玲瓏-2

 控えの間に集うヘイトを一心に背負う大淀さん。


 それとは裏腹に、ご機嫌な感じで調度品を眺めている京堂さん。


 綾香さんを心配しているのかどうかわからない京堂さんの背中を一瞥してから、私は目の前の珈琲カップの水面に映る自分の顔を見つめた。


 さっきのメイドさん……一瞬だったから再確認なんて出来ないし、見間違いだったかもしれないけど、何だか不可解な動きが見えた。あれの必然性を感じないし、単純に天龍さんへのアプローチだったとしても、今時あれはないと思う。


 そんなことを思っていた時、瑠偉たちからのヘイトが一段落した大淀さんと目が合った。すると、大淀さんは人差し指を小さく静かに動かして私を呼んだ。声を出さなかったということは、そういうことなんだろう。私は調度品を眺める素振りをしながら大淀さんの隣に立った。


「桜ちゃんさ、さっきのメイドさんの動き……見てたっしょ?」


「大淀さんも……ですか?」


 頷いた大淀さんの声はいつもの調子とは違って、こんな表情も出来るし声も出せるんだ、と思う至極真面目な感じ。面食らうとはこのことなんだろうけど、私はそれを顔にも態度にも出さない。


「……一瞬ですけど、倒れる前に自分の足下を確認してました」


「お見事、さすが桜ちゃんだ。拓ちゃんへのアプローチにしては露骨過ぎるし……どういった意味があるんだろうねぇ」


「……推測出来ますか?」


 どんな推測が出て来るのか待ったけど、大淀さんは肩をすくめただけだった。邪推も含めて推測なんていくらでも出来ると思うけど、何でか今は口にしてくれなかった。


「な〜んか、変な所に逃げ込んじまった気がするぞ? さっさとおいとまするべきかもな」


「そうですね……」


 大淀さんは言わなかったけど、その原因は私にある。正直……あの唄声に気付いてからここに辿り着くまでの記憶が曖昧で、文字通り操り人形みたいになっていた気がする。あの唄声の先にお母さんが待っている……みたいな。


 それに……あの奏という人がとにかく怖かった。穏やかで上品的な感じを心がけていたみたいだけど、声音と言葉の端々で敵意というか高圧的な態度が見え隠れしていた。たぶんだけど、京堂さんもそのことには気付いていたと思う。よりにもよってあの人は包帯女と一緒で目が大きかったから、あの時のことを思い出す。次に出会した時、どうしたらいいんだろう。


 そう思った時、私たちが入って来た引き戸からノックの音がして、転んだメイドさんと同じ服の別のメイドさんを連れた千鶴さんが入って来た。彼は思い思いに室内を見回していた私たちを、看守みたいに冷ややかな目で見、ごほん、とわざとらしい咳払いをした。


「当主様からのお言葉を伝えます。『霧と雪が支配する夜の森はあぶない、不運にもこの家に電話は無いが、主治医が常駐している。怪我人は彼に診てもらい、あとの方は吹雪が止むまで、部屋を用意しましょう』以上です」


 千鶴さんはそこで口を閉じ、再び私たちの顔を見渡した。


「泊めていただけるんですか?」


 京堂さんがそう訊いた。


「当主様の御厚意です。荷物は全て客室棟に運んでありますので、機巧人形の方々は……私に付いてきてください。そちらの女性の方は、主治医がおります医務室へ彼女がお連れします」


 そう言って千鶴さんは一歩後ろに立つ女性を見た。その女性は千鶴さんよりも背が高く、みどりの長い黒髪と柳腰の持ち主だ。どことなく綾香さんに似ている。


「あの……私も同行して構いませんか?」


 綾香さんを抱き起こしながら京堂さんが尋ねると、一瞬、女性は眉を顰めた気がするけど、すぐに頷いた。


「念のため、皆様も医務室へ先に行きましょうか……こちらへ」


 千鶴さんは控えの間から出ると、向かい側にある両開きのドアを開けた。その先にも薄暗い廊下が伸びていて、そっちの床にも各所に行灯が置かれている。廊下の左手には四つの木造ドアが並んでいるけど、千鶴さんは一瞥もせずに進み――私たちは廊下の角に置かれた行灯が浮かべる人影に気付いて足を止めた。


 その人影の正体は案の定、等身大の球体関節人形だった。さっきの寒がり人形とは違って、こっちのは誘惑するみたいに上半身を曝け出した和服姿の球体関節人形だ。男の人は喜びそうだけど、女からすれば露出狂にしか見えない。だけど、その上半身の出来映えは綺麗で、人間をそのまま球体関節人形にしているんじゃないかと思う程に生々しくて新鮮な感じがするし、リアルにしなくていい胸とかも本当に揉めそうだ。


 戦く私たちのことなんて気にもとめないで、千鶴さんは角を曲がってL字状の廊下を進む。その曲がった先の左手にはドアが二つあって、そのうちの一つは一番奥にある。右手には、

 

「あの……この部屋は何ですか?」


 京堂さんが反応した両開きの木製ドアがある。そのドアには己の尾を噛む蛇が直接彫られていて、正面から見ると立体的に見える細工が施されているみたいだ。それと両脇には何故か武者鎧を身に付けて沈黙する球体関節人形が飾られている。明らかに他の部屋とは雰囲気が違う。


「もしかして……ご主人のお部屋ですか? 出来ればご挨拶を……」


「その必要はありません」


 千鶴さんは要望をあっさりときっぱりと断り、そのまま奥にあるドアの前で立ち止まると、


「皆様、先に忠告しておきます」


 そう言いながら私たちへしなやかに向き直った。今の千鶴さんからは見下ろすような威圧感があって、何か言おうとしていた京堂さんは即座に口を閉じた。


「ここは旅館でもホテルでもありません。家の者は遅くとも二十二時には寝室へ引き揚げます。本来でしたら皆様にも従っていただきたいところですが……事情が事情ですので、今夜だけは零時までとしましょう。お風呂はご自由に使っていただいて構いません。二十二時にお食事をお出しいたしますので、二階のサロンにお集まりください」


 千鶴さんはそこで口を閉じた。その沈黙が、私たちの同意を待っているものだとわかったから、みんなは慌ててその意を示した。


 よろしい、と千鶴さんは頷くと、ドアを開けた。その先は今までとは違い、壁も天井も全て木造で出来た廊下が伸びていた。左右の格子には窓ガラスが嵌め込まれているようで、さっきよりも遥かに乱暴になった雪が叩き付けられている。その冷風は入ってこないみたいだけど、ポツン、ポツン、と壁に設置された行灯は照明として心許なく、ほとんど見えない天井の暗闇も相まって寒さの緩和にはなっていないし、不安を煽る嫌な廊下だ。


「行灯をマジで照明として使っているなんてゲーム以外で初めて見たっス……」


 ボソリと呟かれた愛里の言葉に誰も反応を示さない。まるで頭上の闇に吸い込まれてしまった、みたいな感じだ。当然、千鶴さんも反応を示すわけなくて、廊下の角を曲がると階段を下り、左右の行灯で浮かび上がる両引き戸へ向かった。


「こちらが客室棟、皆様のお部屋です」


 両引き戸を開けた千鶴さんは先に中へ入り、歩きながら私たちへ向き直った。


「持ち込まれた荷物は全て廊下のテーブルに運んであります」


 私たちは押し付けるように京堂さんを先頭にして客室棟へ足を踏み入れた。千鶴さんが言っていたように、一文字の長い廊下の一カ所に羊羹テーブルがあって、私たちの荷物が丁寧に乗っていた。


「客室棟……ということは、ここにお客さんが?」


「時々、使うことがあります。今夜のように」


 その時々使うという客室棟の光景は、


「すごい……! ここだけお城みたい……」


 瑠偉の言葉が全て物語っているように、さっきまでの和を全て吹き飛ばす明るい西洋が広がっていた。床には深紅の絨毯が敷かれ、窓が一つも無い城壁のような壁の左手に並ぶ三つの木造ドア、天井からは小さいながらも豪華なシャンデリアがそれぞれのドアを見下ろしている。あまりにも突然な様変わりに私たちは荷物のことなんて忘れてただただ圧倒されるしか出来なかった。


 すると、今まで一言も発さなかったメイドさんが、後ろから声をあげた。


「まずは医務室へ」


 それは冷たく、無機質な声。


 一瞬だけど、私はこのメイドさんの中身が機械なんじゃないかと本気で思った。それはたぶんみんなも一緒で、人間らしさをどこかに忘れてきてしまったような不気味さに気圧されてすぐに千鶴さんを見た。


「ここからは彼女の指示に従ってください」


 千鶴さんはそう言うと、その場から一歩退いた。それと入れ代わるようにメイドさんが私たちの前に立ち、


「医務室はこちらです」


 メイドさんが行くのは一文字の廊下の奥。角を曲がった先の左手には二つのドアがあるけどメイドさんは何も言わずに正面のドアをノックした。すると、中から穏やかそうな「どうぞ」と言う声が聞こえて来た。


「お入りください」


 横へ退いたメイドさんに促されるまま、先頭の京堂さんがドアを開けた。


「やあ、吹雪の中をよく生き抜いてこられたね。丈夫な機巧人形さんたちだ」


 医務室に入った私たちを歓迎してくれたのは、その優しい声だったけれど、私たちの目に真っ先に飛び込んで来たのは大きなフランス窓の間に掛けられた巨大なタペストリーだった。


 そのタペストリーが描くのは、蛇が己の尾を噛んでいる絵――長くて大きな蛇が嘆き悲しむたくさんの群衆の中をすり抜け、天に向かって高々と伸ばされた自らの尾に噛み付いている光景だ。


 あたかも入室者に見せつけるようにして掛けられたタペストリーの美しさと精巧さは、京堂さんと私、天龍さんの目を容易く奪った。控えの間にあった近江の箪笥といい、このタペストリーといい、この豪邸の財力も当主も何者なんだろう。


 見蕩れて動けない私たちに呆れたのか、背後からメイドさんの咳払いが聞こえた。それでようやく我に返った私や京堂さんは振り返った。


「先生から手当をお受けください。失礼します」


 頭を垂れてメイドさんは医務室から出て行った。


「さぁさぁ、そちらの背負われている女性を診察台に下ろしてくれるかな」


「ああっ……すいません」


 京堂さんは言われた通りに綾香さんを診察台に寝かせた。


 その時になって、ようやく私は室内とその声の主を見た。


 医務室の床は大理石みたいな白いタイルが敷き詰められ、壁紙は落ち着いた白、質素な机と様々な薬品が収められた棚と診察台が並び、何故か一部の棚の横には同等の高さを持つ絵画が飾られている。


 その中にある診察台の横に立つのは、蒼いパジャマの上に草臥れた白衣を羽織った男性だ。年齢はたぶんだけど三十の中頃で、牛乳瓶の底みたいな眼鏡にぼさぼさの短髪、痩せた顔には大人の余裕と優しげな笑みが浮かんでいる。それと、右耳にはイヤホンマイクを付けている。みんな誰と連絡を取り合ってるんだろう。


「さてさて……どのようかな……」


 主治医さんは私たちが食い入るように見守る中、テキパキと綾香さんの診断を進めていく。その終わりに、主治医さんは、ふむ、と顎を擦り、私たちに向き直った。その顔は渋く、釈然としない、とでも言いたげに眉を顰めている。


「交通事故……だとは聞いたよ? 彼女の額にはぶつけた痕があるけれど……脳震盪と脳挫傷の可能性がある、と判断していいものか迷っているよ……」


「迷う……ですか?」


「額をぶつけたことは確かのようだが……血腫が見当たらないし、脈も呼吸も健康状態そのものなんだ。精密検査が必要だが……ここにそこまでの精密機器は無いんだよ、必要もないしね……」


「必要ない? 雪に閉ざされる屋敷なのに?」


 黙って薬品棚を見ていた大淀さんが声高に言った。それに対して主治医さんは困ったようにぼさぼさの頭を掻いた。


「ああ……ここの住人は頗る健康でね。主治医といっても緊迫した状況には一度も出会したことがないんだよ」


「へぇ……そいつぁ医者として面白くないっすね」


「いやいや、包帯所なんかは大変だったからね……この屋敷の生活は天国だよ」


 うん?


 私は首を捻った。一瞬、聞き慣れない言葉がよぎった気がする。


「天国ねぇ……」


「あの……綾香の命に別状は」


 主治医さんの横で一部始終を凝視していた京堂さんが大淀さんの軽口を遮った。綾香さんの容態を知りたいのは私たちも同じ気持ちだと思うけど、京堂さんは私たちよりも思うことはあるんだろう。主治医さんに詰め寄っている。


「別状はないが……脳の方だと精密な検査を受けないといけないから……今は安静にして様子をみるしかないなぁ――」


 そう主治医さんが口にした時――綾香さんがゆっくりと上半身を起こした。操り人形みたいにゆらゆらと頭を前後に揺らす不気味さに、私たちは後退りした。


「綾香……?」


 その動きに気付いた京堂さんは、綾香さんの肩を掴んで動きを止めた。私も綾香さんに近付き、その綺麗な顔を覗き込んだ。起き方はともかく意識を取り戻したんだと思ったけど、綾香さんの目は半開きでどちらも焦点が合っていない。


「えっ? 起きた……? ああっ! ダメだよ、寝かせて」


 それに従って共同さんは綾香さんを寝かせた。その間に主治医さんは棚の一つに駆け寄ると、中から綺麗に包装されたタオルを取り出してお湯で濡らし始めた。


「誰か彼女に呼びかけてくれるかい? もちろん優しくね」


 小さな湯気立つタオルを受け取った京堂さんは、それを乗せながら綾香さんに呼びかけ始めた。


「綾香……! 俺のことがわかるか?」


「…………」


「もう一度……」


「綾香さん……!」


「綾さん!」


「綾香……! 俺だよ、明夫だ……!」


 私たちも駆け寄り、一丸となって呼びかけた。すると、それが功を成したのか、綾香さんの虚ろな目が京堂さんを見た。


「あき……」


「そうだ、俺だよ……綾香……」


 綾香さんが辛うじて反応したため、絶えず張り詰めていた緊張の糸が途切れたのか、京堂さんは泣き出しそうな顔をしたままその場に頽れてしまった。


「よかった……」


「どこ……ここ……」


 ゆっくりと横を向き、綾香さんは視線を私たちに巡らせる。


「アヤ姉さん、ここは――」


「ああ、お嬢さん、ちょっと待ってくれ」


 綾香さんの問いに答えようとした愛里の声を主治医さんが遮った。


「まずは、日付、時間は……ダメか。自分と君たちの名前がわかるか訊いてくれるかい?」


 その指示に従い、京堂さんが代表してゆっくりと質問を繰り返す。そのうちに綾香さんの視線も安定していき、質問に答えることが出来るようになってきた。事故の瞬間はおぼえていないみたいだけど、ここまでの記憶はしっかりとあるみたい。


「いいね、それなら症状を訊いてくれるかい?」


「はい。綾香、どこか痛むか?」


「げきつう……じゃないけど、いたい……あたま……」


「ふぅむ……やはり脳震盪の可能性が高いね。とにかく……精密検査の必要がある。とはいえ、この吹雪だ……救急車は来れないな……」


「先生……どうすれば……」


「うん。幸いにも記憶障害はなさそうだし……とにかく明日まで絶対安静だ。朝になって雪が止んでいれば病院に運ぼう」


 それには同意だけど、天龍さんが携帯電話を見ながら不安げに言った。


「しかし……携帯電話は圏外です。救急車は呼べませんよ」


「携帯? いや、ここの使用人の一人が機巧山に精通しているから、雪が止んでいれば麓まで下れるよ」


「そうですか……」


「どのみち……ここにある機器ではどうすることも出来ない……すまないね」


 申し訳無さそうに頭を下げる主治医さんに、京堂さんも頭を下げた。


「いえ、突然押し掛けて来た我々を診ていただけるだけで……感謝の言葉もありません」


「お嬢さん、今日は絶対に動いてはいけませんよ? お小水の場合は、誰かの付き添いを頼んでくださいね? 一人の行動は禁止ですから」


 綾香さんはゆっくりと頷き、身体を横にした。


「さて……他の方の怪我を診ていきましょうか」


 主治医さんはそう言うと、端に並んでいた愛里を呼ぼうとして――何かを思い出したかのように私たちを見渡した。


「そういえば……まだあなた方の名前を訊いていませんでしたね」


「あっ! 申し訳ありません、失礼を」


「ああ、いえいえ、ご友人の事故と遭難となれば余裕はなかなか持てないでしょう。こちらこそ失礼を」


 京堂さんは主治医さんに一礼し、千鶴さんにも渡した名刺を差し出す。


「ほほお……機巧人形劇団ですか」


 主治医さんは差し出された名刺を見て、人懐っこい顔に満面な笑みを浮かべた。


「どういった劇団なのか伺っても?」


「はい、私の劇団は……」


 そう言って、京堂さんは自らが立ち上げた劇団のことを話し始めた。




 機巧人形劇団。


 その旗揚げは今から六年前の春だと私は聞いている。京堂さんと綾香さんが大学を卒業してから一年後のこと。


 京堂さんはかねてから演劇や脚本制作が好きらしく、中学高校大学時代には在席していた演劇部の脚本を担当していたという。その内容については知らないけど、部員であった綾香さんも大淀さんも、京堂さんの演技、演出、脚本を絶賛していた。それは文化祭を見に来ていた保護者や一般客、教員などからも頗る好評であったらしく、最後の高校生活にはその卓越した脚本がプロの目に止まり、雑誌で紹介されたこともあったらしい。


 その後、演劇に情熱を捧げている叔父さんや、プロから多額の援助を受けて、京堂さんは自らの劇団を主宰することになった。その旗揚げ時から劇団員として所属しているのは、綾香さんと大淀さんだ。その後の劇団は、小さいながらも順調に公演を続け、知名度を上げていき、今に至る。




 京堂さんの説明が終わり、主治医さんは「ふむふむ」と声をあげた。


「なるほど、ということは……地方公演にいらっしゃったので?」


「いえ、こちらには……その、合宿といいますか」


 京堂さんは手短に、ここまで来た経緯を話す。


「……なるほど、そういった経緯でここまで……。機巧人形とはいえ、皆さん生きていてよかった。今夜はゆっくりと身体を休めてくださいね」


「ありがとうございます」


 深々と頭を垂れた京堂さんは、私たちを順に紹介していった。その途中、京堂さんは私を紹介し、少しだけ奇妙な間を置いたけど、すぐに紹介へ戻った。それが何の間だったのか気になったけど、私は何も言わなかった。


「申し遅れました、私はこの〝リュシテン邸〟主人の主治医を勤めております十文字誠也じゅうもんじせいやです」


「誠也さん? 主治医ってことはこの家には長いんすね?」


「そうだ……ね、今年の春で六年目かな」


 ここに六年もいるんだ……。そう思ったのは大淀さんも同じみたいで、続けて何かを口にしようとしたみたいだけど、


「あの、リュシテン邸と言われましたが……このお屋敷は外国の方が所有しているんですか?」


 何が琴線に触れたのかわからないけど、京堂さんは目を輝かせて十文字さんに訊いた。話を遮られた大淀さんは不満を示すように唇を尖らせたけど、京堂さんは夢中で見てもいない。


 そういえば、前に綾香さんが言っていたけど、京堂さんは学生時代からずっと精神的な世界――所謂オカルト的なことに熱心で、大学ではオカルトに傾倒している教授の講義にも夢中だったらしい。それなら、この辺鄙な峠に存在する屋敷とは風変わりな家人に興味があるのも仕方ないのかもしれない。


「そうだよ、と言ってもハーフだけどね。ここはこの峠を気に入った現当主のリュシテン・けい氏が十年前に建てさせたお屋敷なんだよ。君たちを案内していたのは、執事の古林千鶴こりんちづる。さっきまでいた女性はレディスメイドの一人、久留米𣇵くるめさやかだ。料理人でもあるんだよ?」


 話しながらも十文字さんはテキパキと私たちの手当を行う。


「最初見た時は驚いたっスよ、森の中に建っているなんて……まるっきり〝嵐の山荘〟なんスから……」


 その言葉に十文字さんは楽しげに笑った。


「はは、違いない評価だ。君たち以外にもそう言って見に来る人がたまにいるよ。他にも君たちのように迷い込んで来て……泊めたこともある」


「マジっスか……この状況じゃ洒落にならないっスよ」


 愛里はまるで自分のおじいちゃんと話すみたいに十文字さんと親しくおしゃべりを続ける。彼女の言葉遣いを度々注意していた京堂さんだけど、疲れと安堵からか今は何も言わない。


「さぁ、愛里さんはこれで大丈夫だ。最後はお嬢さんかな?」


 診察椅子から退いた愛里の次は私だけど、


「私は平気です」


「いやいや……手甲の傷を見たら大丈夫とは言わないよ」


 グイ、と強引に腕を掴まれた私は診察椅子に座らされ、十文字さんは手甲をじっくりと診ていく。手甲の傷に熱心な十文字さんの頭頂部を見ながら、私はずっと気になっていたことの一つを訊く。


「十文字さん、ここを見つけるのに唄声の導きがあったんですけど……この家の人の唄声ですか?」


「唄声?」


「ああ、そうでした。私たちをここに導いてくれたのは、このお屋敷から聞こえてきた唄声のおかげなんですよ」


「唄声……いや、誰も唄ってなんかいなかったな……。奏さんは歌を嫌っているし……あおいさんは……」


「……葵さん?」


 唄声の主かと思われる人の名前が出たから、私は十文字さんへ続きを求めたけど、


「……この傷も放っておいたら危険だよ? もし細菌が入ったら命に関わることもあるんだから……」


 何故か話を逸らされてしまった。まるで言ってはいけないことを口にしてしまった、みたいな雰囲気が十文字さんから漂い、その話題は突き放されてしまった。


「さぁ……これでいいだろう」


 気まずい空気のまま私の手当ては終わり、十文字さんはまた優しい笑みを浮かべるともう一度私たちを見渡した。


「もう大丈夫かな? 痛みを我慢している悪い人形さんはいないね?」


 私たちは互いの顔を見合って頷いた。


「うんうん、健康が一番だよ――」


 大きく頷いていた十文字さんが急にイヤホンマイクへ片手を伸ばした。誰と連絡を取り合っているんだろう……。


「とりあえず……彼女は診察用のベッドで寝ていてもらおうかな。医務室の入り口だけは開けておくから、君が側にいてあげなさい」


「……はい、綾香には俺が付き添います」


「京堂くん、何かあったらそこの受話器を取ってくれ。私の寝室に直通だからね」


 十文字さんは眼鏡を拭きながら立ち上がり、聴診器とかを入れたトランクを持った。


「さて、千鶴くんが廊下で待っているだろうから、他の人たちは一緒に行こうか」


 ほらほら、と十文字さんに促された私たちは天龍さんを先頭に医務室を出て角を曲がった。その先には千鶴さんが立っていて、どうやら一歩も動かず私たちを待っていたみたいだ。


「誠也さん、状況は」


「大丈夫、至極健康な機巧人形さんたちだよ」


「そうですか。ありがとうございます」


 綺麗な一礼を披露した千鶴さんに対して、十文字さんは笑顔で片手をあげると客室棟から出て行った。

 

「皆様、この棟には客室が一階に三部屋、二階に三部屋、お手洗いが各階に一つずつ、浴室が一階にあります。どれも客人向けの物ばかりですので、客室にあるもの、二階のサロンも常識の範囲でならご自由に使っていただいて構いません。後ほどサロンへお食事をお持ちしますので、その際はサロンへお集りください。それでは」


 私たちへ大人の一礼を披露し、千鶴さんも客室棟から静謐の渡り廊下へ出た。だけど、千鶴さんはゆっくりと自動で閉まる両引き戸を抜けた直後に立ち止まると、そのまま静かに振り返った。両引き戸は止まらずにゆっくりと千鶴さんへ近付き、


「忠告した通り、零時には自室に引き揚げてくださいますよう……お願いいたします」


 そう言った千鶴さんの姿を両引き戸はピシャリと消した。その最後まで、千鶴さんは能面を外すことはなかった。


「いやはや、メシにまでありつけるとは驚きだねぇ」


 両引き戸がピシャリと閉まってから少しして、大淀さんが肩をすくめながら言った。それには瑠偉も愛里も天龍さんも私も振り付けされたみたいに頷いた。突然の来訪者にここまでの待遇を与えてくれる家なんて滅多にないと思う。


「そんじゃ、まぁ……部屋を決めますか」


 それを合図に私たちは部屋を決めた。一階は私と瑠偉と京堂さん。二階は愛里と大淀さんと天龍さんだ。その後はそれぞれの荷物を回収してサロンへ集まることになったんだけど、


「うぎゃあ!!」


 意気揚々と自分の荷物を取りに行った愛里が悲鳴をあげて尻餅をついた。何が起きたのかと振り返った私たちへ愛里は言葉じゃなくて、荷物が置かれた羊羹テーブルを何度も指差した。ゴキブリでもいたのかと私はその指の先へ視線を送り――。


「人形……?」


 まだ積まれたままの私たちの荷物の中に埋もれるようにしてこっちを見ているのは、妙に生々しい顔付きを与えられた市松人形だ。乱れたおかっぱからして愛里の荷物が上に乗っていたみたいだ。


「これは確かに……驚くね……」


 尻餅をつくのも無理はないと思う。京堂さんだったとしても、荷物を退かした先に人形の生首が突き出していたら驚くだろう。


「今度は市松人形……驚かすつもりかねぇ?」


 私たちの荷物を床に下ろした大淀さんは、駆け寄って来た天龍さんと一緒に市松人形をじろじろと見下ろした。どうやら固定されているものじゃないみたいで、大淀さんはカラカラと笑いながらテーブルの下に置いた。


「災難だったねぇ、愛ちゃん。これでもう怖くないでちゅよ〜?」


「ちょっと……大淀さん……」


「違うんスよ……驚きはしたっスけど……わたしが驚いたのはその人形がこっちに振り返ったからなんスよ……!」


「はぁ?」


「わたしの荷物を持ち上げたら……そいつが首だけをこっちに向けたんスよ……!」


「冗談が好きだなぁ――」


「んな冗談を言うわけないっしょ!? 莫迦なんスか?!」


「先輩に対してなんちゅう言い草よ〜? 傷付いちゃうな〜」


「まぁまぁ……落ち着いてくださいよ、愛里さんも、ね?」


 天龍さんが仲裁に入り、憤慨気味だった愛里はようやく落ち着いてくれた。宥められながら二階へ上がって行くその背中を、大淀さんは嘲笑みたいな笑みを浮かべながら付いて行った。


「……何であんな場所に人形があったんだと思う?」


 私の分の荷物も持って来てくれた瑠偉の問い掛け。


「埋もれてたから……あそこに置いてあった人形を退かさずに荷物を置いた、か……人形自身が自分から埋まりに行ったのか……」


「ちょっと……あれが動くわけないじゃん」


「綾香さんが事故を起こした原因……動く人形だよ……?」


「…………」


「じゃあ……荷物を置いてサロンに行こ?」


 嫌な沈黙が瑠偉から出たから、私は話題を変えて自分たちの部屋に向かった。


 私が選んだのは医務室から一番近い端の部屋で、隣にはトイレと浴室がある。今はとりあえず自室のことなんてどうでもいいから、放り投げるみたいに自分の荷物を置いて、さっさと廊下に戻った。


「部屋、どうだった?」


「ホテルみたいだったよ」


 私の返しはきっと瑠偉が望んだものじゃないだろうけど、どうせ上に行ったら愛里が騒いでいるだろうから言わなかった。


 足音が響かない絨毯を踏み締めながら、私と瑠偉は渡り廊下へ通じる両引き戸の横へ伸びる大きな階段を上がる。その踊り場には腰ほどの展示ケースが置かれ、中の二段目には何故か球体関節人形の四肢とか頭とかが陳列されていて、一段目には安置されているかのように等身大の球体関節人形が眠っている。女性型みたいだけど、眠っているだけなのに凄く綺麗だ。


「ここにも人形か……人形屋敷?」


 瑠偉が眉を顰めた相手は、展示ケースの上に腰掛けている二体の小さな球体関節人形だ。どっちもゴスロリ風の衣装を身に纏っていて綺麗だけど、ケースに入れられているものと入れられていないものの違いはなんだろう。


 その人形たちに見送られながら二階へ上がると、そこは一階とは逆の位置に部屋があって、私から見て右手には四つのドアが並び、一番奥には一階にもあった配膳用のエレベーターのドアがある。左手には両開きの大きなドアがあって、中から大淀さんが出て来た。


「やぁやぁ、お二人さん。サロンはこちらですよっと」


 手を振る大淀さんに応えてサロンに近付いた時、配膳用のエレベーターが開いて久留米さんがワゴンと一緒に姿を現した。


「皆様、お食事をお持ちしました。サロンへお集りください」


 久留米さんも相変わらずの能面と機械対応のまま、ガラガラとワゴンを押して私たちをサロンへ促す。


「わぁ……ここも豪華なんだ」


 大淀さんに続いて中へ入った瑠偉の感想を追いかけて、私もサロンに入った。


 サロンと聞いてどんな部屋なのか想像していたけど、中に入った瞬間に私の陳腐な想像はあっさりと吹き飛ばされた。だけど、それを凝視する暇はなく、私は後ろからガラガラと迫る久留米さんに圧される形で、部屋の中心に置かれた大きな羊羹テーブルに腰を下ろした。きっちりと五人分の席が用意されたテーブルに。


「お手伝いしますか?」


「いえ、結構です」


 瑠偉からの提案を断り、久留米さんはワゴンに乗せられていた食器とか香ばしい大鍋とかをキビキビとテーブルに乗せていく。確かにその動きは他者に介入されたら乱れそうだ。


「あの、十文字さんから久留米さんがこのお屋敷の料理人だと聞きました。もしかしてどこかの料理店で働いていたんですか?」


 機械的な動きで夕食の支度を繰り広げる久留米さんに圧倒されたのか、天龍さんは今も首から下げているカメラを触りながらそう言ったけど、


「いいえ。料理はここに来てから会得しました」


 久留米さんは特に反応を示すことなく、キビキビと夕食を並べ終えた。


「夕食は以上です」


「あの……京堂さんたちは?」


「京堂様、綾波様は下の医務室でお食事中です。ご心配はいりません。食後はこのままで構いません。後ほど片付けますので。それでは」


 そう言って私たちへ機械的な一礼をした久留米さんは、足音を立てずにサロンから出て行った。


 取りつく島もないうえに人間らしさをまるで見せない久留米さんの迫力とは裏腹に、テーブルに並べられた夕食はどれも湯気と香りが立ってお腹を刺激する。今すぐにでもかじりつきたい衝動はあるけど、私も瑠偉も愛里も天龍さんも手を付けない。すると、瑠偉が私たちの顔を見渡しながら前屈みになった。


「どう……する?」


 夕食を出してくれたことにも感謝一択だけど、親切にされ過ぎて怖いというか、ここに至るまでの家の人の対応も相まって少しだけ信用が出来ないというか……。


「……いやはや、愛想がないのは執事と料理人の嗜みなのかねぇ?」


 嫌な沈黙を破ってくれたのは大淀さんだ。愛里もそれに続く。


「確かに……愛想があったのはセイヤさんと珈琲をくれたメイドさんぐらいっスよね」


「それでもほら……温かい食事にベッドにお風呂まで貸してもらえるんですよ? 素直にいただきましょうよ」


「そっスよね。食べましょう」


 愛里はそう言うと、それぞれの箸とナイフとフォークの中心に置かれたおしぼりに手を伸ばし、「熱っ……!!」と、それを放り投げた。そのおしぼりは大淀さんの顔に飛び込み、悶絶と一緒に大淀さんを椅子から投げ出させた。私も触れてみたけど、確かに熱い。迂闊に掴めば私も放り投げていたと思う。


「あれぇ……? あの機械メイドさんは普通に触っていたと思うけどなぁ……」


「まぁまぁ……ほら、美味しそうな料理ですよ」


「出鼻を挫かれたっスよ……」


 拾い上げたおしぼりでどうにか両手を拭いた愛里は、ほらほら、と促す天龍さんに従ってナイフとフォークを手に取ったけど、


「……何か盛られているかもねぇ」


 その不吉な言葉にナイフをぼとりと落とした。


 この状況で何よりも言ってはいけない言葉に私はおろか全員の視線が大淀さんへ突き刺さる。もちろん、それはきっと道化な大淀さんなりの緊張ほぐし……なんだろうけど、本当の禁忌に触れるようなことを道化はしないと思う。


「はい……! 食べましょう! ご馳走ですよ!」


 長い沈黙の後、天龍さんが大きな声と一緒にテーブルを叩いた。それを合図に、私たちはそれぞれの好みに合わせて料理に手を付けた。


 白で統一された食器に盛られたサラダ、漬け物、飯櫃に入れられた白米、ダイス状に切られた牛肉、香ばしい豚汁がつまった大鍋に刺身……突然の来客に出せるような量じゃないと思うけど、私たちは何をしゃべるでもなく食べていった。


「おお、灰皿まで用意してくれたなんて」


 ご馳走が終わりに近付いた時、大淀さんがテーブルの端に置かれていた小さな灰皿に気付いて手を伸ばした。


「隅で吸ってよね」


「隅でお願いしまっス」


 双子みたいな掛け合いで瑠偉と愛里が煙草を牽制した。


「ご馳走を食べて、余韻に浸っていたいんだから頼みまスよ。サクラ先輩もいるんスからね」


「はい……」


 大淀さんは灰皿を連れて広いサロンの隅で大人しく丸まってくれた。


 小さく見える背中を見送り、私は気になっていたテーブルの下を覗き込んだ。すると案の定、足下の絨毯には考えていた通りのものがあった。だけど、その理由がわからない。


「ふう……」と小さく息を吐いた時、天龍さんと目が合った。すると、彼はメガネの位置を直して頷いた。


「美味しかったですね、まさかここまで面倒をみてくれるなんて思いもしませんでしたね」


 確かに美味しかったけど、酷評することがあるのなら、そては間違いなく味付けだったと私は思う。漬け物は濃過ぎたり薄過ぎたり、豚汁は濃くて、ステーキのデミグラスは何だか薄味だった。そのことを指摘すると、大淀さんも愛里も同意した。


「確かに……味付けは極端だったスよね」


「俺っちは濃いのが好きだから良かったけどぉ?」


「私はどちらでもないですけど……味のばらつきはちょっと……」


 そんなことを話していると、サラダを取っていた瑠偉が「あんたら……」とかぶりをふった。それは瑠偉のお説教が始まる合図だ。


「突然の来客に四苦八苦するのは当然。すなわち……限られた食材でおもてなしをするしかないの。調味料とかは限られていたんだと思うけど?」


「そうかい? 雪に閉ざされるってわかってるなら、買い溜めはしてあるだろうに」


「それは……来客者の分なんて想定していないからでしょ」


「そうかい? 客室があるのなら、誰かが尋ねてくるのを想定してるだろうに。それに、あの主治医さんも言ってたと思うけどなぁ? 時折迷い込んで来る客がいるってね。大方、あのメイドさんは味音痴ってとこかな」


「作ってもらっておいて……」


 論破されてかぶりをふる瑠偉に対し、大淀さんはニヒヒ、と下品に笑った。


 結局、味付けに関しては久留米さんの好みか味音痴なんだろうと結論が出て、それ以上の議題にはならなかった。それよりも、


「ねぇ、瑠偉……味付け以外に気になること……ない?」


「うん? 何かあった?」


 論破された影響からか、瑠偉は眉を顰めたまま私と目を合わした。


「サクラ先輩、それって椅子のことっスか?」


 あっ……気付いてたんだ。


 意外なことに、いの一番に反応したのは愛里だった。


「瑠偉、テーブルを見て……変な光景って感じがしない?」


 私がそう言うと、瑠偉は羊羹テーブルの端から端まで凝視してから「ああ……」と、小さく声をあげた。


「五人で座るには……広過ぎる?」


 その通りで、私たちが座っている木製の黒い椅子なら羊羹テーブルの左右に十脚は置ける。それだのに、ここには五脚しかない。


「わざわざ椅子を五脚だけにした理由がわからないね……。べつにそのままでもいいのに……」


「ここって食堂じゃないし……最初から置いてあったんじゃなくて、別の所から持って来たのかもよ? それにさ」


 サロンを見渡す瑠偉に続いて、私も改めてサロンを見渡した。


 二十畳……よりも広そうなサロンには、廊下と同じ深紅の絨毯が敷かれていて、中心には件の羊羹テーブル、奥には足下に届きそうなほど大きいフランス窓が三つ、その二つの隙間には医務室にあったものと同等の大きさを持つタペストリー、重厚な展示ケースに入れられた球体関節人形、ビリヤード台、大きなピアノ、将棋が置かれている三畳……これだけあってもまだ余裕がある部屋なのに、妙に圧迫感があるのはこの羊羹テーブルの所為だろうか。


「狭く感じるでしょ? これが無いならこの部屋だって広くなるよ」


 うんうん、と頷く瑠偉に向けて、私は純白のテーブルクロスを捲ってみせた。その意図に気付いてくれたのか、瑠偉はテーブルの下を覗き込み――。


「脚の跡……?」


 テーブルの下には、絨毯にくっきりと刻まれた椅子の跡がいくつもある。それはつまり、ここにずっと常駐していた十脚をわざわざ五脚にして、半分は片付けたということだ。


「うぅ〜ん、確かに椅子を片付ける意味はないよなぁ?」


「でも大淀さん……料理はバイキング形式でしたし、五人しかいないなら配膳も椅子も中心に集中させたいというのは当然では?」


「だとしたら中心に集まれって言えるっしょ〜? 人のことを骸だ何だって言える連中なのに、何でそこだけ引っ込んじゃうのよ」


 断定はしないけどたぶん……大淀さんも私と同じ気持ちなんだと思う。客室も綾香さんを除いて六人分あるし、何だか家の人の対応が〝最初から私たちが来ることを前提に準備していた〟ような気がする。もちろん考え過ぎの被害妄想という可能性もあるけど、何だか不安になる。


「ねぇ……この家の考察みたいなことやめない……? ただでさえ死にかけたのに……今度は家のことで不安になりたくないんですけど……」


 サラダを口に運んでいた手を止めて、瑠偉は怒ったみたいにかぶりをふった。


「そうっスよね……推理小説や映画じゃあるまいし……」


 これ以上家のことは話さない。そのことに愛里も頷いた。


「まぁ……愛里はホラーが苦手だからね」


「ええ、だってこの状況は嵐の山荘っスよ? 怪しげな住人たち、猟奇殺人、炎上する屋敷、脚本を頼まれたとしても願い下げっス」


 私たちが出会した奇妙な出来事は、唄声をごまかす愛想のない住人、イヤホンマイクの出所、出て来ない当主様、人形の仮面を付けた謎の女性に羊羹テーブルと椅子……一体この屋敷は何なんだろう。


「なぁ、桜ちゃん、こっち来てみ〜」


 見ると大淀さんはいつの間にかタペストリーの手前に立っていて、私に向かって手招きしている。


「……何ですか」


 席を立って横に並んだ私は大淀さんを見たけど、彼は何も言わずに顎でタペストリーを指し示した。


「ああ……ここもウロボロスの蛇ですね」


 医務室にあったものは群衆の中をすり抜けるウロボロスの蛇だったけど、サロンにあるのは二つとも背景が黒塗りかつ背中合わせになった美しい男女が描かれている。近くで見ると瓜二つだから、双子ということなんだろう。その双子の男女には陰部を隠すようにウロボロスの蛇が巻き付いている。双子はとにかく綺麗だけど、医務室のものと同じで感銘を与えるような感じじゃない。


「俺っちは竜の方が好きねぇ。唆した蛇よりよっぽど高貴なお方じゃん?」


 唆した蛇――アダムとイヴのことを言ってるのかな。


「どうしてリュシテン邸はウロボロスの蛇ばかりなんですかね……」


「死と再生、不老不死の象徴……君らの言う通り危ない住人たちかもなぁ」


 大淀さんは隠してくれていた煙草を灰皿に押し付けながら、タペストリーを熱心に睨みつけている、気がする。


「長生きのどこか良いんだか……罰ゲームの間違いだろ。前の堂さんなら同じこと言うんだけどなぁ……」


 吐き捨てるようにそう言った大淀さんは、ひょこひょことテーブルに戻って行った。


 大淀さんみたいに飄々と人生を楽しんでいるような人でも何か生について思うところがあるんだろうか。前の堂さん、という発言も気になる。その深意を知りたくて、私は大淀さんを呼び止めようとしたけど、一瞬の躊躇いの跡に退いた。大淀車という役者と知り合ってまだ三年しか経っていないし、プライベートをほとんど知らないのに、そこまで深いことを訊けるほどに関係は深くない。


 私はかぶりをふり、食後の運動としてサロンの中をうろついた。フランス窓から外を覗き込んでみると、吹雪は弱まるどころか勢力を拡大して窓を叩き割ろうと熱心だ。明日の朝になったら止んでいる……という希望はないかもしれない。


 そんな不安を連れつつ、私はキューを持ったままビリヤード台を見下ろしている天龍さんの横に並んだ。誰かが手入れをしているのか、その外見は新品みたいに綺麗だ。だけど、そこに球は七個しかない。


「手球はあるから……遊ぶことは出来ますね」


 私がそう言うと、天龍さんは驚いたように振り返った。


「桜さん……ビリヤード出来るんですか?」


「ええ、家族で好きなんですよ……」


 一番ハマっているのはお父さんだ。懇意にしている居酒屋さんに何故かビリヤード台があり、朝も夜もビリヤード好きの人たちが集まっていた。お父さんも私たちを連れてしょっちゅう入り浸っていたから私もある程度は出来る。だけど、家族の中で一番強いのは妹だ。


「あっビリヤードやるの?」


 私がキューを持つと、それに気付いた瑠偉が口を拭きながら席を立った。


「愛里、先にお風呂入ってもいいよ? あたしもビリヤードに加わるからさ」


「本当っスか? 十二時まで……あと一時間以上あるっスよね」


 愛里は勢い良く立ち上がり、自室に戻って行った。


 その後ろ姿を見送り、私たちは束の間のビリヤードに興じた。

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