第12話 酔い潰れた先輩(後半)


 遠い日の苦い思い出が、不意に扉を開いて顔を覗かせた。


〝えー、なにそれ。妄想ってこと??〟


 高校の同じ部活の友人は、悪びれなくそう言った。


〝書いてどうするのさ。誰に見せるでもないのに〟


 親友だと思っていた幼馴染は、不思議そうに首を傾げた。


〝私も書いてみよっかな。これなら私でも書けそうだし〟


 ドキドキしながら見せた、初めて出来た彼女は、無邪気な笑顔でそう言った。


 なんで。なんで。なんで。


 楽しく書いていたいだけなのに。楽しく書いたものを、誰かと共有したいだけなのに。


 サッカーが得意だと言えば感心されるのに。映画が好きだと言えばいくらでも話が盛り上がるのに。


 どうして物語を書くということだけは、するりと受け入れてもらえないのだろう。どうしてモノ書きだけは、妄想だとかプロだとかアマチュアがどうだとか、いちいち他人の物差しで測られなくてはならないのだろう。


 彼らに悪気がないのはわかってる。むしろほんの軽口で、さらりと流せない自分がおかしいだけ。


 そう思うのに。


「……いっけね」


 暗い部屋で、庭野はひとり髪をかきむしった。


 酔っ払ったせいだろうか。余計なことを思い出してしまった。反省を込めて、庭野は首を振った。


 けれども、と眠る丹原に視線を移す。


 だからこそ嬉しかったのだ。小説のことを伝えても自然と受け止めてくれた丹原が。古傷から根を生やした卑屈の芽を摘んで、「もっと自分を誇れ」と叱りつけてくれたまっすぐさが。


 読んでくれただけでも嬉しいのに、丁寧に手紙までしたためてくれた誠実さが。


(ま、先輩に深い意味はないんだろうけどさ)


 肩を竦めてから、丹原は立ち上がった。


 カバンから、タクシーに乗る前に自販機で買った水を取り出す。家に着くまでに何度も飲ませているから、残りは半分ほどだ。それを枕元に置いて、もう一度丹原の肩を揺すった。


「せんぱーい。俺、帰っちゃいますよー。目が覚めたらちゃんと水飲むんですよー」


「ん」


 返事だか呻きだかわからない声が、丹原から漏れる。それに笑ってから、庭野は体を起こして伸びをした。


 その時、ふとベッドサイドの本棚に目が入った。


「あ、俺の本……」


 文庫本やらビジネス書やらに挟まれて、「転こい」が収まっているのが目についた。


 そこで、ふと庭野は、別れ際に丹原の姉の夏美から言われたことを思い出した。


〝え、サインですか?〟


 タクシーに乗り込む直前、丹原を抱えたまま庭野は目を瞬かせる。すると夏実は、両手を合わせてウィンクをした。


〝そ! ポニーさんのサイン、今度千秋にもしてあげて欲しいの〟


〝俺はかまいませんけど……先輩、サインなんか欲しがるかなあ?〟


 半信半疑に丹原を見下ろす。すると夏実は、何やら小さな声でぽそぽそと呟いた。


〝ちょーっと焚き付けるつもりで煽ったのに、まさか潰れちゃうんなんてね〟


〝え? 何か言いました?〟


〝ううん、こっちの話!〟


 ふいに夏実は、我儘を聞いてくれるときの丹原に似た、優しい笑みを浮かべた。


〝あのね。千秋って勉強は出来るし頭はいいんだけど、昔から素直じゃないし、人見知りだし、変なところで気が小さい不器用人間なのよ。だからね、今日は千秋が庭野くんと好き勝手言い合っているのを見て、なんだかすごく安心しちゃった〟


〝不器用? 先輩がですか?


〝そ。私から見ればね〟


 にこっと微笑んでから、夏美は両手を合わせてウィンクをした。


〝庭野くんさえよければ、これからも千秋と仲良くしてあげて。我が愚弟をよろしくね!〟


(先輩が素直じゃない、ねえ)


 訝しみつつ、本に手を伸ばす。


 そういえば丹原の酒を入れるスピードが急に速くなったのは、トイレから戻ってきたあとだった。その時自分は、夏美にせがまれて転こいにサインを入れた直後だったっけ。


(……まさか先輩、自分もサインが欲しかったとか?)


 ちょっぴり頭をよぎった考えを、庭野は笑って追い出した。たしかにファンレターという名の感想文をわざわざしたためてくれた丹原ではあるが、サインが欲しいか否かはまた違う問題な気がする。ていうか、丹原が庭野のサインを欲しがってくれるなんて、それこそ都合がよすぎる妄想だろう。


 けれども、悪戯としてはアリなのかもしれない。


 朝目覚めた時、枕元にサイン入りの本が置いてあったら丹原はびっくりするに違いない。後輩に部屋まで送ってもらったのか!?なんて、あの完璧な先輩が朝から慌てふためくかと思えば、それはそれで愉快だ。


「いいや。書いちゃおっと」


 にんまり笑って鞄からサインペンを取り出す。丹原姉が「よかったら使って」と、さっき渡してくれたのだ。


 キュポンとキャップを口で咥えて外す。そのまま庭野は、すらすらと表紙裏にペン先を走らせた――。





 翌朝。


「……ん?」


 重い体を起こしながら、丹原は首を捻っていた。


 昨夜、どうやって家に帰ったのかさっぱりわからない。わからないのに、自分の部屋にいる。自分の部屋にいて、ネクタイを外しただけのスーツ姿でベッドに横になっている。


(あれ? 姉貴は? 会計……はうっすら出した気がする。庭野とはどこで別れた? ていうか、ここまでどうやって帰ってきたんだ……?)


 わからない。ひとは、いっさい記憶がなくても帰省本能で家に帰れるものなんだろうか。


 とりあえず姉に連絡……の前に、シャワーを浴びようか。そのようにベッドの上に起き上がった時、ふと右手に何かが触れた。


「ん? なんでこんなところに?」


 本棚にしまっていたはずの転こいが何故かここにある。


 酔った勢いでまた読んでいたのだろうか。自分ならありえる。現に、この間も深夜テンションで本棚から引っ張り出し、そのまま読み耽ってしまったし。


 そんなことを思いながら、何気なく表紙を捲る。


 そこで丹原は驚愕にカチンと固まった。


 さらさらと流れる文字に、デフォルメされた馬の絵。その横には「丹原千秋様へ」と見覚えのある文字。


「ドッキリ大成功!」


 サインの下には、楽しげにそう書き加えられていた。


「あ、あ、あ…………!」


 震える手で、丹原は両手で大切に本を持ち上げる。


 それが夢や幻でないことを何度も確かめてから、丹原はきらきらと顔を輝かせて「転こい」を天井に仰ぎ持った。


「ポニーさんのサインだーーーーー!」





 ――ちなみに、自室の本にポニーさんがサインを入れてくれたということは、庭野に部屋まで送らせてしまったのではないかと。


 丹原がそのことに思い至ったのは、ひとしきり喜んで姉に自慢の電話までして、ゲラゲラ笑う姉に指摘されたときであった。


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