第25話『ホンモンじゃねえか!』(連続33話)
けっきょく全身を洗われたあと、「じゃあわたしの番ね」と入れ替わりに、勢花の頭を洗い始めた月旦。洗いざらした黒髪が腰のあたりまで垂れているのはそのまま、丁寧に勢花の頭にシャンプーを馴染ませているが、わしわしと指先で揉み込むようにしていると、揺れる首肩にあわせてゆさゆさとふるえる――なんということだろう、背中からも見える豊かなラインにどうしても目がいってしまう。
「一気に太って、一気に絞りたいところを絞って痩せればこうなる……か」
いつか聞いたその言葉を反芻せずにはいられない。
毎朝の柔軟体操に加え、持久力のない月旦も体力を補うためにマラソンに参加しているものの、どうも
柔軟性と体幹のバランスが大事とはいうものの、若いうちの体力や筋力は、気力そのものを支える。
だがしかし、この双丘はどうだ。
剣術においても邪魔ではないのか。
思えば毬谷円佳もあまり胸が豊かではなかったが、もしやこれを見かねての策謀だったのではないかと己が邪心から類推に及ぶ彼女であった。
「女性のそれ《おっぱい》はクーパー靱帯という強い筋で釣り支えられているというけれど――」
「なんのはなし?」
「あ、いや」
「またおっぱい見てるし。べつにいいけど」
「見ようと思ってみてるわけじゃないわ。その、目に入ってきちゃうのよ」
「うちはみんな大きいからなぁ。お母さん似なんだよね。母方のお婆ちゃんも大きかったっていうし。腰も張ってるから、安産の家系なんだって」
うらやましい。
素直に思う自分に月旦は驚きを隠さない。
小雪を見る限り、自分の母を思い起こす限り、辻家の持ち味はしなやかさであると納得する他はない。
「うちはお父さんが会社員のふつうの家だけどさ、わたしがもっといろいろ知りたいと思ったら、面白い秘密が出てきたりするのかしら」
「どういうこと?」
「月ちゃんの家が、神社だったり、剣術の家だったり、そういうのがうらやましいなぁ……って思ったんだけど、考えてみたら事情のない家なんてどこにもないよなぁって思って」
「それは、そうでしょう。きっと勢花――花……ちゃん……の、ご両親も、いろんな出来事があって、その……一緒になったと思うし」
「わたしの知ってるわたしのまわりって、結局は目に飛び込んでくる、耳に聞こえてくる、肌で感じられる、そんな与えて貰ってるものばかりなんだなあって。こうして月ちゃんと出会って、色々考えるようになって、思えば自分の世界は狭いものなんだな~……って思ったわけですよ」
「年寄り臭いことをいうのね。でも、気が付いたなら、目に映るものだけじゃなく、いろいろ察していけるでしょう? これから頑張れば良いのよ、これから」
安心させるような手つきで頭を撫でると、月旦はトドメとばかりに肩を叩く。
「勉強だって、しっかりやっていかないといけないんですからね?」
「ちょ、それは――わぶぶっ」
文句の言葉が飛び出す前に、シャワーを浴びせかける。
泡が流され、すすぎの手を優しく動かしながら、月旦はこの少女が思った以上に繊細であると感じ始めていた。
自分の不徳で剣道部をクビにされたことを深く悔い、しかも長くドタ子と謂われ続けていたことさえ甘んじていたほどの心胆は、しかし、細くか弱いものだったのだろう。
細く、しかし芯が強かったからこそ、刀身の芯鋼のように立ち直れたのだ。疲弊した太刀が火に掛けられ、新しい鋼となって甦るように。
「そうか、叩けばまだ伸びる――と」
「なんか不穏なこと考えてる~ぅ!」
「はいおわり。体は自分で洗いなさい。わたしは湯に入るわ」
「あ、ずっこい!」
「ずっこくない」
足下の泡を流しながら、ふと空を仰ぐ。
雲の流れが速いと感じたのは、風で流される湯気。しかし月明かりは素晴らしかった。
「月ちゃん、か」
磨き上げられた石の浴槽に湛えられた湯。
段になっている淵に座り、ゆっくりと足に熱さを馴染ませる。背筋を伸ばし、ひと息つき、遠い権現山の頂に目を留める。
月岡。
似合う名前だと、彼女は思った。
しばし瞑目し、湯に馴染んだあたりで一段腰を下ろし、胸元まで浸かる。熱い吐息が自然と漏れる。言いたいことを言った後だからだろうか、澱が出た心の穴に、慈愛の温かさが染み入るようで、自然、力が抜けていく。
天を仰ぐように首を倒すと、まるで自分が宇宙を漂っているかのような感覚になる。湯に足を投げ出し浮かべば、もっとそう思えるのだろうが、そこまでの勇気はなかった。少なくとも公共の場であり、さらに少なくとも勢花がいるのだ。
「おじゃましまーす」
「体は洗ったの?」
「洗った洗った」
場所を空けながら月旦は苦笑する。
いつものようにアカスリでごしごしと肌を傷めるように洗うにしては、勢花の肌は――。
「…………」
「どうしたの?」
「あ、いや」
――もちもちだった。白かった。すべすべだった。
「肌が白くて、いいなぁ~って」
「月ちゃんだって白いよ? わたしは日に焼けないだけだし。夏なんか真っ赤になっちゃうんだから。日焼止め塗らないと首筋とかもうひどいのなんのって」
「あ、わかる」
我がことのように思える。
「そのわりには化粧っ気がないのよね。は、花ちゃんはあまりそういうケアとかに興味はないのかしら」
「ん~、ないなぁ」
「ないか~……」
ほかほかと温まってきた体にうっとりし始めた瞬間、しかしその快温な空気を劈くような怒号が響き渡った。
「あまぁああああああああああい!!」
「ひゃぁ!」
全裸仁王立ちの松下がタオルをブンブン振り回しながら鼻息荒く「あまいあまいあまい!!」と息巻いている。いつの間に入ってきたのだろうか、すでに柳も女性としてはかなり筋張った肢体を惜しげもなく晒しながら彼女の背後でうんうんと頷いている。
「あまいぞ、戸田」
「あまい、あまい」
二人の教師の突然の登場にあっけにとられつつも、ふたりは顔を合わせて首を傾げる。どうやら教師たちはもうすでに晩酌を極めたあとらしく、泥酔ではないが酒を抜きに風呂に来たと思われる。大人としてどうなのだろうかと疑問が浮かぶが、普段はうるさいがおとなしめの松下の異様なテンションと迫力に、開いた口が塞がって、また開くような空気であった。
「Hカップ!」
ビタリと指を突きつけながら決めつける松下。
「Gっスよ!」
「Gなの!?」
という生徒たちの叫びにも耳を傾けず、掛かり湯を手桶で軽く済ませると、ざぶざぶと段差を降り湯船の中央であぐらを掻いて嘆息する始末だ。
「あー気持ちいー……」
駄目な大人――というより、駄目なオンナなのではという疑問が頭に浮かぶも、声には出さない。
「昔の男がなんなのよスキーだっていいじゃない好き~なんだからぁ~!」
訳の分からない叫びというか呻きを上げると、出来上がった松下は側にある置き岩に抱きつくと「昔のことほじくり返すな!」とよく分からない文句を叫び、おいおいと泣き始めた。始末に負えないとはこのことだろう。
「すまん、昔話に花が咲きすぎた」
掛かり湯を済ませた柳が、するすると松下のもとに寄り添うと、抱え起こすように肩を貸す。
「今朝、辻の様子がおかしかったのを気に病んでいて、話しているうちに彼女のトラウマをほじくり返してしまってな、いやほんと」
「トラウマじゃないもん」
「――困ってたんだが。ともかく、なんとなくそっちは解決した様子だな」
月旦は目を伏せながらもしっかりと頷いた。
「いやあ、さっき仲居さんが『ふたりはホンモノだった』って言うから見に来たんだが、いちゃついてたのか?」
柳の伺うような目つきに本気にした色はないものの、からかいの色は見受けられる。向陽高校の性質上、囁かれることが多々あるその手の話題に当事者たちは苦笑する。
「乳首つねられたくらいです」
「ホンモンじゃねえか!」
松下がビシっと指を突きつけると、月旦も負けじと「うらやましかったんですから、しょうがないじゃないですか! 目の前で見せびらかされたら、そりゃつい――」
「つい?」
「手が出るわよねえ……」
転じてしみじみ呟きうーむと唸る松下。
毛穴から抜け始めたと思しき酒の残り香が微かな風で流されると、教師二人は教え子たちを見て、「落ち着くとこに落ち着いたかなあ」と笑い合う。
「ともあれ――」
茹で上がらないように半身浴に切り替えながら、柳は岩場に腰掛け、ふたりを促した。
倣うように段差の上で腰掛け、柳の言葉を待つ。月旦にしろ勢花にしろ、柳がただ酒を抜くためだけにわざわざ露天に顔を出したわけではないと気が付いている。
蘭子の言葉に、今でならと、そう思って来たのは伺えた。
「学校の動きを、少し話しておこうと思ってな」
二日三日の差があるので、月旦たちの知らぬ情報が追加されたと見るべきだろう。
「剣道部顧問の田島先生が、おそらく剣道部主将の東郷重美と組んで、新年度の『剣術部お披露目』と称した腕試し――そのお膳立てをしたことは知っての通り。狙いは、正直に受け取れば『剣術部が安全かつ正しい指導のもと活動できるかどうかを見極めること』にある。そしてこれは、恐らく本当にこれが目的であるとわたしは思う」
「東郷先輩の、あの何か試すような物言い、裏はないと?」
問い返す月旦だが、柳の言葉通り、おそらく裏はないのだろう。しかし、表裏はなくとも、さらなる目的があって然るべきと看て取った。
「裏という言葉の意味を、何か陥れる形の思惑と取るなら、無いと言えるだろう。しかし、学校側としては剣道部の更なる発展のために辻流の動きを取り入れたらどうか、という話が持ち上がっているらしい」
「辻流が剣道に!?」これには月旦も素直な驚愕を浮かべた。
「名門たるゆえんだろう。新しい物を取り入れて更なる上を目指す。それがたとえ古流剣術という『新しきもの』だとしても」
言い回し自体に、やや含みがある。
「合同部になる可能性があるんですね?」
静かに聞いていた勢花だが、ぐっと握りしめた拳は、関節が白くなるほど強く、小刻みに震えている。
「剣道部に、吸収されるかたちになるかもしれないわね。つまり、基本は剣道部。使えそうなところだけを都合良くピックアップされ、飼い殺される、都合の良い部員に、剣術部がなる――という可能性がある」
柳の深く伺うような視線に、月旦は首を振る。
「教えを請われたら手ほどきは致しますが、あいにくと部活動を立ち上げる目的とは相容れないものかと」
勢花は、静かに追従する。
「あくまでも、それが目的であるという『お披露目』なら、わたしたちはとことん、違うぞというところを見せないといけないわけですね」
「……そういうことだ」
破顔。
柳は良く言ったとばかりに頷く。
「あちらさんの意向は――あくまでも田島教諭と東郷重美の思惑は、そうだ」
「……となると、やはり毬谷円佳さんは」
月旦の問いに、頷く。
「諸田一刀流剣道の後継者は、辻流が少しでも入り込むのは死んでも嫌だといってたよ」
そのあけすけな物言いは、脳裏に容易に再生された。
「彼女らしい」
月旦も吹き出す。
「力試しのため、また排除のため、死にものぐるいで来るだろうな。……もとより、手を抜いて馴れ合うのは双方ともに本意ではないだろうが、結果そのものは当初思っていたものとは大きくかけ離れる可能性が出てきたということは肝に銘じておいて欲しい。……ま、これを伝えたいがために二人と話したかったのだが、しかし新潟に修行に来ていたとは」
「先生たちも、明日から道場に見学に来てもいいそうですよ」
「それは重畳」
顔を輝かせる柳。
「本流は合気柔術と薙刀と聞いたから、興味はあった。道着を持ってくるよう言われたから、もしかしたら手合わせ手ほどきも受けられるかもしれんな」
「そんなことが?」
「ああ。まあ、松下先生にはわたしのお古を貸すが、練習まではどうかなあ」
「………………」
「………………」
「………………」
「松下先生?」
松下邑子は、大岩に背を預けるように静かにいびきを掻いていた。
「…………上がりますか?」
「ああ。戸田、辻、すまんが手伝ってくれ」
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