第漆幕 白濁

 あの葵って人……一体何なんだろう……。


 千鶴さんに促されるまま、私たちはサロンに戻って来た。室内には桜小路さんが待っていて、ワゴンに乗せたカップに珈琲を黙々と淹れていた。


 私たちは何を言うでもなく、羊羹テーブルに腰を下ろした。「どうぞ」と差し出された珈琲を受け取り、無言のまま口を付けた。


 そのおかげかどうかはわからないけど、珈琲の香りに乗ってさっきの光景が鮮明に蘇ってきた。


 螢さんから直視されたことにも驚いたけど、何よりも驚かされたのは葵という人が私へ向けていた瞳としゃべっていた声だ。京堂さんとか螢さんが話していた時はずっと目を閉じていたのに、当主の間に入った瞬間、葵という人は片目を開いて私を見ていた。あまりにも一瞬だったから確証はないけど、その片目は人間にはありえない翠に輝いていた。義眼なんだろうか……。


 それと何よりも驚いたのは、葵さんの声だ。私たちを、私を、この屋敷へ誘った唄声の主というだけじゃなく、今朝囁かれた声と同じだった……。それに……あの人には何故か不思議な感覚がある。何か……懐かしさのような――。


「悪いが……注目してくれ」


 桜小路さんが私たち全員に珈琲を配り終えた時、京堂さんは腰を上げて切り出した。京堂さんにしては珍しく緊張したような震えが声にも混ざっていて、疲れているのか目元をしきりに押さえている。あまり態度に出るような人じゃないから、慣れない立場と事件に相当参っているのかもしれない。


 京堂さんが続けて口を開く前に、千鶴さんと桜小路さんは一礼してサロンから消えた。


 淹れられた珈琲を口にし、京堂さんは口を開く。


「五人共……状況はわかっているよな? 綾香が血痕を残して姿を消したこと……」


 その問い掛けに、全員が小さく頷いた。


「血痕の量からして……死に至るまではいかなくても、綾香が怪我をしていることは確かだ……」


 京堂さんは目を閉じた。私もそれに続いて医務室の血痕を思い出す。吐血とも思ったけど、床の一部を染めるほどの量を吐き出したのなら簡単に動けるとは思えない。室内に争った痕跡は無かったから、顔見知りに襲われたか、抵抗する隙もないまま連れ去られたかの二択に思える。


「みんな……どう思う……」


 永遠にも思えた沈黙の後に、ようやくといった感じで続きを口にした。だけど、それに対する答えは京堂さんも含めて誰にも出せないだろう。互いに顔を見合せたのがその証拠だ。


「この中に……綾香を襲った奴がいるなら……名乗り出ろ」


 呪いのように吐き出された言葉に対する地獄みたいな沈黙がサロンを埋める。動かない時計のように誰も音を発しないし、息を吐くことさえ躊躇っていると思う。


「……堂さん、俺らを疑います……?」


 大淀さんが口を開くまで、約五分。たったそれだけなのに、沈黙は一時間以上に感じられ、誰もの顔に疲労の二文字が浮かんでいる。


「なら……名乗り出てくれよ。頼むから……」


「それで名乗り出たらいいすけど……」


 大淀さんはポケットから煙草を取り出し、私に背を向けてくれた。


「みなさま、悪いけど吸わせてくれ。吸わなきゃ落ち着けないわ……」


 この時ばかりは愛里も何も言わず、黙って俯いていた。


「京さん……疑っている相手はいるんですか……」


 俯いていた瑠偉が不意に口を開いた。その疑問に対して京堂さんは口を開きかけたけど、それを遮ったのは大淀さんだ。


「やめようや……水掛け論になるだけだわ……」


 吐き出された煙草の煙が千鶴さんの方へ揺らめく。


「それ……賛成っス。だって……誰もそんなことをするような人じゃないっスよ……。あの人は……他人の心がわかるはずないって言いましたけど、自分はそう思わないっス。自分は皆さんに会って一年しか経っていないスけど……こんなことする人はこの劇団にいないっス。それに……今日まで笑って過ごしていた相手を殺せますか……?」


「愛ちゃん、まだ殺人と決まったわけじゃないよ? 堂さんも言っただろ? 命に関わるほどの血の量ではないって……」


 今にも泣き出しそうな愛里を気遣う大淀さんだけど、彼自身も相当参っているのか、さっきから貧乏揺すりが止まらない。


 そう言う私自身も、あの血痕を見てから息が重くなり、心臓も落ち着きがない。もし、綾香さんの遺体でもあったとしたら、倒れるだけで済むとは思えない。


「堂さん、当然、あなたが最初に疑われるのはわかっていますよね? 痴情の縺れとかって……」


 大淀さんはおもむろに京堂さんを見た。その問いかけは予想していたのか、特に動じる様子はなく、


「ああ、もちろん……。俺じゃないよ……付き合っていた頃は喧嘩もしたが、殺そうなんて思ったことはないさ。今でも……愛しているんだから……な」


 いつの間にか増やされていた六つ目の椅子にドサリと背中を預けた京堂さんは、力なく天を仰いだ。


「それを信じてもらえる証拠は無いがね……」


「そうすっね……。でも、堂さんが犯人とは思えないっすね。そうだとしたら、なんで今なのかってことになりますし……。さっき言ったように水掛け論っす」


「そうだな……もし殺すなら――」


 なんて会話だろう……。


「やめてください……」


 私は堪らず言った。


「愛里が言ったように……誰も綾香さんを襲おうなんて考えていないはず……。思っていたとしても……この屋敷で襲う必要がないもの……」


「そうですよね……同じ劇団員だし、稽古場にも集まるんだからいつでも襲えます。俺も愛里さんの意見に同意です。こんなことをする人はこの中にはいませんよ。京堂さん、疑いたくないですが……俺は家の人が関与している気がします」


 天龍さんの意見に、京堂さんは仰いでいた顔を彼に向けた。


「理由は……? 俺たちを襲ってもメリットはない。金目の物なんて無いし……綾香を襲う理由がない」


「もし、家の人が狂っているなら理由なんて――」


「待った」


 大淀さんが手をあげて天龍さんの声を遮る。


「狂人には狂人なりの真実、正義、常識がある。俺たち自称正常な人間の思考が正しいとは限らない。ある意味……完全に狂った人間の犯罪はないはずだ。それらの議論をするつもりはないが、狂っている、で片付けるのは危険さ」


「つまり……?」


 愛里は大淀さんを見た。


「つまり、家人が狂っているとしても、何かしらの理由があって綾さんを襲ったということさ。家人を疑うなら……その辺を捜査してみるといいかも――」


 そこで大淀さんは言葉を切った。何かを思い出したようで、急いでポケットを漁り始めた――その時、小さな咳払いと共に、ワゴンを連れた久留米さんと千鶴さんが入り口に現れた。


「皆様、紅茶と軽食を用意いたしました。少しばかり……休憩されてはいかがでしょうか」


 千鶴さんがそう言うと、久留米さんは相変わらずの無表情のまま私たちの空のカップを片付け、湯気立つ紅茶入りカップを私たちの手前に並べて行く。


「ありがとうございます……」


 目の前に置かれた紅茶を見て、京堂さんは小さく息を吐いて啜った。その姿に安堵した私たちも紅茶を口にした。その間に久留米さんは小さなお皿を配って行くんだけど、私たちはそのお皿に乗ったクッキーを見て思わず、


「あっ……可愛いんだ」


 瑠偉がそのクッキーを見て言った。


 そのクッキーは、どういう焼き方をしたのかはわからないけど、地球を除いた太陽系の惑星を模して作られているみたいだ。料理とかお菓子に関する知識が皆無の私でも見た目でわかるのは、アプリコットジャムとザラメを交えた金星と木星と水星、イチゴジャムの火星、砂糖の小さな結晶で作られた輪とザラメを纏う茶色の土星、匂いはチョコレートだけど見た目は真っ青な天王星と海王星、その青いチョコレートとマスカットジャム的なものが混ぜられた地球、砂糖が混ぜ込まれた冥王星だ。何をどんなふうに使っているのかはわからないけど、技巧を凝らしたその完成度は素晴らしくて、一瞬でも私は自分たちが置かれている状況を忘れてしまったほどだ。


 瑠偉も愛里もその技巧さに感嘆したけど、たぶん作った人の久留米さんは何も言わずに太陽系クッキーを配る。その代わりに応えたのは、


「お口に合うかわかりませんが、久留米の手作りです」


 料理の味付けはバラバラだけど、久留米さんはパティシエだったのかな。こっちは凄く美味しくて、私は久留米さんを見た。すると、


「……太陽や準惑星、衛星はありませんが、太陽系をクッキーで作らせていただきました」


 久留米さんはそれだけを口にし、お皿を配り終えると同時に一礼してサロンから出て行ってしまった。


「何か食べたいと思う心境ではないかと思いますが、心身を落ち着かせることは大事です。特に今のように不安に支配される状況下ではより大事なことです」


 意外なことに、千鶴さんの声音も態度も穏やかになったような気がする。ついさっきまで京堂さんを怒らせるような態度ばかりだったのに。


「そうですね……わかりました。ありがたく甘いものを頂戴します」


 京堂さんがクッキーに手を付けたため、大淀さんたちもそれぞれのペースでクッキーと紅茶を味わった。そのおかげか、少しだけ場の空気が穏やかになった気がする。千鶴さんが紅茶のおかわりも淹れてくれたことにも驚きだった。


「落ち着かれましたか?」


「ええ、おかげさまで」


「それは結構。感情的過ぎては探偵の役割は為せないでしょう」


「ええ、そうですね。あの……サロンに入る前に私たちの会話は……」


「私が耳にしたのは大淀様の声だけです」


「……お見苦しい場面を見せてしまい……申し訳ありません。あの……彼は……」


「お気になさらずに。何を話されていたのかまでは聞こえませんでしたので」


 その言葉に心底安堵したのか、大淀さんはテーブルにベタリと突っ伏し「はは……」と、自嘲みたいな感じで呟いた。


「……我々を疑いたくなる気持ちは十分に察しております。ですが……正直に申しますと、私たちも綾波様の失踪には困惑しております。私たちがあなた方を襲う理由……それを話しておられたのでは?」


 ギクリとした大淀さんを尻目に、京堂さんは千鶴さんを見上げた。


「ご理解されているのなら……尋ねてもよろしいですか?」


「どうぞ。そのための付き添いですから。もちろん、私が答えられる範囲までですが」


「ありがとうございます……」


 京堂さんは目元を押しながら、残っていた紅茶を一気に飲み干した。


「……本当に、この屋敷には先ほどの方達だけですか?」


「はい。ここに住むのは我々だけです。隠し立てはしておりません。それは執事としての誇りにかけて誓いましょう」


「……わかりました、ありがとうございます。では……外部の人間による犯行とは……」


「考えられません」


 きっぱりとそれを否定した千鶴さん曰く、事件を知らされた時、すぐに屋敷内の施錠を確認したが、どこにも異変は見当たらなかったらしい。さらに、外部からの侵入者が隠れていたとしても、他者の気配に敏感な奏さんが見逃すはずがないらしい。


「……車、確かに窓は閉まっていたよな?」


「医務室っすか? それは確かですよ。窓の外に足跡は無し――いや、雪で埋まったと言ったほうがいいっすね。まあ……綾さんを襲い、外に連れ出したとしても内鍵はどうするんだって話ですけどね……」


 それを私が補足する。


「外には出ていませんよ……。あの時も外は吹雪でした。窓を開けたりしたら確実に雪が入ってきますし……床も濡れていませんでした」


「そうなると……家の中にいた人間による犯行としか……」


 つまりはそういうこと。外部犯による誘拐の可能性は皆無。あるのは私たちの中か、家人の中に綾香さんへ危害を加えた犯人がいるということだ。だけど、どう邪推しても綾香さんを襲う動機が水掛け論にしかならない。


「医務室から出たとして……どこに行くんだと思う?」


 その質問に対してかぶりをふった大淀さんは愛里を見た。


 あたふたと愛里は嵐の山荘系と称して映画や小説の行程を話していく。それに関して大淀さんはつまらなさそうに肩をすくめたけど、私は逆だった。その話の中に、隠し部屋というキーワードが出たからだ。


 思い出すのは今朝、医務室の方から聞こえて来た奇妙な物音と地響きの記憶だ。


「京堂さん……今朝、本当に何も聞こえませんでしたか?」


「……うん? 今朝って……お前が顔を出した時のことか?」


「はい。本当に何も物音は?」


 京堂さんは無言でかぶりをふり、また千鶴さんを見上げた。


「……古林さん、吹雪の方はどうでしょうか?」


「雪が止む気配はありません。吹雪もおさまりませんし……おさまったとしても、出ることは不可能です」


「そうですか……。あの……いきなりなんですけど、彼女のことを知っていますか?」


「霧島様のことですか?」


 千鶴さんは私を見る。


 京堂さんの訊きたいことは、裏口で私を見た時の反応のことだろう。あの時、私を見た千鶴さんは明らかに驚いたような反応をした。その理由を私は知らないし、わからない。千鶴さんとは初対面だし、サブカルチャー店に顔を出すような人物にも思えない。 


「いえ、初対面ですから」


 千鶴さんは私と目を合わせて答えたけど、すぐに顔を逸らしてしまった。明らかにそれで終わりにさせようとしている。それを京堂さんは認めずに攻め込んだ。


「……裏口で驚いたのを見逃してはいません。どうして驚いたんですか? 葵さんに至っては、閉じていた片目を開けていましたよ」


 葵さんのことに気付いていた京堂さんにも驚いたけど、千鶴さんの明らかな不快の表情にも驚かされた。


「……それを私に言わせますか?」


「すいません¬……私は人の心を読むことが出来ないんです。お願いします」


 その言葉にも露骨な嫌悪を示した千鶴さんだけど、小さく息を吐いてから口を開いた。


「葵――葵様も……おそらく、霧島様のお顔の火傷を見て驚いたのだと思います」


 全員の視線が私の顔に集まる。


 私の火傷は髪で隠してるから、一見で気付かれることは少ない。あれから少しは薄れてきてはいるけど、初対面で気付いた相手が驚くのは当たり前だとは思う。それでも、好奇と嫌悪の目に慣れたわけじゃないから、私はみんなの視線から逃げる。だけど、京堂さんは話を止めない。


「それだけですか……?」


「仰っている意味が私には……」


「桜のことを以前から知っていたんではないですか?」


「ありえません。ありえたとしたら、彼女を見て驚くことはないでしょう?」


 そう言いながら千鶴さんは私を見た。同意を求めているんだと思い、私も頷いた。


「そうですか……それじゃあ、次は桜だ」


「えっ……?」


 京堂さんは私に視線を移す。それは千鶴さんにも向けられていた疑惑の目だ。


「桜……今から俺が言うことは全て推測だ。そう思って聞いてくれ」


 そう言うと、京堂さんは咳払いしてから始めた。


「……葵さんの歌声に真っ先に気付いたのはお前だったな? そして……彼女と家人、お前たち互いの奇妙な反応……これはどういう意味なんだ?」


 鋭い視線が私を見据える。その視線、私は前にも向けられたことがあった。高神家炎上後、病室に押し掛けて来た警察から尋問された時に……。


「京堂さん……私を疑ってるんですか……?」


「ここに俺たちを導いたのも、ある意味ではお前だ。最初から古林さんや葵さんと仕組んでいて……」


「待ってくださいよ! 事故は偶然――」


 瑠偉の抗議を片手で遮り、京堂さんは続ける。


「桜……奏さんを見て、どうしてお前は怖がった? 葵さんの声を聞いた時も……お前は俺たちの反応よりも遥かに不自然だった。お前……何か隠しているんじゃないのか?」


「あれは……十年前のことを思い出して……怖かったんです」


「怖い?」


「十年前……日付もきちんとおぼえています。二00一年の一月四日……」


 私は千鶴さんもいる中で、あの時のことを全て話した。奏さんの目が包帯女の目を連想させたから、あの時の恐怖と痛みが蘇ったんだと……だけど、


「本当か? 何か……隠していることがあるんじゃないのか? お前が怯えた理由はわかったが……葵さんの唄声をどこかで聴いたことがあると言ったんだぞ?」


「それは……私にもわからないんです……どこか……どこかで……」


 向けられた無情な視線。それはこの出来事全てに私が関与しているんじゃないか、という疑惑に満ちた視線だった。あの日と同じ……あの放火があった日から浴びせられた視線――。


 火事になった時……君はお父さんとお母さんとは違う所にいたそうだね?


 あの傷物が高神の家に……?


 行方不明になっている高神こうじんありすによる放火では?


 君の発言を証明してくれる人はいないんだなぁ……。


 本当に見たのぉ? 君が……火遊びでもして火事にしたんじゃないのぉ?


 ストロボみたいに弾けるあの時の光景――何も知らないマスコミや警察や世間からの罵詈雑言が私を囲む。


「隠し事なんて……隠し事なんてしてない……! 違う……私は何もしてない……!!」


 私はみんなが好き……殺意なんて一度も抱いたことはない……ないのに……。


「おい……桜……」


「違う……私は綾香さんを殺してなんかいない……!」


 ガタリと椅子を倒し、私は立ち上がった。


「違う……私は何も知らない……この家のことも何も知らない――」


 本当に?


 脳裏に突き刺さった私の言葉――と同時に、また頭の中で、ズウゥゥン、という音がのしかかった。その重さに私は耳を塞いだまましゃがみ込んだ。


 私は何も知らない……何も知らない……あの唄声も奏さんも高神家の火事のことも……知ってるのは包帯女に殺されそうになったことだけ――殺されそうになった……?


 そうだ……私は……あの時……逃げ切れたわけじゃなかった……。


 阿鼻叫喚の中で、包帯女が人を殺す光景と見据えられた恐怖とで半狂乱に近いまま私は屋敷の中を駆け回った。


 襲撃されながらも辛うじて生きていた分家の人の発言から、その包帯女の正体は高神家当主の一人娘である高神ありす(当時は十九歳)だという線が濃厚になった。私はその人をよく知らないけど、母親を早くに亡くしたうえに幼少期から脳に障害を負っていたらしい。しかも事件当日の早朝には失踪していたらしく、誰も彼女のことなんて心配しないまま、或は私のお父さんみたいに失踪を知らないまま本家に集まった分家もいた。その後、何らかの理由で本家の当主も含めた分家の悉くを惨殺しながら放火した、というのが警察の発表だった。


 その高神ありすは私のことも標的とし、逃げる私の前に立ち塞がった。そのまま押し倒された私は後頭部に受けた衝撃の所為で視界が揺れ、首を絞められていることも、赤黒く光る刃のこともわからず、一閃が目前に迫った瞬間――全ての音が聞こえなくなった。世界全ての音が消えたけど、首の苦しみからは解放された。だけど、同時に全身を焼かれるような熱さを感じた。ところが、その熱さはすぐになくなり――気付いた時には病院の中だった。


 そうだ。これが高神家炎上の光景だ。


 高神の屋敷は全焼し、屋敷の使用人や集まっていた次男三男の家族は全員死亡し、当主も死亡という大惨事になった。その後の調査によって、火災が人為的な放火だと判明したうえに、焼死遺体のほとんどが鋭い刃物による刺殺だとわかり、行方も遺体も発見されない高神ありすを重要参考人として警察は発表した。しかし、彼女は今でも見つかっていない。


 あの目で睨まれたから、私はあまり人と目を合わせたくない。どうしてもあの時の、高神ありすの目を思い出してしまうから。その目と奏という人の目が似ていたから、私は玄関で怯えたんだ。


 だけど、また、ズウゥゥン、という音が頭の中で響いた。まだ思い出していないことがある、とでも言いたげな重低音は、私の意識を深淵に誘い――。


「桜……桜ってば!」


 瑠偉の声が勝った。


 不意に甦った欠落の記憶に私はしばらく動けず、瑠偉の声にも反応出来なかった。


「京さん! 桜が家の人と共謀して綾さんのことを殺したって言うんですか!?」


「見損なうな! そんなこと言っていない! 推測だって言っただろう!」


「桜……ほら、ここに」


 瑠偉に起こされ、私の身体はソファーに横たわる。


「大丈夫? アタシのことわかる?」


「……ごめん。あの時のこと……思い出しちゃって……」


 千鶴さんから鎮静剤の必要を訴える声が聞こえたけど、瑠偉が大声でそれを退けてくれた。


 それに対して一礼した千鶴さんは一度サロンから出ると、温かいタオルを持って来てくれた。


「京さん……まだ疑います?」


 瑠偉に一睨みされ、京堂さんは小さく息を吐いた。


「まぁまぁ堂さん、桜ちゃんは関与してないっすよ。今のが演技だとしたら……女優として一生食っていけますって」


「だから、疑ったわけじゃない……! 推測だと本人にも言ったさ……」


「まっ……謝ったほうがいんじゃないすかね?」


 京堂さんと目が合う。


「……桜、ただの推測なんだ。疑っているわけじゃないが……語気が乱暴だったよな。すまない」


 京堂さんは文字通りしょんぼりと頭を下げた。


 憤りはないけど、推測であっても疑いを向けられて楽しい人はいないだろう。私は少しの沈黙を待ってから、小さく頷いた。

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