味方
実家を訪問することを両親へ連絡した翌週、月曜の朝。
神岡は、秘書の菱木さくらを副社長室へ呼び入れた。
「どのようなご用件でしょうか、副社長?」
「ん……とりあえず、ちょっと座って」
「はい——失礼いたします」
そう長さのないボブの髪をぎこちなく耳にかけて、さくらはソファへ座る。度胸はいい方だが、流石にこの張り詰めた空気には思わず筋肉が強張る。
神岡から、こんな風に改まって話を切り出されるのは、これが二度目だ。
一度めは——2年ほど前。まるで無表情なロボットのようにただ仕事をこなすだけだった副社長が、自分の生きる道を切り開くための闘いを始めた、あの時。
社内での重責や、愛のない婚約者の存在。様々な鎖に縛られて苦しむ彼が、三崎柊との出会いで息を吹き返すように変わっていくその様子を目の当たりにしたさくらは、彼ら二人が寄り添えるよう全力で協力した。
今回も、その時と同じような空気が流れている。
さくらは再び身が引き締まるような緊張を覚えた。
「——菱木さん。
三崎くんの、最近の変化……君は、気づいてる?」
意を決したように静かに向かいのソファに座ると、神岡は真剣な眼差しでさくらを見つめ、問いかけた。
「……え……
でも、あの……」
「気を遣ったりすることはないから。——何に気づいてる?」
「……ならば……
私の勘違いでなければ——少し、ふっくらされましたよね?……お腹周りとか。
幸せ太りなのかな?と思ったり……ちょっと不思議に思ったりはしてましたけど……」
「——うん。
君の感じてる通りだ。
そのことで、今日君を呼んだ」
神岡は、自らを励ますようにすうっと大きく息を一つ吸い込むと、その眼差しに一層の力を込めて言葉を続けた。
「——彼のお腹には、今、双子がいる。
僕と彼の子だ」
「——————」
神岡の言葉に、さくらは文字通り固まった。
その意味を、何とか理解したいのだが……どうにも追いつかない。
やっとの思いで口を開いた。
「あの……
三崎さんが、どうして……」
神岡は、ここに至るまでの経緯の詳細を、彼女に説明した。
驚きしかなかった彼女の瞳に、じわじわと熱が満ちたかと思うと——それはとうとう溢れ、ほろっと頬を転がり落ちた。
「……そうだったんですか……
そういう強い願いを、お二人でここまで叶えたんですね……
新しい命を宿したい。そんな思いを、それほど強く抱けるなんて……なんだかもう、胸がいっぱいで、痛いくらい……」
感極まるように指で小さく涙を払うさくらに、神岡は嬉しそうに微笑んだ。
「君にそう言ってもらえて、嬉しいよ。
君なら、きっとそんな風に理解してくれると思った。
——でも、本当の正念場は、ここからなんだ。
彼のお腹は、これからますます大きくなる。妊娠していることも、隠しているわけにはいかない。
だから……社内にも、このことをはっきり報告しようと思ってる。
僕と彼、二人で」
「…………え……」
驚いたように神岡を見据えたさくらに、神岡は穏やかに言葉を続ける。
「こそこそと隠れて何かを済ませてしまいたい……そういうタイプじゃないんだよな、三崎くん。
僕も、彼の気持ちと全く同じだ。
ここで逃げたり隠れたりすることは……自分たちの選択に、自分たちでしっかり自信を持てていないと言ってるのと全く同じことだ。
僕たちの選んだものは、誰に対しても堂々と胸を張っていいことだ。間違いなく。
誰が何と思おうと、この気持ちだけは曲げるつもりはない。
だから……その時は、君も僕たちを応援してくれるだろうか、菱木さん?」
さくらは、潤んだ瞳にぐっと力を込めると、神岡を真っ直ぐに見つめた。
「…………当たり前です。
むしろ、応援団作りたい気分です。旗でも横断幕でも、なんでも掲げて。
必要なことがあったら、どんなことでも仰ってください。私にできる限りのことを、全力でさせていただきます」
「ありがとう。
君のような強い味方がいてくれれば、僕も三崎くんも百人力だ」
「でも……
三崎さん、くれぐれも無理はしないように、気をつけてくださいね。
妊娠中のストレスは、身体に大きな負担になりますから……それが双子ちゃんなら、尚更です」
さくらのそんな言葉に、神岡の表情もふっと曇った。
「……僕も、それが心配だ。
自分を甘やかさない人だから……ほんとに甘えるのが下手くそだしね、昔から」
そんなことを愛おしげに呟く神岡の表情に——
さくらは、これからの二人に嵐が吹き荒れることのないよう、ひたすら祈るばかりだった。
*
「僕は嫌だからね、向こうの顔色窺うみたいなマネは……!」
9月上旬、土曜の昼下がり。
俺と神岡は、実家に持参するホイル焼きの下ごしらえに取り掛かっていた。
夕方から、例のバーベキューの予定である。今日は幸い暑さも和らぎ、爽やかな風が吹いている。
神岡は、どうやらこういう差し入れなどを用意して行くことが気に入らないらしい。流れ作業的にサーモンの切り身と舞茸をホイルへ乗せつつ不満顔だ。
それを受け取り、バターを乗せて塩胡椒をふりながら俺は苦笑いした。
「顔色窺ってる訳じゃありませんって! お義父さんお義母さんに食材を全部準備してもらっちゃ、何となく気が引けるじゃないですか。ほら頑張ってください、まだ色々包むんですから」
そんな俺の言葉に、彼は子供のようにぶすっとふくれる。
「このホイル焼きは確かに美味いに違いないし、きっと場も盛り上がる。君のアイデアはいつも行き届いてるのは認める。けどさ……」
「もーーー。それとこれとはこの際別にしてくださいっ! 美味しいものはしっかり美味しく食べないと、お腹の赤ちゃんが悲しみます!」
「んぐ……それはそうなんだが」
そう言い淀む彼の顔をぐっと覗き込んで、俺はまるで小学生でも諭すように言い聞かせる。
「それに、あなたも。
明るい顔でいかなきゃ、上手くいくものもいきませんよ!
場の雰囲気が話の行方を大きく左右するのは、大きな契約をいくつもこなしてきたあなたの方がよく知ってるでしょう?」
「……うぐぐ、わかってるって……
頭ではよーくわかってるんだ!
だがしかしっ……あー。とにかく身内同士のこういう話し合いってのはどうしてこう感情が先に立つのか……なんかもう契約100回分くらいの憂鬱さだ……」
彼の言葉に、俺も横浜の両親へ報告に行ったひと月ほど前のことを思い出す。
「……ですよね。
俺もそうでした。お互いをよくわかっている分、素の自分がつい剥き出しになっちゃう感じで、冷静になれなくて」
二人、うんうんとしんみり頷く。
「……ねえ柊くん。
もし僕がうっかり戦闘モード入っちゃったら、なんかサインでも出してくれないか。軌道修正するから」
「分かりました。
こっそり脇腹に肘鉄とか……グサっと」
「ぐえ……痛そう……」
渋い顔でそんなことを呟く彼に、俺はクスクスと笑う。
「——肘鉄も大事かもしれませんが。
あなたがピンチの時は、俺があなたを助けます。絶対に。
だから、もっと力を抜いて。……少しは俺に寄りかかってください」
「————ああ、そうか」
忘れていたことにふと気づいたように、彼は改めて俺を見つめた。
「そうだった。
今はもう、君が味方についてるんだな、僕には。
——これまでみたいに、一人きりで闘うわけじゃないんだよな」
「そうですよ。そこを忘れてもらっちゃ困ります」
「——うん。
君がいてくれれば、安心だ。
……僕は、つくづく幸せ者だな。
よし、気持ち切り替えていこう。
ピンチになったら、援護頼む。柊くん」
「……もちろんです」
彼の痛みが、改めて胸に刺さる気がした。
彼はこれまで、誰一人味方を得ることもできないまま、さまざまな葛藤と闘ってきたのだ。
その日々は、どれだけ孤独で、寒かっただろう。
彼に出会えて、よかった。
こうして俺が、彼を傍で支える一番の味方になることができて……よかった。
心から。
改めて、そんな思いに浸る。
やっと安心したように自分の感情を俺に預ける素直な彼が、たまらなく愛おしかった。
「任せといてください、樹さん。
その時はその時です。なるようにしかなりませんし」
「え……
そんなアバウトだったっけ柊くん……」
「あはは。ケ・セラ・セラっていうのも心のどこかに置いとかなくちゃ、窒息しちゃいますよ」
冗談めかして笑う俺の肩に、いきなりぐいと腕が回った。
強く引き寄せられ……何の反応もできずにいる唇に、彼の唇が柔らかく重なった。
長く濃いキスをやっと打ち切り、彼は耳元で甘く囁く。
「——僕は今すぐ君を窒息させたい」
一瞬、冗談なんだか本気なんだか分からなかったが……熱を含んで俺を捉えた彼の眼差しに、俺の内部も俄かに熱を持って疼き出す。
「…………
俺も……今すぐ、あなたに思い切り食い荒らされたい」
「……んーーー。今この流れはさすがにまずいな。
今日、いろいろちゃんと頑張って帰ってきたら……さすがに食い荒らすってのは無理だけど」
「ええ、そうですね……
そのためにも、これからの大仕事、何とか乗り切りましょうね……」
そんなことを話しながら、バーベキューへ向かう準備は整っていったのだった。
*
その日の午後6時ちょうど。
俺たちは、神岡の実家へ到着した。
「おお、来たな二人とも! ちょっと久しぶりだな。
柊くん、少し前に体調がいまいちだと樹から聞いていたが、大丈夫か?」
義父は、相変わらずのロマンスグレーな笑顔と活気に満ちた声で俺たちを出迎えた。
いかにもバーベキューらしく、半袖のポロシャツとチノパンというラフなスタイルだが、そういうのも実にしっくりと似合ってしまう。
「はい、おかげさまでもうすっかり」
「いらっしゃーい柊ちゃん、樹♪ 待ってたわ」
歳を経ても少しも衰えない若々しさを保つ、美しい義母である。ゆるいウェーブの髪をポニーテールにまとめ、くっきりと大きな瞳を輝かせて明るく微笑む。母より姉というようなボディラインのTシャツとジーンズ姿がまた眩しい。
「母さん、これ。柊と準備してきた」
「あらすごい、ホイル焼き!? 美味しいのよねー。気が利くわね二人とも! 嬉しいわ」
「柊のアイデアなんだ。喜んでもらえてよかった」
そこで神岡は、思い出したようにニッと不器用な笑みを作る。
どんな修羅場でもごく自然に和やかな空気を作り出すあの有能っぷりは、一体どこ行っちゃったんだ……?
「……樹。今日はどうしたんだそんな笑顔で?
いつものお前らしくないな。普段はもっとムスッとしてるだろ、なあ麗子?」
「あら、そう言われればそうかしら? 最近私はもー柊ちゃんばっかり見てるから♪ 素直で可愛くて、今や私にとって最高の癒しなの♪♪」
「それは私も同じだぞ。彼の可愛さは君だけのものじゃない。なあ柊くんっ♪」
「…………」
せっかく作った彼の笑顔が、ひくひくと引きつっている。
ほんと頼みますこういう時に限って喧嘩売るような話運びやめてくださいお義父さんお義母さんーーー!!!!
「……あら。
柊ちゃん、もしかしてどこかふっくらした?……何となく、お腹周りがこう……
んん、気のせいかしら?」
目を細めて俺を見ていた義母の顔が、ふと不思議そうに傾いた。
ラフなサマーセーターを選んでも、もう外目からも気づかれてしまう。
「気のせいじゃないよ、母さん。
……こうして玄関先で話すことでもないから…… 」
止むを得ず低まった神岡の声と、真剣な表情に——賑わい始めたその場の空気も、すっと切り替わらざるを得なかった。
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