そう来たか

 佐伯に検診を勧められた、5月最後の日曜の午後。

 俺と神岡は、藤堂クリニックの診察室に座っていた。


 向かいに座った藤堂悟は、いつもの穏やかな笑顔で俺たちを迎えた。

「三崎さん、とうとう妊娠の兆しが見えたようですね。まずはおめでとうございます。

 その後、体調の大きな変化などはありませんか?」

「はい……ただ、つわりがだんだんきつくなってきてる気がして……結構消耗しているというか……」

 俺は、きっと目の下にクマができているだろうなあと自覚しつつ、腹に力の入らない声でそう答えた。


「そうですよね。私はあいにくその経験ができませんが、この時期は苦しむ女性が多いですね。もしも水分すら摂れないようであれば、点滴で栄養と水分を補給しますから、私まで早めにご連絡ください。

 さて、今日は、まず三崎さんの妊娠の状態を確認したいと思っておりますが……えーと」

 そう言いつつ、藤堂はちらりと神岡を見る。

「内診室の方で、お腹の中をエコーで確認しますけど……ご心配であれば、一緒に来られますか、神岡さん?」

「えっ……い、いいんですか」

 むしろ俺より不安げな神岡の様子を感じ取ったのだろう。藤堂は、そんな配慮をしてくれた。

 わたわたと動揺を見せる彼に、藤堂は優しく微笑む。

「そのお気持ち、よくわかります。では、お二人とも隣の内診室へどうぞ」



 内診室の診察台に横になると、藤堂はエコーを当てる俺の下腹部に温かなジェルを塗り伸ばす。


 ——お腹の命は、健やかなのか。

 ここにきて、ものすごい不安と緊張に襲われる。

「じゃ、いくよ」

 藤堂は、やがて滑らかになったそこへ、優しく機器を押し当てた。



「……うん。

 大丈夫みたいだ。

 三崎さん、神岡さん、よかったですね! しっかり正常に妊娠できていますよ!」


 藤堂が明るい声で伝えてくれる。

 その言葉に、ずっと落ち着かず胸に引っかかっていた不安がとうとう流れ去った。


「……先生、ありがとうございます……よかった……」

 俺も神岡も、そこで初めてほーっと安堵の吐息を漏らす。



「……あれ……

 ちょっと待って。……んん??」


 その時——朗らかだった藤堂の言葉の語尾が、画面をじっと見つめて曖昧な疑問形になった。



「…………先生。

 あの、何か……?」


 彼のそんな反応に、さあっと背筋が冷える。


 同時に、心拍数がぎゅんっと跳ね上がり、全身がぐっとこわばった。

 神岡は、俺の頭上にいて様子が見えないが……こみ上げる不安に思わず言葉を失っているようだ。



 藤堂は、画面を注意深く見つめながら、驚いたように呟いた。


「…………これは……

 どうやら、双子みたいだ。

 ……うん、間違いない。二卵性の双子ちゃんだ」



「…………へ?」


 藤堂の口から出た新たな事実に、俺たちはこれまでとまた全く違う思いで唖然とした。




「三崎さん。これは本当に素晴らしい!……何というか……感激です」

 診察室に戻ると、藤堂は感慨深げに俺をじっと見つめると、なぜかぐっと俺の手を握る。

 藤堂にとっては、男であり妊娠の可能性も相当に低いはずの俺が双子を宿したという事実は、極めて衝撃的なことらしい。この超レアケースに関われる喜びに、今にも俺を力強く抱きしめそうな勢いだ。


「……あの。藤堂先生?

 今後僕たちが気をつけることなどを、そろそろアドバイスいただければ有難いのですが……?」

 神岡も、その事実を混乱しつつも喜ばしく受け止めたようだが……藤堂の俺へのあまりにも熱っぽい対応に、どうやらヤキモチを焼き始めたらしい。微妙なざわつきを乗せた声で藤堂に説明を求めた。

「あ。そうでした。

 あまりのことに、ちょっと興奮してしまいました。すみません。

 では、今後のことや留意点について詳しくお話ししますね」

 藤堂は、我に返ったように表情を引き締め、意欲的に輝く眼差しで俺たちに微笑んだ。







「多胎児妊娠は、単胎児妊娠に比べ、流産や早産など、妊娠に伴ういろいろなリスクが高くなります。……つまり、これまでの予想よりも一層危険度の高い妊娠になると言わざるを得ません。

 ですから、油断することなく普段の体調管理をしっかりしながら過ごしてください。そして、体調不良を無視したり、無理などは決してしないように。

 何か体調の変化や不安があれば、必ず私へ連絡してくださいね。携帯の番号をお伝えしておきます。いつでもすぐに対応しますから」


 藤堂の説明を、俺たちは神妙な面持ちで受け止めた。



 確かに、そうだろう。

 お腹にいる赤ちゃんが一人と二人では、状況は大きく違うはずだ。医学的に全くの素人だって、それくらいは想像がつく。



 危険度が高い——

 頭では冷静に理解したつもりでも。

 藤堂の言葉に、一旦消えたはずの不安に再び火が灯り、ゆらゆらと揺れ始める。


「大丈夫。三崎さんの身体も赤ちゃんの命も、必ず守ってみせます。——医師である私の全てをかけて。

 だから……どうせトライするならば不安は切り捨てて、赤ちゃんに会えるまでのワクワクを思い切り味わうつもりでいきましょう。私と一緒に」


 藤堂は、そんな俺たちの心細さを推し測るように、確かな口調でそう微笑んだ。


「三崎さんの無事な出産のために、当院も全力でサポートさせていただきます。実はうちのスタッフも皆、三崎さんを心から応援しておるのですよ。

 このクリニックでは、手術や分娩も可能です。プライバシーを守る形での入院がいつでも可能な状態にしておきますので、ご安心ください。

 私が院長だった時期は、息子と私の二診制で診察していたので、私が隠居してからはこの診察室と隣の内診室は終日空いています。ここもあなた専用の検査室にしましょう。スタッフ専用の出入口を使えば、万一緊急の時も他の患者に会わずにここまで入れます」


 藤堂の明るく力強い言葉は、不安に呑まれそうな俺たちの心をしっかりと支えてくれた。

 彼のきめ細やかな心配りと頼もしい励ましが、身に染みて有り難く、嬉しかった。


「……藤堂先生。

 こんな手厚い対応をしていただけるなんて……

 先生が側についていてくださるならば、僕たちは何も心配せずにチャレンジできます。

 どうぞよろしくお願い致します」

 神岡が、改めて藤堂に感謝を伝える。

 そして、二人一緒に深く頭を下げた。


「いや、私はあくまでお手伝いするだけですよ。主役はあなたたちお二人です。とびきり元気で可愛い双子ちゃんを迎えるために、頑張りましょう」

 藤堂は、自信に満ちた笑顔で俺たちにそう答えた。







「……びっくりしましたね」

 家へ帰る途中の車内で、俺はハンドルを握る神岡にぽつりと呟いた。


 先ほどの診察結果と藤堂の話は、俺にとってなかなかに衝撃的だった。

 新たにどっと加わった予想外の情報量に、思うように処理を進めることができずに脳が戸惑っている。

 そんな感じで、俺はそこまで何となく押し黙った状態になっていた。


「——ん?

 ごめん。……今なんて?」


 神岡も、何かに気を取られていたようだ。そう返事が返ってくる。


「……今、何考えてたんですか?」

「え? それはさー。……むふふ」


「むふふって……何ですか」

「んー、名前だよ。

 ほら、二人分考えなきゃならないだろ? 男の子と女の子どっちかなー、どっちもかなーなんて考えてるうちに、つい夢中になってた」


 どうやら俺とは全く違う楽しい雰囲気らしい神岡の脳内を想像し、俺は思わず吹き出した。


「ずいぶん気が早いですね」

「え? 少しも早くないよ。

 さっき先生も言ってたろ? 双子は出産予定日前に帝王切開で出産するのが安全だって。そう考えたら、そこまでもう7ヶ月ちょっとしかないんだ。色々急いで準備しないと、あっという間だぞ」



「————そうですね」


 そう呟いた俺に、少し間が空いて——神岡は、穏やかに言葉を続ける。


「……心配なんて、し始めたらきりがない。

 僕たちには、あんなに温かく応援してくれる優秀な先生がいて、これ以上ないくらい恵まれた環境も整っている。

 待ち望んだ幸せの中にいるはずが、今度は先の見えない不安のせいでため息をつくなんて、つまらないじゃないか。


 先の不安など、その時に悩めばいい。

 今は身体をしっかり大切にして、可愛い子たちに会える日を心から楽しみにしていればいい。——そうだろ?」


 そう言うと、彼は俺に温かい眼差しと微笑みを向けた。


 そのシンプルな言葉に、脳内にざわざわと落ち着かない不安が、ストンと鎮まったような気がした。



 ここでいくら先を案じても、何も始まらない。

 ——彼はいつも、一切押し付けることなく、俺に大切なことを気づかせてくれる。


「……今、あなたにぎゅうっと抱きしめてもらいたい気分なんですが……ダメですよね」


 この人には、いくら惚れてもまだ足りない。

 なんだかその大きな温もりにすっぽりと包まれたい思いに絡みつかれ、俺はふと神岡にそんなことをせがんだ。


「え……

 そ、そうなの?

 うーーーん、柊くんからそういうこと言うの何気にレアだし、ものすごくしてあげたいけど……今は無理だなどう考えても。

 家に着くまで、その欲求を維持してもらえたらすごく嬉しいんだが……」

「んー、それはどうでしょう」


「…………酷すぎる……」


 俺はくすくす笑いながら前言を撤回する。

「嘘です。

 家に着くまで、何とか我慢しますから」


「…………ああ、まずい。どうしよう。

 ムラムラしすぎて家まで安全運転できる気がしない……」

「え、ちょっっっ!!?」

「ウソウソ」


 そんな風に軽く笑い合いながら——気づけば、今ここに二つの命を授かったその幸福感が、ようやく俺の心の中を一杯に満たし始めていた。



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