第4話 青の軍師
紺碧の外套を靡かせて、大社の回廊を進んでいた。今後の施策を確認するため、王に謁見するためだ。大きく開け放たれた回廊の窓からは、断崖を削り込んで拡張された町の様子を見下ろす事ができる。細く入り組んだ山道は、百を超える分岐を成して山の麓まで続く。町の生命線でもあり、防衛の際には数多に設けられた関所を起点に、重厚な縦深防御の役割を担う。それが、どこまでも続く避難民の群れで溢れかえっていた。平地で暮らす者たちは、家財を積んだ荷車を階段に上げることに苦労し、そこかしこで横転、立ち往生の始末だ。
「まさに上に下にの大混乱、だな」
ここで兵を動かせば、民を谷に落とさねばならなくなる。難攻不落の断崖絶壁の神山ピエレト。だが、収容できる民には限りがある。ここまで避難してきた民たちも、それは身をもって知った事だろう。それ故に、屋根のある落ち着ける場所を確保しようと渋滞を掻き分けて、我先へと山頂目指して進むのだ。それが更なる混乱を生むと知ってか、知らずか。
「青のデジレ、国王陛下に拝謁します」
王は謁見の間に扉を設けなかった。代わりに薄絹を幾重にも天井から垂らし、それらを掻き分けながら入室する形式を好んだ。いつでもひんやりとした風が通り、うっすらと香が薫る心地の良い空間だった。側仕えはいない。用のある者だけが、この部屋にはいるだけだ。
私は、この王の気質を好ましいと感じていた。
「漆黒のウジェヌ陛下、物見たちからの報告を得ました。敵は川の只中に陣を張り、櫓を建てたようです。ここからも見ることが出来ます」
「うむ。どれ、拝もう」
漆黒の外套の裾を腕に巻き取り、陛下はゆっくりと立ち上がる。巨体、といってよい。質実剛健を尊ぶ山の民において、その鍛え抜かれた巨漢ぶりは、尊敬の対象とされていた。
「お隣を失礼。あちらです。大杉の左手にございます」
山の民の多くがそうであるように、陛下の瞳は青く美しく、肌は褐色、髪は灰色。典型的な山の民の姿であった。
「あれは、かまどの煙か?」
「そのようで」
「ふん。実のところは、それほど兵はいまい」
「ご明察です。事前の推察よりも更に少なく、およそ千を数えるばかりとのこと」
陛下は髭を弄びながら、壁に寄りかかり、山の裾野から顔を覗かせる櫓をしばし眺めた。
「私めがひと当たり、して参りますか?」
「勝つのは容易い。だが、今はその時ではない。北の兵もまだ動かすでないぞ」
陛下は青い瞳を細めて、微笑んだ。
「・・・もしや、同盟が叶いましたか?」
すぐには答えず、座椅子まで移動し、私には茶を入れるようお命じになる。乾燥した湯花をふたつの椀に入れ、囲炉裏に吊るされた湯を取り、上からゆっくりと回しかける。程よく熱い湯を受けて、花はゆっくりと椀の中で花弁を開き、同時に甘くまろやかな香りが鼻腔を抜けてゆく。
「積年の抗争の記憶も忘れて、諸族がこぞって援軍に駆けつけてくれる。なんとも頼もしい。真に頼れる者は、遠くの親戚よりも近くの好敵手といったところか」
茶を啜りながら、陛下がほくそ笑む。
「それは建前で、諸族の腹の内は、別にあるのです」
「・・・軍師、お前はすでに儂の構想を全てお見通しなのだろう?どうだ、答えを申してみよ」
「どうですかな、私も歳五十。最近は物覚えも悪うございます」
「ははは。同年の儂の前でよくも抜かす。答えよ。当てたとて、拗ねたりはせん」
「・・・仕方ありませぬ。諸族が援軍の要請を受けることは、正直なところ、すでに予想しておりました。何しろ、庭先まで迫った野犬の群れを他人の庭で退治できるのですから、渡りに船というもの。誰も自分の庭を血で汚したくはないものです。ですが、諸族の狙いはその先にあります。それは、陛下も同じかと」
茶を更に一口啜り、陛下は楽しげに頷いた。
「続けよ」
「真の狙いは、辺境を制覇しながら北上を続けてきた、敵のその後背にある領土です。かつての豪族たちがすでに一掃され、かの地は今やもぬけの殻。こぞって奪い合いが始まることでしょう」
「そこからが、本当の戦よ」
「敵との戦闘で、互いに疲弊した軍同士では勢力が拮抗してしまいます。そこで、民の食を断ち、ここに集結させた。冬の食料を得るには、山の備蓄だけでは賄いきれません。新たな土地を得なければならない。民たちは進んで戦力となるでしょう。これは総動員令と同じ事です。わずかな兵しか送らぬであろう諸族らと、我らが山の民の兵力差は歴然となります」
陛下は茶を床に置くと、手を一つ叩いて“然り“と私を指した。
「その通りだ。まるで鏡合わせをしたかのような心境だぞ。今は、民が邪魔で兵を動かせんが、元々慌てる事もない。むしろこの状況がこちらの落ち度だと、敵の目にも諸族らの目にも映る事だろう。諸族が集結するまでやむを得ない形で、時間稼ぎができるのだ。どうだ?この手に抜かりはあるだろうか?軍師、正直に述べよ」
一つ、懸念があった。それは、常に否定的な立場で自らを評価する目線だ。つまり我々は、状況に有利な解釈を充てていまいか。自分たちの都合の良い形で、現実を見てはいまいかと自らの疑う心が、欠けてはならない。
「敢えて申し上げるならば、敵の数が予想よりも下回ったことです」
「ふむ。奴らは傭兵を使わんそうだな。民兵をかき集めても、武具はすぐには揃わんだろう。だが、用心に越した事は無い。ここは、別働隊がいるとみるべきだろう」
「番屋の守りを強化するよう、兵を工面しましょう。それともう一つ。奴らの布陣場所です」
「うむ。これは、天佑かも知れん」
「あくまで選択肢として、ですが・・・水攻めを準備させては?」
この一言には、細心の心配りを持って望んだ。
王も私の心の底を汲み取られた様子だ。私の目を覗き込み、いつもよりも更にゆっくりとした口調でお答えになられた。
「軍師の意見通りに北の砦に兵を補強しておいて、正解だったな。デジレよ、計略はお前に任せる。北の兵と工兵たちを使い、着手せよ」
「ははッ。直ちに」
茶を飲み干し、後ろに下がってから立ち上がり、退室の礼をする。
薄絹を数枚越えた時に、ウジェヌ陛下から声をかけられた。
「デジレよ、勝機を心得よ」
それは、水を流すタイミングを間違えるな、という戒めと心得た。
回廊を進んでいると、不意に強い横風が吹き込み、紺碧の外套が視界を邪魔した。それを手で巻きとって脇に抱える。外套としているこの長布は、陛下から頂いたものだ。高官は全て特有の色を与えられ、陛下の御前では必ずそれを着用し、名と共に述べる。これは、一種の合言葉なのだろうと認識していた。そして、陛下の意図に不服の無い証明でもある。
山の神を祀るこの大社には、数百の色とりどりののぼりが掲げられ、神に捧げられるのと同時に、それぞれの色が陛下に仕える百官を象徴していた。これらのしきたりは、全て陛下が改めたものだ。剣の神の信仰を廃し、古来よりの山神信仰を国の教えとした。社を建立し、宮司としての祭事も取り仕切った。民たちの意識はピエレト山に集中し、その中心に陛下が座したのだ。国界は教えにより明確化され、剣の神の土地へ民が浸透するのを防いだ。だが、当然ながら反発は大きいものだった。
ピエレト山の信仰は、地場に根付いた自然崇拝だ。剣の神々よりも以前から存在する。山の周辺の参道から礼拝堂廻りがはじまり、やがて山頂までの間に、参拝する箇所は百八にものぼる。額のチャクラに染料で印を付け“開眼“を模した状態で行われるそれは、“山廻り“と言われる風習で、御神山の霊気と身体の霊力を同調させ、正しくその加護を受け体調も好転すると言われる。陛下はこれを年に一度、自分の生まれ月の初日に参拝せねばならない義務とした。昨今、ようやく民の意識がこの新しいしきたりに根付いた頃だった。山の麓を揺蕩う川を堰き止めた時も、広大な耕作地を失うことになる民の反発はあった。だが、おかげで“災厄“は影を潜め、新たな生活に慣れ始めた民はその功績に感じ入り、ようやく落ち着きを取り戻しつつあったのだ。王の慈愛の心を民たちは、すぐに理解する事ができない。だが、感情のざわつきが収まり、改めて全体を見渡す事で、やがてその真意に気付かされるのだ。
ここまで、陛下は大きな改革に幾度となく取り組み、苦労の末に民と土地を安んじられてきた。それを異邦人たちに、邪魔されてなるものか。否、むしろ狭い耕作地で食に喘ぐ民たちに、陛下は新天地を与えようとしてくださっている。思慮深い陛下は諸族の長たちの思惑をも出し抜き、きっと広大な領土を御手に入れるに違いない。さすれば、今まで犠牲となった者たちの御霊も安らぐことだろう。度々の動乱を経て、国はようやく新たな方向へと足並みを揃えて歩み出したばかりなのだ。ここで、躓く訳にはいかない。山の国の発展、民たちの安寧、我が民族の繁栄には、もっと、先があるはずだ。陛下は常に先を見ておられる。軍師を拝命した私が、それに遅れをとる事は許されなかった。
兵舎は住民から徴用した物資で溢れ、兵士たちは残された狭い空間に身を寄せ合っていた。
「将軍、物資を運び出さねば、兵たちの寝床もろくにないではないか」
翡翠色の外套を纏った長身の将軍は、私の前に膝まづいて礼を示す。
「お言葉ですが、民たちが練兵場にまで押し寄せ、他に屋根のある場所がありません」
武勇では名の通った男だが、陛下のような機転は利かぬのだ。無理もない。
「無ければ作ればよい。麦をずた袋に詰め、外に積み上げるのだ。その周りを結衣合わせた藁束で囲み、屋根として漆板を載せよ」
「はっ、直ちに!」
「待つのだ将軍、その前に命がある。工兵を三百、工面せよ。翌朝、私が引き連れて出る」
「お、お待ちください。工兵の兵舎までの道は現在、不通でございます」
「・・・知っておる。民が邪魔なのであろう」
「で、ですから今日中の移動となりますと、混乱が生じるかと・・・」
使えぬ奴だ。
「お前は将軍であろう?敵が来たら『今日は道が混んでいるから明日にしてくれ』と言うつもりなのか?」
将軍は額の汗を拭いながら、慌てて首を振った。
「現在、兵士の移動のために縄梯子と釣縄を張り巡らせているところです。工兵たちもそれに従事しております。今日には終わりませんが、明日には整うものかと」
ほぅ。
「よい機転だ。では、急ぎはせぬ事としよう。幸い、敵はすぐには攻めて来ない。二日後の早朝に出発する事とする。それと、無理を重ねて申してすまぬが、番屋の守りを強化するよう、陛下がお命じになった。三十人ずつ補強せよ。以上だ、作業を進めよ」
「はっ!」
危うく、人にはそれぞれに同じ頭が付いている事を失念するところであった。自分一人で思案を巡らせている時には、他の誰かも同じように苦労しているものとはなかなか思えないものだ。この歳にもなって、自分が情けない。願わくば、敵の中にも私と同じ事を考える策士がおらぬようにと祈ろう。
新たな移動手段を念頭に置いた兵士の配置転換と、避難民たちの生活空間の新設について設置場所や設計図面を手配しているうちに、結局のところ翌日の深夜となってしまった。早朝の出発に向けて軍装を整えていると、物見の知らせが入る。
敵の別働隊が番屋を攻め落としているらしい。
これは痛い。先手を取られた。
番屋はいずれも山中の崖や峠の頂上などに設けられた小規模の砦だ。兵糧攻めには弱いが、元々多くの兵士を置ける場所ではなく、敵情の偵察と連絡、侵攻に対しては遅滞戦闘が主な役割だ。平時は五名程度の駐屯を二十名にまで増強済みだった。更に三十名も増やせば砦が小さすぎて防衛戦闘では逆に効率が悪いほどだが、道が狭い山間部故に一旦やり過ごしてから後背を突くゲリラ方式の追撃戦が可能になるはずであった。
窓を開けて、渓谷を隔てた峠の番屋の方向を見る。紺色の夜空を区分ける稜線のシルエットの中に、小さな明かりが見えた。
「山で火攻めか。他人の土地と思って見境のない事だ」
報告では、五十五ある番屋のうち、攻撃されたのはわずか三箇所だけだった。番屋の位置を特定する手間を考慮すれば、敵の別働隊もまだ本領を発揮できないでいる事だろう。ピエレト山でなくとも、この地の道はどこも険しく、細く入り組んでいる。地形を把握しなければ、有機的な戦術は行使できない。しばらくは単発的な番屋への攻撃が続き、本格的な脅威となる軍事行動に出てくるのは、ひと月は先の事だと予想する。番屋の兵の増強も進めば、敵の勢いも自ずと減退するだろう。
「陛下の仰る通り・・・か。異邦人どもめ、今は攻め手のつもりで勇んで血を流すがいい。真綿で首を絞められている事にも気付かずに、な」
物見を下がらせ、陛下への報告は出立の知らせと共にすることにし、軍装の支度を進めた。
呪われた“災厄“を封じた門を開くその時が、いよいよ近づいていた。
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