第33話 (閑話)今日からミエルを名乗りなさい

「お待たせしました、鴨のコンフィでございます」


 ギャルソンは微笑みとともにメインディッシュの皿と二切れのバケットが入った小さなバスケットを大悟だいごの前に置く。続いてキッチンからはシェフが直々にママの一皿を手にしてやって来た。


「いつもご贔屓をありがとうございます。ホロホロ鳥でございます」


 シェフのあいさつが済むとギャルソンがすかさずママのワイングラスに料理に負けないフルボディーの赤を注ぐ。グラスを掲げて香りを、続いて少しだけそれを口に含むとママは小さく頷いた。その様子で彼女の了解を察したギャルソンは手にしていたボトルをテーブルに置いて再び姿勢を正した。

 自分はまだお酒なんて飲めないけれど、いつかワインを飲むときにはママが今やってみせたようにすればいいんだ。これもきっと勉強なんだ。大悟はその振る舞いをしっかりと記憶にとどめた。


 ママはシェフに向かってにこやかな会釈を返すと視線を大悟へと移す。その様子を察した彼らは今一度姿勢を正して大悟の方を向いた。つられて大悟もあたふたしながら背筋を伸ばした。


「今夜はこの子のお祝いとお勉強を兼ねての食事なの。これからもちょくちょく顔を見せることになるからそのときはよろしくお願いね」

「かしこまりました」


 シェフとギャルソンはママと大悟に再び一礼すると揃って厨房へと引っ込んでいった。


「さ、お食べなさい」


 ママにそう言われはしたたものの、しかし大悟はまたもや困惑していた。これはどうやって食べればいいんだろう、それが今の素直な気持ちだった。それがそのまま顔に現れていたのだろう、ママはワイングラスを片手にその様子を愉しむような笑みを浮かべていた。


「まずはナイフを入れて骨から身を剥がすのよ。あとは適当にカットして食べなさいな」


 素揚げされた季節の野菜とともに盛られた骨付きの鴨肉、ママの言う通りにしてみたもののそれでも骨に身が残ってしまう。ファストフード店のフライドチキンだったらかじってしまえばよいのだが、ここはカジュアルとは言えビストロだ。大悟は妙な緊張感とともにひたすら悪戦苦闘していた。

 時折ナイフが滑って皿を鳴らす。そのたびに肩をすくめて周囲の様子を覗う。そんな彼の仕草ひとつひとつをママはただただ面白がっているのだった。


「ちょっといいかしら?」


 ママがギャルソンを呼ぶ。


「この子に鴨のオレンジソースを持ってきて頂戴。それとそのコンフィはおみやげにしてくださいな」


 そう言ってママは大悟に視線を送る。その様子を察した大悟はナイフとフォークを置いて手を下ろした。


「かしこまりました」


 ギャルソンはすぐに皿を引っ込めるとシェフに追加のオーダーを伝えた。程なくして大悟の前に新しい皿が置かれた。


「鴨のロースト、オレンジソースでございます」


 ジューシーで香ばしい鴨の旨味に甘酸っぱいオレンジの風味がよく合っている。彼にとって肉とフルーツの組み合わせは初めての体験だったが、今度の料理は格段に食べやすかった。


「お味はどうかしら?」

「おいしいです。こんなの初めて食べました。お肉とジャムみたいなのってとても合うんですね」

「ふふふ、ジャムとは言い得て妙ね。まあいいわ、コンフィは明日の朝にでもお食べなさい。あなたのお部屋でなら丸かじりしても恥ずかしくないでしょ。でもね、早いところ骨付き肉や魚をきれいに上手に食べられるようになりなさい」

「は、はい、ママ」


 料理は申し分のないおいしさだった。しかし大悟は緊張のあまり、まったく食べた気がしなかった。

 ギャルソンが空いた皿を下げに来る。さあ、あとはデザートだ。ママが選んでくれたのは、そうだ、焼きリンゴだったっけ。とにかくそれを食べ終わればこの苦行のような食事から解放されるのだ。

 緊張が解けてひと息ついた大悟がナプキンで口を拭ったそのときだった、ママがギャルソンに目配せする。


「ホロホロ鳥、とてもおいしかったわ。ハチミツの甘みの中で黒コショウがアクセントになっていて、それにワインのセレクトもさすがだったわ」

「ありがとうございます」

「ところでハチミツのことをフランス語では何と言うのかしら?」

「製造過程によりいろいろと名前が変わりますが、最終的なハチミツはミエルと言います」

「ふ――ん、ミエルね、ありがとう。それではデザートをよろしく。それと、私は食後酒にカルヴァドスを頂こうかしら」

「かしこまりました」


 ギャルソンが下がるとママは大悟の顔をまじまじと眺めた。そしてグラスに残ったワインを飲み干すと嬉しそうに微笑んだ。


「決めたわ。大悟ちゃん、たった今からあなたの名前はミエルよ」

「え、えっ?」

「聞いてたでしょ、今の話を。ハチミツって意味よ。甘いけれど舌の上では刺激にもなる。これからのあなたにピッタリよ。いいわね、ミエルちゃん」

「……」

「あら、お返事は?」

「は、はい、ママ」

「もちろん普段は大悟ちゃんでいいのよ、男の子のときは。でもね今日みたいに女の子になるときはミエルを名乗りなさい」

「は、はい」

「これからのあなたには女の子になってもらうこともあるの、もちろん仕事の上でだけど。その分ギャラも期待していいわ。とにかくしっかりね、ミエルちゃん」


 ギャルソンがテーブルにデザートを運んで来た。ママはミエルの焼きリンゴに合わせて紅茶をオーダー、自分はチーズをつまみながら残りのワインをすっかり空けると、今度はカルバドスの甘い風味に酔いしれる。

 しかしミエルこと小林こばやし大悟だいごはこれから自分に起きるであろうことを考えると、せっかくのデザートもまた食べた心地がしないのだった。

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