努力

 初めてキャッチした妊娠可能期間に神岡と過ごした、週末の夜。

 それは、この上なく幸せな時間だった。

 気恥ずかしさと緊張感と喜びがごちゃまぜになった、複雑な思いに翻弄されながらも……新しい命が宿るというそのリアルな高揚感は、俺も神岡ももちろん初めて味わうものだった。


 あんな風に、現実を忘れるほどの幸せな時間だったのだから……奇跡がすぐに起こったとしても、おかしくはないんじゃないか。

 そういう俺たちの甘い願いは、翌月のプチ生理の訪れによりあっさりと打ち砕かれた。


 まあ当然だ。

 男女のカップルだって、妊活を始めたら誰もが簡単にオメデタ、なんていう運びにはそうそうならないわけで。

 場合によっては、欲しくてたまらなくてもなかなかできず、すっかり諦めた頃にひょこっと……なんていう話もよく聞いたりする。

 ましてや、俺たちの場合については言わずもがな、なのである。


「ニンカツ」という四文字が、次第にずっしりとした質量を持って俺たちの目の前に立ちふさがり……俺たちは、その分厚い壁の突破をあの手この手で目論む。

 そんな戦いのような日々が、とうとうスタートした。


「柊くん、あのさ」

「何ですか?」


 そんな、ある日の夕食時。

 神岡が、テーブルに並ぶ献立を見つめながら、少し困ったように微笑んだ。

「最近、僕と君の夕食メニューが少し違う気がするんだけど?」

 俺はつけていたエプロンを外しながらその質問に回答する。

「ええ、そうですよ。だって妊活中でしょ、俺たち?

 そういう特別な期間に必要な栄養素は、男女によって違うみたいなので。ちょっと調べながら工夫してるんです。

 まず、このパンプキンサラダには、俺たちどちらにも大切な抗酸化作用のあるナッツ類とかぼちゃをふんだんに使用しています。で、こっちの葉酸を多く含む納豆とほうれん草の和え物は、女性、つまり俺用のおかず。そっちのレバニラ炒めは、レバーに亜鉛が多く含まれていますから男性……つまり樹さんが元気になります」

「あ、僕が元気になる……そうなのか」

 神岡は、そこでなぜか微妙に赤面しつつ、言葉を続ける。

「うーん、さすがとしか言いようがない。……それにしても、こんなに細々こまごまとたくさんの献立を準備するのは大変だろ?君も普通に仕事をこなして帰ってくるのに」


「いえ、大丈夫です。手間のかかるメニューは避けてますし。それに、赤ちゃんの命を作り出す身体ですから、やっぱり安心なものを食べたい……でしょ?」


「…………」


 俺の話を聞き終えると、彼は優しく俺の肩を抱き寄せた。


「君は、本当に優秀な人だ。

 どんなことも冷静に考え、最善の答えを弾き出し、スムーズに実行する。

 だが……

 少しくらい、もっと何かが緩くたっていい。……僕は、そう思うけどな。

 君がいろいろ背負い込んで疲れた顔になっていくとしたら、それは僕にとって妊活以前の問題だ」


「……もしかして俺、疲れたような顔してます?」

「いや、そうじゃない。

 けど……最近どこか、気持ちの余裕を失ってるような……そんなことはない?」


 ……そうだろうか?

 自分でも気づかない何かを、彼に感じ取られてしまったのだろうか。

 俺は敢えて明るく微笑んで答えた。


「大丈夫ですよ、全然。

 それに、あなたの最初の反対を押し切ってこのチャレンジに踏み込んだのは俺です。簡単じゃない仕事なのは承知の上でやってますから……こういう努力だって、喜ばしいことの一つです」


 俺の表情をじっと窺うように見つめてから、彼は少し諦めたように呟いた。

「……君も一度言い出したら頑固だからな」

「済みません、頑固な変わり者で」

「あはは、そこまでは言ってないよ? それに、変人は僕も一緒だ」

 彼は楽しそうにそう笑ってから、改めて真剣な目で俺を見つめる。

「でも——これだけは、分かってほしい。

 これから先、どんな時も……君ひとりが苦労を抱え込むことだけは、僕は許さない。何でも協力していこう。……いいね?

 僕にできることがあれば、何でも言ってくれ。

 ——自分からあれこれ動けるほど気が利く人間じゃなくて申し訳ないんだけどな」

 最後はどこか冗談めかしてそう言うと、神岡は緊張を解くように柔らかく微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 自分自身も、山のような仕事を抱えているはずなのに。

 思わず胸がぐっと熱くなる。


 この人の降り注ぐような愛情があるから、俺はこうして頑張れる。


 そして……そんな温かい思いを向けてもらって、俺は初めて気づいた。

 結構キリキリと息苦しく張り詰めた気持ちになっている自分自身に。


 ——けど。

 こういう日々の努力が、きっと必ず実を結ぶ。

 積み重ねた努力が報われないなんて、あり得ない。


 この努力を苦しみに変えたくなくて——俺は、そんな言葉をまた心で呟いた。




 その夜。

 眠ろうとしている俺の耳元に、彼が囁いた。


「……柊くん、もう寝た?」

「ん……どうしたんですか?」


「君が作ってくれたレバニラ炒めがすごく美味しくて、元気が出た」

「あ、それは良かったです」


「……じゃなくってさ。

 たまには、妊活も何も関係なく、ただ君を愛したいと……そんなことを思うんだが……」


 その言葉に、俺は少し驚いて彼の方へ向き直った。


「だって、今日火曜じゃないですか? 明日も仕事……」

「だから、そういうのは全部すっ飛ばしたいんだ」

「えっそれは……」


「……だめ?」


 寝室の柔らかな明かりに照らされて俺を見下ろす彼の瞳が、熱を含んで美しく揺らいだ。


「…………」


 そういえば。

 最近、すっかり忘れていた。

 純粋に抱かれる心地良さに溺れる、その幸福感を。


 そして、きっと彼も、俺と同じ思いなのだろう。



「最近感じなくなってた、君の匂い……今日は、噎せるくらいに甘い」


 胸元に落ちかかる彼の髪の柔らかさを、改めて指先で味わう。


 俺の肌に、彼が溺れる。

 彼の腕に、俺は溺れる。


 しなければいけないあれこれを、時には放り出し。

 ただ子供のように夢中になって、喜びに浸る。


 ただ息を詰めて目標を睨みつけることだけが、正しいわけじゃない。

 時には緩やかに心を解放してやることが、どんなに大切なことか——

 俺は、初めて彼に教わった気がしていた。









「ううーーーー……」


 そんなこんなでストイックに妊活に励んで、約半年。


 2月の半ば。春の気配が微かに漂い出す季節なのに、グッドニュースの気配は未だ一向に訪れない。


 俺も神岡も毎日忙しく、仮に妊娠可能期間が訪れても、平日だったりすればじっくりと事に当たるのは難しい。

 目の前の生活をおろそかにしてまで妊活に励むなんて、もちろんできない。それこそ本末転倒だ。


 そうやって、黙々と努力を重ね……重ねたはずの努力は、跡形もなくどこかへ消えていき。

 最近俺は、気づけば時々変な唸り声を上げていた。


 ……どうやら、意識しないようにしていたはずの焦りや苛立ちが、とうとう心に蓄積し始めたらしい。


 そう簡単ではないことは、最初からわかっている。

 頭ではわかっていても——心の方は、そう思い通りに操縦できるものじゃない。


 こういう心の内のいろいろを神岡に見られては、きっと彼を心配させる。

 だから、神岡が見ていない時間や場所を選んで、俺は少しずつたまるイラつきをなんとか吐き出したかった。

 しかし、ただ壁に向かって唸るだけでは、解消しようにもできるわけがなく——

 ここに来て初めて、俺は逃げ場のない息苦しさを感じていた。


 誰かに、思い切って相談してみようか。

 この、普通では信じられない事実を全て明かし、自分の頭では辿り着かないような意見を誰かから聞いてみたい。

 なんだか、そんな気持ちになった。


 ——ふと、自分でも予想外の相談相手が頭に浮かんだ。


「……マジかよ、俺?」

 自問自答してみるが……どうやらマジらしい。


 甚だ不安な気持ちと、今のこの気持ちが何とかなるかもしれないという期待をごちゃ混ぜにしながら、俺はスマホのアドレス帳を開いた。



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