猫になる

mi-ka

新月之章

第一夜 1

跳ぶ。降りる。

 

 跳ぶ。登る。

 

 月明かりのない細い塀の上を、歩く。このまま、ずっと歩いて行ければ……。



「……真名井まない。真名井っ!」


 額に鈍い痛みが走る。見上げると、顔をひくつかせた英語教師がのぞき込んでいる。


「三十五ページ!」

「……はーい」


 しぶしぶ、真名井ゆきは教科書を読み始めた。


 授業の終わりを告げるチャイムと共に、皆詰めていた息を吐き出す。ゆきも窓の外に目を向けながら、吐き出すと共に机の上に身を横たえた。

 名の通り、透き通るような白い頬が、差し込む春の陽をはね返す。鳶色とびいろの大きな目。いつもけだるそうな、物憂げな表情。アンニュイな雰囲気を醸し出す姿に、気に留める男子生徒は少なくない。だが、次の瞬間、どうも萎えてしまう。


「ふぁっ、あぁぁうおぉぉぉぉぉぉ……っと!」


 大きく伸びながらする、獣の咆哮ほうこうのにも似たあくび。それはいつも、見る人の度肝を抜いた。たいていはこんな調子である。


「ゆき、寝てたねぇ」


 ニヤニヤしながら、星田千秋はさっき叩かれたところをつつく。透けてしまうのではないかと思われる色白の額では、突かれた跡が淡い桜色に染まっていた。ゆきは、何とも言えないけだるそうな表情を浮かべ、千秋を見上げていた。


「あはー……。今日も寝不足なのよ」


 ヘラヘラ笑いながら、ゆきは腕を枕に机に転がる。


「実家男、まだつけてくるの?」


 ゆきの白い頬がぷぅとふくれあがった。


 ゆきの寝不足の理由は、男である。


 ここしばらく、後をつけてくる妙な男がいるのだ。ひょろりと背が高く、目鼻立ちは、線でも引いておけば事足りる、薄気味悪いのっぺりとした顔。年は、同い年くらいだろうか。


「何か用ですかぁー!」


 学校のそばで一回は叫ぶ。これが最近の日課になっていた。


 三日前には衝撃の一言が飛び出した。


 男は意を決したのか、両手を握りしめてゆきに近づくと、真っ二つに折れそうなぐらい深々と頭を下げ、こう言ったのだ。


「ボクと実家に帰ってください!」


 ゆきは、あまりの一言に、あんぐり開けた口を閉じる気力もわかない。代わりに、そばにいた千秋がカバンで殴りつけ、学校に駆け込んだのである。不安でなんとなく眠れなくなるのは当然だった。


「ねぇ、そろそろ警察に届けた方が良いんじゃない?」

「そんな、大げさな」

「コワイ強盗事件だってあったしさぁ。私、やだよ、ゆきの事をネットで見るの」


 千秋のスマートフォンには、先日隣町で起きた強盗事件の現場写真が載せられていた。

 最近、手口のあくどい強盗事件が世間を騒がせていた。その場にいた人はかなりの重傷を負わされ、金品は根こそぎ奪っていく。何度か追い詰められたことはあるのだが、そのたびに忽然と姿を消していた。

 また、被害者は決してその事を話そうとはしない、という噂もあった。たった一人だけ、警察に話そうとした人がいた。しかし、事情聴取に訪れた捜査員が持っていた、赤い縁取りのあるハンカチが風に揺れるのを見たとたん、悲鳴を上げてベッドに潜り込んでしまったという。


 廊下の騒がしさに気づき、千秋はわずかに伸びをした。


「あれ? 転校生かな」

「転校生?」


 まだ眠気の抜けないゆきは、興味なさげにあしらうが、早く起きろと言わんばかりに、千秋はゆきの袖を引っ張った。


「男かな? 女かな?」

「どっちでも」


 うきうきしている千秋を尻目に、ゆきは廊下に目をやった。教師が生徒を連れているのが分かる。教室の扉が開き、教壇に立った男子生徒ののっぺりした顔を見て、二人は口を開け放った。


「実家男!」

「二人とも、知り合いか?」

「いえ、違います……」


 ゆきはなるべく視線をあわせないように下を向いた。


 転校生 竹屋銀次たけやぎんじの席は、窓側の一番後ろになった。ゆきの席の真後ろである。



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