祝福

 そんなこんなで、前例なしの男の授乳もなんとかなりそうな見込みの見えてきた、1月2日の昼下がり。

 洗濯物の取り替えや買い物をしてきた神岡が、どこかそわそわとした顔で病室に戻ってきた。


「柊くん。両親の見舞いなんだが……これから二人が病院へ来ても、体調的に大丈夫?」


 そこはかとなく嬉しそうな彼の表情に、俺もふわっと幸せな気持ちに包まれる。


「ええ。後陣痛はまだ治まりきってはいないですけど、だいぶ楽になってますし……お義父さんやお義母さんも、きっと晴と湊との対面を思い切り楽しみにしてくださってますよね。むしろお待たせしてしまって申し訳ないです」


 神岡は、昨日の出産の連絡の際、俺の身体を気遣って見舞いは少し待ってもらうよう、両親に伝えてくれたらしい。 


「両親も、君と赤ちゃんの体調が当然最優先だとは言ってくれているんだけどね。さっき電話でこっちの様子を伝えたら、孫の顔見たいモードがもうビリビリ伝わってくるし……君が大丈夫そうなら、OKと返事しようと思うんだが」

「はい。もちろんです。

 ただ、俺の疲労度満点な顔はお気になさらないように、しっかり伝えてくださいね」

「了解。

 君のご両親にも、君の出産のことと今の状況を詳しくお伝えしてあるよ。お二人とももうめちゃくちゃ喜んでて、明日病院へいらっしゃれるそうだ」

「明日ですか……うあ、嬉しさと緊張がごちゃ混ぜですねこの感じ……」

「本当だね。僕も全く同じだよ」

 彼の微笑みが、キラキラと輝くようだ。


 俺の妊娠は、彼と両親との間に大きな波風も立てたように見えたが——やはり、新しい命の誕生は、こうして人の絆を深めてくれる。

 この上なく嬉しく、幸せなことだ。

 ただ、男の子の双子を妊娠したと分かった時に持ち上がった「神岡工務店後継者問題」は、まだ宙に浮いた状態であることは間違いなく……

 この幸せな空気が、再び暗く翳る可能性を考えると、ふっと胸が息苦しくなる。


「——いや。先のことは悩まない! 今からストレスを抱えてもいいことは一つもないだろ!」

 俺はひとり、小さくそう独り言ちた。









 その日の夕方。

 神岡の両親が、病室を訪れた。

 クリニックの外へ出迎えた神岡が、二人を晴と湊のいる新生児室へ先に案内し、既に子供達の様子をじっくりと眺めてきたようだ。


「柊くん、おめでとう。本当に良かった。赤ちゃん達も君もこんなに元気で……まるで夢のようだ。

 しかし、こうやって実際に対面すると、改めてリアルな幸せが胸に湧き上がってくるものだな」

「もー本当に信じられないくらい綺麗な双子ちゃんでびっくりしたわ!! おっぱいもしっかり吸うし自己主張もはっきりしてるんだって、樹にもう自慢されちゃったわー、うふふっ♪♪」

 義父も義母も、病室へ入るなり満面の笑みでそんな祝いの言葉を向けてくれる。


「……ありがとうございます、お義父さん、お義母さん」



 出産前、抑えきれない不安を抱えて神岡の実家からクリニックへ向かって以来の、両親の笑顔。

 無事出産を終え、またこうして笑顔で過ごせる時を迎えるのだと必死に願った昨日の朝が、まるでずっと前のことのように思える。

 子供と対面する前の自分と、実際に子供達を胸に抱き、親になったことを痛いほど実感した今の自分。

 ——人生で、自分自身がこれほど大きく変化したことを感じる境目は、後にも先にも恐らくないだろう。


 それを静かに見守り、支えてくれた両親の暖かさが、胸に染みる。



「——なあ、ところで柊くん」


 義父が、何か言いづらそうに俺の側へ寄ると、不明瞭にぼそぼそと呟く。


「樹からちょっと聞いたが……思ったより母乳も出るし、できる限り母乳で育てる予定、というのは本当か?」


「…………えっと」

「ちょっと、充さん! その質問って思いきりセクハラの範疇でしょ!!」

 などと険しい声で言いつつ、義母も俺の胸元をじっと見つめる。

「……でも……実は私もすごく気になってたのよね……見た感じ、豊かに膨らんだとかそういう感じは全然ないのに、ちゃんと出るのね……人間の体って、本当にすごいわ」


「えっと、俺もその点は驚いてるというか、最初は受け入れ難い感じもあったんですけどね」

 気恥ずかしさになんとなく胸元をかき合わせつつ、俺は微妙に複雑な笑いを浮かべる。


「でも、今日初めて実際に授乳してみたら、なんというか……母乳を与えるって、こんなにも子供への愛情が深まる行為なんだって、初めて実感して。

 お互いの体温を感じ合い、視線を結び合って……言葉では何とも説明できない、温かくて幸せな感覚を味わいました。

 当然乳首は女性よりずっと小さいから、すごく吸いづらそうで子供達には苦労させちゃいますが、できる限り頑張ろうと」


「そういうところ、すごく柊ちゃんらしいわね。人として、本当に素敵」

 義母が、優しさに満ちた瞳で俺を見つめて微笑む。


「うん。麗子の言う通りだ。

 それに……そういう母子の図が、柊くんにものすごくはまるところがまた……樹がその風景を独り占めするのかと思うと、なんだか残念というか悔しいというか……」

「父さん。突然なにを言い出すんですか」

「あなた」

 微妙に口を滑らせた感のある義父を、神岡と義母が鋭い眼差しでギロリと睨む。


「あー…………すまん」



「——……」


 そんな親子の情景を、笑いを噛み殺しながら眺める俺である。









 そんな風に和やかな病室へ、藤堂が訪れた。

 助産師が、晴と湊のベッドを押してその後ろについている。


「神岡さん。この度は、誠におめでとうございます」


「藤堂先生。——本当に、ありがとうございました」

 両親は、藤堂を見るや瞳を大きく潤ませ、深く頭を下げて感謝を述べた。


「いいえ、私はほんの少しお手伝いをしただけですよ。

 このお二人が、本当によく頑張ったからこそです」

 藤堂は、暖かい笑みを浮かべてそう答える。


「ちょうど赤ちゃんたちも目が覚めたようですし、双子くんをここへお連れしました。

 二人とも、彼のお腹で順調に育ったおかげで、この上なく健やかですよ」

「ご配慮をありがとうございます、先生」


 小さなベッドの中を、二人とも身をかがめて愛おしげに覗き込む。


「おお……こっちがお兄ちゃんの晴だな。で、こっちが湊か……二人とも本当に元気一杯だ。手足がぱたぱた動きっぱなしだぞ」

「うふふ、初めまして。……もしかしたら、晴ちゃんは柊ちゃん、湊ちゃんは樹にどことなく似てるかしら?」

「うん、湊の髪の色は僕にそっくりだ。晴、湊。わかるか? おじいちゃんとおばあちゃんだぞ〜」


 溢れるほどに暖かな両親の眼差しを、二人の小さな瞳が一生懸命に見上げる。

 義父と義母の指が、それぞれ小さな指と結び合った。



「——樹、柊くん。

 実は今日は、二人に大切な話もあって、ここへ来たんだ」


 愛おしげな眼差しをふと真剣なものに切り替えて姿勢を改めると、義父は俺と神岡をまっすぐに見つめる。



「——神岡工務店の後継者の件だ」



「……」

 その言葉に、俺たちの表情は一気に硬く緊張した。



「これまで、麗子とも何度も話したのだが……

 私たちが考えた一つの案を、お前たちに提案しようと思ってな。


 それは——晴と湊が高校2年の夏を迎えるまで、二人が自由に将来を選択する時間を与えてやる、というものだ。

 高校2年と言えば、進路を明確に選択しなければならない時期だ。

 それまでには、二人の将来の希望もしっかりと定まってくるだろう。

 その希望の中に、神岡工務店の後継者という選択肢が含まれないならば——彼らに会社を引き継がせることは、断念しよう。


 社長の世襲を見直すとなれば、社内からは様々な意見が出るだろうが、その時はその時だ。何とか理解を得て乗り切る以外にない。

 子供達の意思を押し殺すことなく将来を選ばせるには、そういう困難が含まれることも覚悟しなければならないぞ。


 その点も踏まえた上で——この案を、お前たちはどう思う?」




「——……」



 義父からの提案を、俺たちはしばらく脳内で反芻した。



 その案は——

 俺たちにとっても、まさに理想の方法だ。

 誰かの主張が一方的に有利になることなく、全ての当事者にとって納得のいく、実に公平な案だ。



「——素晴らしい案だね、柊くん」


「はい。最善の案だと、俺も思います」


 神岡の確認の言葉に、俺も大きく頷く。



「——父さん。

 ありがとう……本当に」


 微かに詰まるような声で、神岡が義父に深く頭を下げた。


「本当は、昨日の朝話すつもりで、途中まで切り出しかけたんだが……あの時ちょうど、柊くんの破水が始まったのでな。

 お前たちにも納得してもらえたようで、ホッとしたよ」


 そこで義父も、やっと緊張を解いた柔らかな笑顔になる。



「これから、二人が高2になるまで、約17年。

 その間に、私たちの仕事——家を建てるという仕事の素晴らしさを、子供達にどれだけ伝えられるか。それが、お前たちの大きな役割の一つだ。

 自分たちの仕事に誇りを感じているならば、全力でその魅力を子供達に教えてやりなさい」



 穏やかで温かい義父の言葉と眼差しを、俺たちは改めて胸に深く刻み込んだ。


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