兆し
やっと日差しも少しずつ暖かくなり、春の兆しを感じるようになった。
ぶつけどころもなく蓄積しかけていた俺のイライラは、宮田の言葉や神岡の優しさに助けられ、気づけばだいぶさらさらと流せるようになっていた。
宮田が付け足すように言っていた「男性側の検査」も、藤堂の紹介を受けた病院で済ませた。やはり神岡はどこを取ってもピカイチ……改めてそれを実感する結果だった。
まあ、それでもうまくいかなければ……次の手を考えてもいいし、何となく一旦休憩にしてもいい。
そんな緩やかな気持ちが訪れたのも束の間だった。
年度末が近づくに連れて、神岡工務店もまた一年で最もきつい繁忙期に突入していった。
仕事も少しずつ責任ある部分を任されるようになり、神経を研ぎ澄まさねばこなせない業務が日に日に増えていく。
そしてもちろん神岡も、副社長としての自分の仕事で手一杯だ。
仕事も家のことも、おろそかにはできない。ギリギリと気持ちの張り詰めた状態で、俺は3・4月の繁忙期を全力で突っ走った。
その結果……ようやくGWの連休に辿り着くと同時に、俺はちょっと引いた風邪を思い切りこじらせ、高熱を出して寝込んだ。
寝室の、しんと無音のベッドの上。
熱が上がり出してもう3日目だというのに、体温計を見ればまだ38度を超えている。
「……ごほっ……あーー……」
怠さと熱さできつい身体を、ごろりと仰向けにした。
ぼーっと天井を見上げ、考える。
……そういえば。
熱を計ったのも、なんだか久しぶりだ。
ここ数ヶ月、基礎体温どころではなかったし。
妊活も、随分と遠のいてしまった気がする。
やはり俺は、こういう毎日でもういっぱいいっぱいなのかなー。
忙殺される日々の中でアドレナリンと男性ホルモンに晒された俺の脳はカサカサと乾き、それ以外のことに力を使う意欲を完全に削がれていた。
あー、考えるのやめた。ますます消耗する。
とりあえずは、この風邪を早く治そう。
くそー、せっかくのGWなのに。
その時、静かに寝室のドアが開いた。
「柊くん、起きてる?」
「あ……はい、今体温測ってたとこです」
神岡が心配そうにベッドサイドに寄り、俺の顔を覗き込んだ。
「どう? 少し下がってる?」
「いや……なんかまだ38度あって。流石にしつこいですね」
俺はそんなことを答え、力なく苦笑する。
「んーー……長引くね。
しかもちょうど連休に入っちゃってるし……あんまり辛いようだったら、救急外来とかにかかろうか?」
「いえ、このまま様子見てて大丈夫だと思います。そのうち下がりますよ……ごほっ」
「……心配だ。
何か食べられそう? 食欲も全然ないみたいだから……少しは無理にでも食べないと」
「んーー。何も食べたくない……じゃ、うすーいおかゆを少しだけお願いします」
「ん、わかった。早く良くなるといいんだが……」
神岡は、そんなことをぶつぶつ呟きながら部屋を出ていった。
……早く治そう。
神岡のためにも。
その背を見送りながら、俺は、改めてそんなことを思った。
*
そんなこんなで、GWは儚く過ぎ去った。
休みは丸つぶれになってしまったが、なんとか高熱は下がり、咳など不快な症状もほぼ治まり……しつこかった風邪もどうやら身体から出て行ってくれそうだ。
目が回るように慌ただしかった仕事も、ようやく通常ペースに落ち着いた。
体力と日常のリズムが戻るに従い、俺の気持ちもちょっとずつ復活する。
……もう一度、基礎体温をつけてみようか。
そんな気になった。
そうして、計測を再開して数日。
計測終了を告げる小さな音がする。
舌下に置いていた体温計をそっと抜き出した。
「……んー……」
体温は、今日も37度を少し越えている。
……体調不良が抜けきっていないのだろうか?
以前はきちんとついていた体温のリズムは、どうやらすっかり乱れてしまっているようだった。
そういえば……本来だったらもうきてもいいはずのプチ生理すら、どこかへすっ飛んでしまっている。
……あ……
「……まさか——」
最近の疲れやら病気やらいろいろのせいで、その辺の機能は結局全部ストップしてしまった……
これは、つまりそういうことだろうか?
「…………」
俺は、むくりと起き上がった。
そうだった。
宮田も、言っていた。
ストレスや何かの影響でも、生理は乱れてしまうのだと。
ましてや、ハードワークや高熱などのダメージを受け続けたら……
俺の体の細々とした生理なんて、簡単に途絶えてしまうのかもしれない。
——そういうこと、なんだろうか。
「…………
……もう、諦めるべき……なのかな……」
これまでの疲れが、一気に蘇る。
大切なものを失ってしまった喪失感が、激しく俺を襲う。
でも——
それでも、仕方ないのだ。
この仕事も、体調不良も、避けられないことだったのだから。
——潮時かもしれない。
これで諦めるならば……神岡にも、ちゃんと話さないと。
今の生殖医療技術に頼れば、まだ何か方法はあるのかもしれないが——
まずは、少し望みが遠ざかったことだけでも、話しておいた方が……。
呆然とそう思いながら、俺はぐったりと寝室を出た。
「柊くん、おはよう。僕今日はちょっと早めに出るから、トースト焼いといたよ」
キッチンに入ると、いつもの明るさで神岡が俺に声をかける。
「あ、ありがとうございます………」
その時、いきなり鼻をついた料理などの匂いに、突然胸の不快感がぐっとせり上がった。
俺は思わず手で口を覆う。
「………っ……」
「柊くん? どうした?」
神岡は、不安げな顔になって俺を覗き込む。
「……ん、なんだろう……ちょっと……
……気分が……」
ふわりと目眩がした気がして、俺は思わずテーブルに手をついた。
「——柊くん。
やっぱり、君の体が心配だ。
一度、ちゃんと病院を受診しようよ」
神岡が、表情を曇らせてそう呟く。
「…………そうですね」
次第にもやもやと膨らむ不安を覚えながら、俺は神岡を見つめた。
*
少し静かに休むと体調も戻り、俺はとりあえず出勤した。
昼休みになると同時に、医務室の佐伯のところへ向かう。
いろんな意味で、佐伯は俺にとって何でも安心して相談できる存在になっていた。
そして、ここにきて身体の機能が全て失われてしまったらしいことも、彼女に打ち明けたくなっていた。
「先生」
「あら三崎さん。ちょっと久しぶりね。
最近、体調などはどう?」
佐伯は、変わらぬ柔らかい笑顔で俺を迎えた。
「あの……それが……」
俺は、ここ最近の自分の生活状況と体調のことを、詳しく佐伯に説明した。
「……そんなわけで……
結局、俺の身体のリズムや機能や何かは、全部ストップしちゃったようなんです……」
佐伯は、カルテにそのことを記入しながら、額を指で覆う。
「……で。
最近、食欲も全然ないんですって?」
「はい……ずっと微熱が続いてるようですし、怠いし……今朝も何だか胸持ち悪くて……」
「三崎さん。
どうして、もっと早く相談に来なかったの?」
佐伯は、真剣な目を上げて俺を見つめる。
「えっ……
たっ確かに、何だかいつもと違う症状が出始めた気がして、不安だったんですけど……
俺、何か大きな病気だったり……するんでしょうか?」
俺は一気に青ざめ、佐伯の顔を深刻に見据えた。
「じゃあ。
あなた自身の目で確認しましょう。
これ持ってトイレ行って、説明書の通りに調べてみてくれるかしら?」
そう言って佐伯が俺に渡したのは、「チ○ックワン」という細長い検査キットだった。
「————」
その結果は……
赤いラインが、くっきりと「陽性」であることを示していた。
それを佐伯に提出しながら、俺はおそるおそる彼女に確認する。
「……佐伯先生……
あの、これ——」
「その通り。
——三崎さん、今までよく頑張ったわね!」
そう言ってくれる佐伯の輝くような笑顔を、俺は信じられない思いで呆然と見つめた。
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