不思議な感覚
「三崎さん、神岡さん。内診室へどうぞ」
7月末の、日曜の午後。
俺と神岡は、藤堂クリニックへ妊婦(妊夫?)健診を受けに来ていた。
現在、妊娠4ヶ月目だ。
つわりは今月初め頃から徐々に軽くなり、俺はあの地獄の吐き気やムカつきからようやく解放される幸せを噛み締めていた。
「体調の方はどうですか?」
「つわりもだいたい抜けてきたみたいで……やっと食事が美味しくなってきました」
「それは良かった。じゃ、機械当てますね。
……うん、いいね。二人とも順調に成長してますよ。
ほら、ここ。心臓がちゃんと動いてる。で、ここが頭で、肩……」
診察台に横になった俺の下腹部にエコーの機器を当てながら、藤堂は笑顔で俺たちにそう説明してくれる。
「…………」
回を追うごとにその形や動きがはっきりとしてくる画像を食い入るように見ながら、俺たちはまともに言葉も出てこない。
……すごい。
本当に、新しい命が、ここで育っている。
こんなに小さな体が、懸命に生きようとしている。
こういう風に、どこかをぎゅっと強烈に掴まれるような感動は、今までに経験したことがないものだった。
撮影したエコー写真を、藤堂は俺たちに手渡してくれる。
その写真に、二人でじっと見入った。
「三崎さん、良かったですね。目下のところとても順調ですよ!
流産の危険性の高い妊娠初期の時期は、無事クリアできました。男性でも、健康な体であれば胎児をちゃんと守れる。ここまで見る限り、やはりそういうことが言えそうです」
俺の身体をチェックした藤堂は、嬉しそうにそう話してくれた。
「——ありがとうございます。
藤堂先生が診てくださるおかげで、僕たちも大きな不安を抱えずに過ごせています」
神岡が、俺の隣で改めて藤堂に深く礼を言う。
「こちらこそ、なんだかお二人の幸せを分けてもらってる気分ですよ。
つわりもほぼ抜けたようですし、先ずは心身ともに安定期に入れそうですね」
「あの……先生。
安定期に入れば、いろいろな制限も少し緩められると、本などには書いてあるようですが……
俺たちのような場合、実際のところどうなんでしょうか?」
俺は、重要なその部分を思い切って質問した。
いろいろな制限……それはつまり、「身体の関わり」を指したつもりだ。
妊娠中でも、セックスに必要以上に神経質になる必要はない、といろいろなところに書かれてはいるが……多胎児妊娠となると、話は違うようなのだ。
多胎児妊娠は、単胎児の場合に比べて、流産や早産等いろいろなリスクがぐっと高くなる。安定期に入るからと油断はできず、引き続き充分な体調管理が欠かせない。
「んーー……そうだなあ……
今回のケースは、やはり楽観視は禁物……どれだけ順調でも、それは変わらないのです。
なので、ここから先も、妊娠初期同様のストイックさで……」
そう言いながら、藤堂はどこか意味ありげな目で俺と神岡の顔をちらりと見た。
「……ですよね!!」
俺も神岡も、そんな返事を明るく返したものの……
彼の内心の落胆ぶりが、手に取るように伝わってくる。そして、俺自身の落胆っぷりもまた、ぶっちゃけ彼と同レベルなのだった。
「…………
月に一度程度、ごく穏やかにならば……激しくするのは厳禁ですよ!
慎重に様子を見ながら……お腹の張りや出血など、何か異常があった時にはすぐに中断してくださいね。それでも異常が治まらない場合は、すぐに私へ連絡してください。いいですか?」
そんな俺たちの様子を見て、彼はビシッとそう言い渡した。
「…………はい……」
俺たちが押し殺した心の声は、彼にはどうやら丸聞こえだったらしい。
「————苦しくない?」
その夜。
ベッドの上で乱れた息遣いを収めながら、神岡は俺にそう囁いた。
こういう時間を過ごしたのは、本当に久しぶりだ。
数ヶ月間押さえ込んだ欲求は、押さえ込んだ分だけ濃縮された熱に変わり——藤堂の言いつけを必死に心で繰り返し、お互いにギリギリとブレーキを踏みながら味わうその触れ合いは、たまらなく濃密で、甘いものだった。
汗ばんだ髪を額からかき上げ、彼は俺の上に伏せていた身体をそっと横に倒すと、その胸に俺を優しく抱き寄せた。
「どこも、痛いところはない?」
「大丈夫です」
自分の身体の隅々にまで神経を巡らせ、どこにも異常のないことを神岡に伝える。
「……触れてもいい?」
「……いいですよ」
どこか恐々と手を伸ばし、彼は俺の下腹部にそっと掌を当てる。
「——すごいな。
不思議なような、何だか怖いような……そんな幸せって、あるんだな。
こうしていると、今一番大切にしたいものはこれなんだって、はっきりとわかるよ」
神岡は、その掌で胎内の全てのものに触れようとするかのように、静かに目を閉じる。
「……そうですね。
不思議です。
ここにある命が、何よりも大切。はっきりと、そう言い切れる。
これまで感じたことのないそんな感覚が、自分の中にもうできている。
——俺もあなたも、この子達の親になるんですね。本当に」
「君を誰よりも愛していることは、これからも変わらない。絶対に」
「わかってますよ」
ふと目を開き、どこかムキになったような彼の口調に、俺はクスクスと答える。
「最愛のひとが増える。一度に二人も。
人生の中で、これ以上幸せなことって、きっとありませんね」
「……うん。本当だな」
そうやって小さく微笑みながら、俺たちは額を寄せ合った。
*
なんでも食べられ、美味しく味わえる、というのは、つくづく幸せなことだ。
つわりを抜けたその喜びが押し寄せるかのように、俺の食欲はここにきて一気に増進した。
自分自身の食欲も確かにあるのだが……お腹の赤ちゃんたちが「どんどん栄養を摂取するのだ!!」と俺の脳に指令を送っている気がする瞬間もあり、自分の意思とはまた別にボリューム満点の肉にひたすらかぶりつきたくなったりする。身体の仕組みというのは、すごいものだ。
ただ、過食による健康への悪影響には、くれぐれも注意しなければならない。「うっかりしちゃった♪」では済まされないのだ。俺はマタニティ用の雑誌や情報を読み漁り、一層の健康管理に励んだ。
そして、8月中旬。
お盆休みがやってきた。
「——柊くん。
とうとうきたね。……正念場に向き合う時が」
年に数回の大型休暇が始まった、その日の夜。
彼は、静かな表情で俺にそう呟いた。
「…………そうですね」
どこか思いつめたような彼の空気に、俺は少しだけ俯く。
正念場。
それは——横浜にある俺の実家へ、二人で挨拶に行く……まさにそのことだ。
両親には、すでに連絡済みだ。
「紹介したい人がいるから、連れて行く」……簡単に、そんなことを伝えた。
相変わらず父母とも仕事が忙しく、お盆には何とか二人一緒に休みが取れそうだ、というスケジュールに合わせたのだ。
俺もつわりを抜けたし、まだお腹も目立たない。タイミング的には申し分ない。
問題は、かねてから気にかけている通り、両親とも俺の現状をまだ一切知らない……ということだ。
電話で連絡をする際に、その事実も全部伝えてしまった方が良いのかどうか、散々迷った。
けれど——結局、怖くて、できなかった。
もしも、万一電話口で「そんなことは絶対許さん!」とでも言われた日には、俺たちはまともに両親の顔を見るチャンスすら失うかもしれない。
そんな苦い思いを抱えたまま、出産に向き合ったりはしたくなかった。
——実際に顔を見て報告したからといって、俺たちのことや妊娠の事実をすんなり認めてもらえる保証も、一切ないのだが。
「——樹さん。
もしもうちの両親が、俺たちのことに強く反対したら……どうしますか?」
彼の表情の変化を見るのが、何だか怖い。
視線を下に向けたまま、俺はそう問いかけた。
「——認めてもらえるのを、待つよ。いくらでも。
もしも、すぐには理解してもらえないとしても……
僕たちが間違いなく幸せだ、ということだけは、何とかして伝えたい……そう思う」
彼らしい言葉とその穏やかな声に、俺はやっと顔を上げることができた。
彼の優しい微笑みが、俺を見つめる。
「それに。
もしも君のご両親に拒絶されたとしても、僕たちは、何も変わらない。
もし君がそれで悲しい思いをするとしても——
君には、僕がいる。
そんな痛みや悲しみから、君を守ると——最初に、君に約束したろ?」
彼の言葉が、胸に染みるように嬉しかった。
「そうですね。
誰に、何と反対されようと……俺たちは、何も変わらない」
自分自身にもそう言い聞かせたくて、俺は彼の言葉を繰り返すように強く噛み締めた。
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