第17話

「ごめん。あんまりパニックてたから手で口塞ごうと思ったんだけど離せなくて…」

 僕はオミの腕にくっきりついている自分の爪痕を見つめた。パニック中の馬鹿力で掴んだ皮膚は破れて血が滲んでいる。

 軽く呼吸を止めてから深呼吸すると治まりやすいと知っていたのに、いざとなると知識がなんの役にも立たなかった。

「人工呼吸?」

「そーそー、人工呼吸だからノーカンね」

 ぎこちなく笑うオミの腕をそっと撫でて「ごめんね」と呟いたら無言で頭をギュッと抱き寄せられた。


「でもよく分かったねえ」

「小さい姪っ子がいて…よく泣きすぎて過呼吸になるの見てた」

「小さい子と一緒か〜」

「怖いめに遭ったら子供とか大人とか関係なくない?」

 自嘲する僕にオミが怒ったように言うから、少し泣けてきた。

「ごめん、せっかく遊びに来てるのに嫌な思いさせて」

「嫌な思いしたのはヨウだろ」

 ますます怒ったように頭を抱き込まれ苦しくなったけど、耳に押し付けられた裸の胸が僕以上に速い鼓動を打っていて、何も言えなくなった。


―裸……。


 気付いた途端、耳がブワッと熱くなった。半裸とはいえこんなに生の体温と密着したのは初めてで急に恥ずかしくなる。どうしよう。

 別のパニックが襲ってきてジタバタもがくとオミが慌てて離れた。普段はキリリとした眉尻を情けなく下げて僕の顔を覗き込んでくる。

「ごめん…また腹筋300回かな」

「いいよ。助けてくれたんだし、ハナには内緒にしとこ。心配するし。それにこれ以上バキバキになったらどうすんの」

 僕は赤くなった顔を隠すように俯いて早口で言った。それを聞いたオミは何故かものすごく嬉しそうに笑って、僕の頭を撫でた。

「ハナには内緒ね」

「うん」


―そんなにハナに怒られるの怖いのかな。


 とりあえず血の滲んだ傷口を水道で洗っていると、ずぶ濡れのハナが興奮した様子で走ってきた。

「探したぞ!どこ行ってたの」

 綺麗にまとめていた長い髪が乱れに乱れているけど、それもまた色っぽい。エロスの講義は終わったんだろうか。後から他のみんなも合流する。

「オミ、怪我したの?」

「ああ、混んでたから誰かに引っかかれたみたい」

「痛そう〜」

「俺、ちょっと消毒しに医務室行ってくるね。ヨウはみんなと待ってて」

 嘘をつかせた事が心苦しくて、なんでもない素振りで歩き去るオミの広い背中を見送っていると、勘の良いハナが何かに気付いたように身を寄せてきた。

「何かあった?」

「後で話すよ」

 全部は話さないけど、何があったのか少しは言っておかないと追求の手を緩めないのが彼女だ。

 僕は浮き輪を借りていた彼女にお礼を言って、みんながウォータースライダーの話で盛り上がるのを黙って聞いていた。


「で?何があったの?」

 みんなと別れて僕の家に着くと、ハナは早速詰め寄ってきた。家まで送ってくれたオミも交えて今日あった事をかいつまんで話す。

 ハナは激怒してオミを睨みつけた。

「お前がついててなんでそんな事になる!」

「ハナ!オミは助けてくれたんだよ」

 過呼吸になった事は言ってない。言えばますます怒るだろうから。オミは言い訳もせずに絆創膏のついた腕を眺めている。

「管理事務所には痴漢の事言っといた。俺らだけじゃ何も出来ないしね」

「今度会ったら殺す」

「物騒な事言わないで、ハナ」

「もうプールには行かないからな!」

 

 ハナは怒りが収まらない様子で囚われの野生動物のように部屋の中を歩き回っている。黙って見ていたオミが、ポツリと言った。

「これからもあちこち誘うよ」

「はあああ!?」

「そうやってヨウの事囲い込んだって誰の為にもならないだろ」

 オミの言葉に一瞬詰まったハナは、ムキになって言い返した。

「オミには関係ない!ヨウを傷付けるやつは許さない!もうお前らの遊びには付き合わないからな!」

「2人だけの世界に閉じこもるのがヨウの幸せなの?」


 僕を置き去りに2人のやり取りはエスカレートしていく。もっとも怒っているのはハナだけで、オミは淡々と言葉を返している。

「そうだよ!私達はずっと一緒なの!生まれた時から一緒にいて、お互いがいれば幸せなの!そうでしょ?ヨウ」

 急に話を振られて僕は答えられなかった。ハナの事は大好きだけど、これから進学して就職してお互い家庭を持ったりしたらずっと一緒という訳にはいかない。ハナは頭がいいくせに、時々駄々っ子みたいになる。

 傷付けない言葉をいくら考えても分からなくて、黙って彼女を見つめ返すと、ハナは泣きそうな顔をして部屋から飛び出して行った。


「ハナ」

「ほっとけば。矛盾してる。親離れって言ってたくらいだからあいつだって分かってるよ」

「オミ、性格悪い」

 憎らしいくらい冷静な声でオミが僕を引き止める。ドアを背に立ち塞がる彼の胸元を俯いたまま拳で軽く小突くと、その手をやんわり掴まれる。

「そうだよ。俺性格良くないよ。ずるい事も考えるし、嫌なとこだっていっぱいある」

「知ってる」

「ほんとに?俺が今何考えてるか分かる?」

 日に焼けた大きな手と僕の生白い手の色。冷房とは違う寒気がぞわりと肌を這い上がり、動揺した僕はその熱い手の平から手首を引き抜いた。


「ごめん、頭動かない。疲れたからもう寝るね。今日はありがとう」

 僕は彼の身体をぐいぐい押して部屋の外に出し、ぐったりとベッドにうつ伏せになった。

 汗をかいたからシャワーを浴びたかったけど、今日一日で色々ありすぎて本当に心身ともに疲れていた。

 考えなくちゃいけない事は後回し。僕は眼を閉じて眠りの中に逃げ込んだ。

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