第16話 紫亀先生 2
「おはよう、桜子! ね、聞いた? 佐山先生の事」
朝一番に真理子のキンキン声に頭を殴られたような顔で桜子は真理子を振り返った。
「おはよ……」
「どうしたの? 酷い顔よ?」
「あーうん。ちょっと疲れて、え、佐山先生がどうしたの?」
「何か入院したんだって、昨日学校で倒れたとかで」
「倒れた? 入院?」
「そうみたいよ」
「……」
桜子はふーんと考え込んで机にうつぶした。
朝、目が覚めたら学生寮の自分の部屋だった。
もちろん、昨日の事は全て覚えている。最後の記憶は歴史の紫亀という教師が亀に変化して、そして自分は赤狼にお姫様抱っこされて天井に……
「あれ? 天井にぶつかったんだっけ?」
それが夢でなかったのは確実だった。
なぜなら目覚めた自分のベッドの中で桜子は制服のままだったし、しかも、その制服はドロドロに汚れていたからだった。
「今日は早く帰って制服をクリーニングに持って行って、布団のシーツと枕カバーを洗って……」
そんな事をつぶやいている内に始業のチャイムが鳴り生徒達はそれぞれ席についたところでがらっと教室のドアが開いた。
「紫亀先生……」
紫亀がのっそりのっそりと教室に入ってきて、
「えー、みんなも耳にしてるかもやけど、佐山先生がしばらく学校を休む事になりました」
と言った。
ザワザワザと教室中がざわめき、生徒達は自分が耳にした噂を口々に話したりした。
紫亀は生徒達が静かになるのを待ってから、
「先生はみんなが静かになるまで五分待ちました。えー、しばらく先生が皆さんの担任をします。みなさんも今、三年生で高等部へ進むための進学試験を控えています。皆さんが一生懸命に勉強や部活動を頑張る事が佐山先生のへの何よりのお便りです。しっかりがんばりましょう。ほな、出席を取るから~~えーと、青井」
と紫亀は学級誌を開いて一番目の生徒の名前を呼んだ。
「はい」
「赤狼」
「……」
「赤狼? 休みかいな。次、井上」
「はい」
桜子は振り返って後方の席を見た。
確かに赤狼の姿はない。
ホームルームの時間が終わり、紫亀が教室を出て行くと桜子は後を追って廊下に出た。
「紫亀先生」
のっそりのっそり歩く紫亀がゆっくりと振り返った。
「土御門桜子君、何か?」
「あの、昨日はどうも……」
と言いかけた桜子の台詞を遮るように紫亀が、
「ああ、君、昼休みに社会科準備室に教材を取りに来てくれるか? 五時間目に使うから、頼んだでぇ」
と言った。
「あ、はい」
と桜子が答えると紫亀は意味ありげな笑みを見せて、またのっそりのっそりと廊下を歩いて行った。
「失礼します」
と小さくドアをノックしてから桜子は社会科準備室の引き戸を開けた。
中には社会科の先生の机と椅子がいくつか並んでおり、キャビネットには書類の束、窓際には社会科で使う用具が積みあげられていた。
一番奥の机の向こうからひょいと顔を上げたのは紫亀で、
「桜子ちゃん、こっちやこっちや」
と手招きをした」
「先生」
桜子は準備室に入りドアを閉めた。
紫亀の机の方へ歩いていくと、その奥にソファとテーブルが置いてあり、
「赤狼君!」
制服姿の赤狼が壁際のソファにだらしなく寝そべっていた。
「学校、来てたの?」
「そや、こいつさぼりや。態度悪いやろ」
事務椅子に座った紫亀がすいーっと滑り寄ってき湯飲みを片手にそう言った。
「良かった、心配してたんだよ。昨日の事でどこか怪我でもしたんじゃないかと思って。大きなネズミと人間と戦ったから」
と桜子が言うと、
「心配いらんて。あんなんこの狼にしたら遊びもええとこやでぇ。まあわしにやらしても楽勝やったけどな」
と紫亀が言ったので、桜子は嬉しそうに笑った。
「ケ、手伝いもしないでよく言うな、鈍亀が」
と赤狼が大きな伸びをしながら身体を起こした。
自分の隣に座れという風に赤狼がソファをぽんぽんと叩いたので、桜子は隣に腰をおろした。
「キャ!」
赤狼が桜子の肩を引き寄せた。
「昨日の戦いで満身創痍だ」
と赤狼が言いながら桜子の肩をぎゅうっと抱く。
桜子は真っ赤になった。
「アホか、桜子ちゃん。エロ狼を甘やかしたらあかんで。すぐに調子に乗りよるからな」
と紫亀が呆れたような声で言った。
「アホはお前だ。桜子の方から俺とつきあいたいと言ってきたんだぞ」
と赤狼がふふんという顔で紫亀に言ったので、
「いや、それ、ちょ、違う」
と桜子は慌てた。
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