになった。


「それよりも……やばいっすよ。霧と雪の勢いが増してきた……野宿するか峠を下るかを早く決めないと……」


「野宿なんていやっス!」


 いの一番に声をあげたのは愛里だ。


「しかしな……下るにしても道が不明なままじゃ……」


「さっき瑠偉さんが言ったじゃないっスか。この斜面に沿って行けばって……」


「おいおい……足下と周囲を見てみ? 道路ならいざ知らず、この整備されていない山の中じゃ霧はすぐに濃くなるし……雪の妨害を受けながら進むなんて無茶だぜ? 神隠しの本場でそれは危険過ぎるって」


「車はお釈迦、怪我人多数、夕食はまだ、遭難……判断が難しいですね……」


 それぞれが案を出しては潰れ、それを繰り返している間にも霧と雪は勢いを増していく。


「前門の虎、後門の狼……下るしかないだろ」


「マジっすか? 堂さん」


「ああ……どのみち壊れた車に居座るのは危険だ。お前と瑠偉が先導するんだ。暗視装置もあるんだろう?」


 すると、大淀さんの表情がパッと明るくなった。


「そうか……暗視装置のことをすっかり忘れてた」


「さっき自分で装着してたくせに……」


 そう言った瑠偉は、私と綾香さんのバッグを担いだ。


「瑠偉……自分の荷物は」


「大丈夫、体力はあるよ。桜は綾さんをよろしくね。愛里は京さんのバッグをお願い」


「了解っス」


 愛里は敷いていたシートを畳むと、京堂さんのバッグを担いだ。


「防寒着は全員大丈夫だよな? 壊れた眼鏡じゃ心許ないかもしれないが、拓真は殿を頼む」


 京堂さんはフライトハットをかぶり、私と一緒に綾香さんの身体を起こした。その間に天龍さんは予備の眼鏡を取り出していた。


 愛里は綾香さんのバッグからマフラーや手袋を取り出し、身につけさせた。


 それぞれが防寒装備に着替える。


「両手が使えないから……桜は俺のサポートを頼むぞ」


 かくして、私たち七人は雪と霧が支配する人形峠の踏破を試みることになった。暗視装置をライフルに装着した大淀さんが先頭になり、私たちは歩き出した。


 それは二十時二十分のことだ。

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