第7話 霧の中
北の砦への出立の準備を整え、兵百人余りを待たせたまま、私は警邏兵の報告を聞いて町の外へ出向いていた。先日、騎士団の斥候たちが町のすぐ下を偵察していた事は、すでに知っていた。警邏によれば、目の前にある五つの死体は、その斥候たちとの戦闘で打ち負かされた者たちだろうと言う。
いずれも、屈強な戦士たちだった。だが、山の民ではない。これといって特徴もないが、山の民でないことだけは、一眼で見てとれた。だが、他の辺境諸族のどの部族だとは、判断しかねた。山の民と同じく鎧は革の胴着と手甲のみ、私の外套と同じく長い木綿の布を首と肩に巻き付けている。下着も下町の住民のものと同じだった。だが、武器は両刃の直刀。山の民の刀は、幅広の片刃で曲刀だった。
胸元を捲ると、大きな刺青があった。
思わず眉を顰めた。
それは、山の神を表す図案で、領民の家に掲げる事を義務化しているものと同じだった。
ふと、気になり、指でなぞると一部に僅かな凹凸を感じた。
「狂信者でしょうか」
警邏が怪訝そうに聞いてきた。
「仮にも国教の紋章を身体に描く者たちを、まるで気狂いのように言うものではないぞ」
姿勢を正して、失言を詫びる兵に気にしないよう促す。
「あとでじっくりと見聞する。室の中に運んでおけ」
外敵の侵入に隣して、信奉心が強くなったのだろうか。確かに、諸族との国境での衝突は日常茶飯事だったのに、民を山に避難させた事は今までに一度も無かった。民たちは、それを王の深慮遠謀とは知らない。未曾有の危機が迫ったものと理解しているはずだ。諸族からの流民かも知れない。流民たちは、元からの住民よりも一層、信奉心の強さを誇示し、民として受け入れてもらいたがるものだからだ。運び出されていく骸たちに、黙祷を捧げてから、参集させた兵たちとの合流場所へと向かった。
この時はまだ、指先の感覚に違和感を覚えただけであった。
山牛の革を貼り重ねた胴鎧に、曲刀に弓、投げ槍で重武装した兵たちは、私がより集めた精鋭部隊だ。国界とピエレト山とを有機的に繋ぐ防衛網である番屋では、常に辺境諸族との小競り合いが勃発していた。日々の実戦に鍛えられた番屋詰めの中でも、特に功名に秀でた者たちを集めたのだ。士気も高く、規律も正しい。私は彼らに訓示を述べ、出立した。
山道では未だ避難民たちが落ち着く先を見つけられずに溢れていたが、兵たちの姿を見るや、道を空けてくれた。道中、いくつもの関所を過ぎて行く。各所で、設置した大弓の点検を命じた。二メートルもある大矢には、特殊な改良を施していた。敵兵一人を貫く為ではなく、狭い山道を登る敵兵たち複数を一度にまとめて負傷させられるように、鋭い刃が四方に伸びた巨大で特殊な鏃を開発した。連射の効かない大矢で人ひとりを貫いたところで、戦の趨勢に影響はない。殺傷力と飛距離は落ちるが、詰まるところ兵器とは、どこで、どの様な効果を期して使うかが要なのである。この鏃は、全身甲冑を纏った相手にも有効打を与えることは、すでに実験済みだった。これを麓から山頂までの三十の関、全てに設置してある。一度に全ては無理にせよ、確実に兵力を削ぐこと。それは縦深防御の基本原則だ。甲冑を着て、この山の崖は登れない。細い山道を進むしか侵入路はないのだ。兵站と水だけ確保できれば、どんな侵入者であろうが、恐るるには足りない。
しばらく進むと、山道を逸れ、細い脇道に入る。
外からは視界に入らない、兵たちの通行だけが許された秘密の道だ。私の指揮で四年をかけて開通させたこの道は、今まで誰も踏破できなかった岩肌に穴を穿ち、支柱を差し込み、屋根付きの歩道を敷設したものだ。そこまでの難工事は全体の一部ではあるが、他にも山肌を貫通する通路を掘った箇所もある。この道を進めば、敵兵からは見つからずに最短ルートで北の砦まで到達することができるのだ。早朝から出立した今回は、昼を待たずに到着できると言うわけだ。建設の予算の計上の際には、他の将軍たちからは、無用な出費だと非難を浴びたものだ。だが、こうして完成してみれば、その有用性は誰しもが認めるものとなった。
私がこの世で唯一耐え難い事は、愚か者から同族呼ばわりされることだ。辛酸を舐めたその苦渋の日々も現王のもと、実績を重ね軍師の地位に登り詰めた今となっては、懐かしいことのようにも思えた。
涼しい山間の風と、鳥たちの囀りを聞きながらの行軍は、何の支障もなく予定通りに終えることができた。“北の砦“この石造の塔を備えた堅牢な砦は、太古の遺跡を元に、改修に改修を重ねたピエレト防衛網の最重要拠点、まさに私の事業の集大成と言えた。
二つの山の山頂を繋ぐ峰に、この砦は建っている。最高の立地と言って良かったが、いかんせん、土地が狭く増築を重ねても兵の収容は百人が限界だった。門は一つ。その前には空堀を設け、二人の守衛を置いている。塔の屋上にも四人の守衛がおり、四方を監視していた。はね橋の前に立ち、私が姿を見せ名を名乗っても、守衛たちは動かなかった。
そう、それで良い。
合言葉を告げて初めて、はね橋が上げられ、兵たちは私を迎えてくれた。
「親愛なるデジレ軍師殿。北の砦にお迎えできて光栄です。して、此度はどのようなご用件でしょうか」
守衛長の役を意味する、北方鎮守将軍が私を歓待してくれた。
「兵に食事を与えてから、すぐに湖まで出立する。面倒をかけるが、食事の用意を頼む」
「は。それは構いませんが・・・封印の湖に如何様でございますか?」
恐れながら、といった仕草で将軍が尋ねる。役務上、と言うよりも興味本位なのだろう。湖の堰に水攻めの備えがあることは、王と私と一部の副将たちしか知らされていない。
「好奇心、猫を殺すだ。無用な詮索はしない事が、立身出世の秘訣だぞ」
将軍は恐縮して深く敬礼をする。若い故にか、余計な詮索をするが、反面、素直でもある。分からないことを知ろうとする姿勢は、指揮者には不可欠な資質でもある。願わくば、全ての将軍がこうあれば良いものを。
「それよりも、異変はあるか?」
「は。御神山に向かう途中の民が、山中に敵軍の列を見たとのことです。数を突きとめようと問いただしましたが、要領を得ず、数百人、といったことしか分かりません」
「番屋を襲っている百人程度の別働隊がいる。恐らく、それを見たのであろう」
「左様ですか。戦況はいかがなものでしょう?」
「心配するな。近く大勝利で終わる。その為にも、気を抜かずに砦を守備せよ。異変があれば、すぐに狼煙をあげるのだ」
将軍は私の元から下がると、守備隊に食事の準備を命じる。私は塔の螺旋階段を登り、屋上の監視櫓に出た。中央には人の背丈よりも高い位置に、狼煙台が置かれている。雨除けのため樹皮で覆われたそれは、杉の木を交互に積み上げ、その内部には温度を上げるために獣の糞を潜めてある。とても高温になるため、高い位置に設置してあるのだ。いつでも点火できるように種火も常時、準備されている。
監視櫓は山間の風が良く通り、夏にして心地よい涼しさを感じた。午前の空は澄んで雲も少なく、連なる山々を美しく照らしていた。だが、この地方の天気は変わりやすい。風の温度と湿り気から、夜半には天候が崩れるかも知れない。夕方までには目的地まで、着く必要があるようだ。目的地となるその湖は、木々の隙間から雄大な湖畔にきらきらと陽光を反射する様を垣間見せていた。
厄災の湖。
我々はあの美しい湖をそう呼んでいた。あの湖が出来るまでは、川には魔物が住み着き、毎年多くの領民と家畜が命を落としていた。現王が今の湖の場所に堰を造り、川の水を止めたことにより、その厄災は根絶した。多くの耕作地を失い、いくつかの集落が移動することになったが、突然の不幸で家族を失う悲しみからは遠のけられた。湖の水は、北側の谷間に流され、その地に住んでいた敵性部族は衰退した。今では、蛮族が跋扈する地となったと聞く。集落を形成しない蛮族は、部族ごとに移動を絶えず繰り返す為、一度その数を増やすと駆逐は困難なものになる。指導者を中心に、一族全員が街を形成し砦にでも引き篭もるならば、砦の陥落が一族の掃討と直結してくる。しかし、深い森の奥地や山岳地帯の洞穴など、その拠点が絶えず移動するのでは、殲滅部隊を差し向けたところで到着するまでに多くの者に逃げられてしまう。拠点に残って応戦する蛮族たちをどうにか倒しても、逃げ延びた者たちがまた数を増やすという鼬ごっこ。恐らく、北の部族が再興することはもう二度とないだろう。
災厄の猛威に襲われるのは、今度は辺境騎士団どもだ。山の民は自然の猛威すら自在に操り、その外敵を打ち負かすことに利用できる。死に体となったところを、同盟軍に襲わせれば、我が軍は損耗せずに勝利することができる。その後、租界する住民たちを引き連れ、遠征することで、他の部族らに先手を打って辺境領有を既成事実化できるのだ。もし、水攻めを実行しなくても、戦況に大きな揺らぎは無い。無数の関を設けた狭い山道しかないピエレト山は、山全体が難攻不落の城砦都市と化している。大挙して攻め入るほどの戦力もない異邦の民たちは、眼前に聳える山の防衛と、後背を攻め立てる辺境諸族らの同盟軍に挟まれ、哀れ塵と化すだろう。辺境騎士団の襲来は、我が王の機転にかかれば、もはや渡に船の慶事と評しても良いくらいだ。
ほどなくして、兵が山芋の味噌汁と薄焼パンを届けに来た。山芋の実をすり潰し、味噌汁に入れたこの季節の定番汁で、薄焼パンは小麦を発酵させ、油で焼いた常用食だ。西の国々のように広大な穀倉地帯は望めなくても、山の民の土地は数多の恵みをもたらしてくれる。しかし、毎年悩まされているのは、その量にあった。天候不順、不作、諸族との戦役に備えた兵站などは常に逼迫している。王は僧兵を用いて民から余剰の接収を“乞う“て回る一策を設けたが、その成果は芳しくなかった。
「数多の難題は、新天地が解決してくれると思うのは、些か楽観が過ぎるかな」
山脈を眺めながら汁をそそると、思わずつぶやいてしまった。
民たちはまだ、誰も知るまい。これから待ち受けるものは、長い者で数百キロを踏破する事になる遥かな旅路。道中の糧食の確保、病、蛮族や獣との遭遇、そして原住民との戦闘と、待ち受けるのは前途多難の遠征行だ。しかし、辺境騎士団を打ち負かした後には、広大な土地が空白地となる。このような千載一遇の機会を逃しては、民たちの繁栄は望めぬ。それが為政者の務めだ。他の誰かにくれてやる訳には、絶対にいかないのだ。そんな事になれば、いずれその者が勢力を拡大し、山の民を襲う事になるのだから。
「軍師デジレ様、敵の様相はいかがなものでしょうか?」
将軍が上がって来て、私の横で腰を下ろした。
「この砦からは、未だ敵の姿は見えず・・・不安か?」
「いえ、決して不安などありませぬ。兵たちは意気揚々、加えてここは、デジレ様に抜擢していただいた精鋭揃い。機会さえあれば、戦果を挙げてご覧入れます」
私は笑って、彼の肩を叩いた。
「美辞麗句を並べんでも良いのだ、将軍よ。私はそんな狭量な男か?見えぬ敵を恐れ、見える敵は恐れぬ。それは、あるべき姿なのだから。敵の本隊は千から二千。御神山に布陣しておる。注意せねばならんのは、番屋を散発的に襲っている別働隊の存在だ。火を用いて番屋を攻め落としては、忽然と消え失せる。大群ではないことは確かだが、この山野にどれほどの敵兵が潜んでいるのものか、突き止めねばならぬ」
「番屋が落とされては、敵情を把握するのも困難です。兵を増強して、破損した番屋は、すぐに再建をすべきでは」
「その通りだな。再建できるものは、すでにその作業に取り掛かっている。だが、将軍。目先の事しか見えておらぬようだ。よく考えよ。番屋は元々、敵の侵攻を遅らせ、その情報を全体に伝達するためのものだ。その意味では、すでに役目を終えていると言える。悪戯に翻弄される事なく、必要最低限の対応に徹する事で、敵の陽動に惑わされないという意図があるのだ。良いな、視野は広く、そして先を見るのだ」
若き将軍は敬服の意を表し、かしこまった。
「それに、敵の狙いは分かっている。番屋の襲撃は南部に集中しておる。これは、本隊の後背を襲撃されぬよう警戒しておるからだ」
「では、この北の砦の兵は、遊兵となってしまうのでは?」
「よく学んでおるな。だが、遊兵を増やすために、私が新たな兵を連れて来たと思うのか?」
「いえ、そんな事はございません。軍師殿のお連れになった兵は、ほとんどが工兵です」
「そうだな。それは何を意図するものだ?」
私は、若く有能な将への講義に、夢中になりすぎた。水攻めの計は、同盟軍をも同時に壊滅させる。極秘裏に進めねばならない。将軍は髭を撫でながら、しばし考え、得たとばかりに膝を叩いた。
だが、その答えが口に出るよりも早く、番兵の呼びかけに遮られた。
「緊急!将軍、霧が出ています」
どこに、霧など。眼下の谷は陽光が差し込み、輝かんばかりの豊かな緑に溢れていた。
「塔の直下、まるで煙のようです」
将軍と二人で塔の真下を覗き込む。まるでヤギの乳を水に溶かしたような濃い霧が、うねるように砦の周りに纏わりついていた。
「馬鹿な、今日は霧が出る兆候など・・・」
私は将軍の言葉を手で遮った。妙だ。鳥たちの声も、風が木々の葉を揺らす音すらもない。
「将軍、敵襲だ。警鐘を鳴らせ!」
将軍たちは即座に、戦闘体制に入った。梯子の下では、号令が行き交い、食事を置いた兵たちが武器を取り配置に戻る。よく、訓練された兵たちだ。まずは、塔の一階に人を送り・・・様子・・・を・・・かぁっ!
私は喉を広げ、空気を貪った。息をいくら吸っても、苦しさが止まない。全身に緊張が走り、発汗する。振り向くと、兵たちが喉を抱えて倒れ込んでいた。吸っても吸っても、苦しさが止まない!空は目の前に無限の如く広がっている。ここは塔の屋上なのだ。なぜ、空気が、無い?空の明るさが急激に失われ、視界が暗転し始めた。立っているのか、倒れているのかも定かでは無くなった。
「軍師殿、御免!」
将軍が、私の身体を塔の外に放り投げた。感覚が正常であったら、叫び狂ったに違いない。浮遊感の恐怖で反射的に身を固くした次の瞬間、全身の痛みと脱力感が襲った。
「ひゅがっ!」
喉が大量の空気を肺へと送り込む。
息が戻った。空気がこれほどまでにありがたく、息を吸い続けることがこれほどまでに嬉しいことに、人生で初めて気づいた。身体の下には、番兵の折り重なった体があった。下敷きにしてしまったのか、番兵は動かない。揺り動かそうとして、脇と腕に激痛が走る。息をするたびに、肋骨からは耐え難い痛み。右腕はすでにあらぬ方へと曲がっていた。そうだ。塔から落とされたのだった。視界を上げると、霧がまるで天井のように空を覆っていた。その時、動く人影が見えた。見知らぬ格好の弓を持った兵士と目があう。何か言っているようだが、声は聞こえなかった。手を大きく振り、仲間を呼んでいるのか。
私は鼓膜がやられたのか?
否、違った。霧の下の音が消えているのだ。どういう訳かは判りかねたが、ここには空気はあれど、音というものが一切、消え失せていた。
私は腕を庇いながら立ち上がると、茂みに飛び込んだ。その僅かな瞬間に、塔の壁に手を当てて何かを祈っているような男性の姿が目の端に写った。すらっとした細身の貴族の指揮官・・・。
高山特有の薄い茂みと、大小の岩が転がる坂道を走り下るうちに、痛みは激痛に変わり、その逆に、ぼやけた頭は鮮明さを取り戻した。敵は、呪文使いだ。音を消し、塔の見張りの視界を封じた上で番兵を無力化。塔の内部に、否、屋上も含めた塔全体に、呼吸を遮る呪術を用いたのだ。あの呼吸の苦しみ・・・恐るべき力だ。兵たちとなんとかして、合流を果たさねば。
弦が鳴り、肩に打撃を受ける。
がつん、と肩の骨に当たる音が聞こえた。矢を喰らったのだ。帯剣は落下の際に無くしていた。草を掻き分ける僅かな音がするだけで、追撃者の姿はおろか、人数すらも判別できない。利き腕を骨折し、肋骨も数本折れて呼吸すら怪しい。ここは一旦、追撃から逃れるのが先決だった。目印にされぬ様、左手で矢の半ばを握り折ると、道なき道を走り降る。唯一の救いは、地の利が私にあった事だ。
四半刻ほど後、私は小高い崖の上から砦を観察した。敵の数は定かではないが、味方は紐で繋がれ、小屋に詰め込まれていく。抵抗が行われている気配はどこにも無かった。北の砦は、連れてきた工兵共々、陥落したのだ。信じ難い、否、受け入れ難い事実だった。歯茎から血が滲むほど、悔しかった。長年かけて築いた防衛施設が、私の立場が、訳のわからない呪術によっていとも容易く、崩壊させられた。
ともあれ、呪術を使う者がいるとすれば、王に伝えねばならない。それも、可及的速やかに。それは同時に、身を焦すほどの屈辱でもあった。
「私は、この惨状を、私の口から伝えねば・・・ならぬのか・・・」
胃が激しく軋む思いだ。腕と脇腹、背中の痛みなど、最早忘れるほどの激しい心の激痛だ。だが、それは私の勤めだ。追手を巻いた事を入念に確認しながら、私は来た道を戻った。
来た時とは異なり、たった一人で、大きな無念と恨みと痛みを抱いて歩いた。
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