どうする?

 医務室で、佐伯から衝撃的な事実を説明されたその週の金曜日。

 神岡は、なぜかお赤飯とシャンパンを買って帰ってきた。


「樹さん……あの、これ……」

「あれ、こういう時って、お赤飯じゃなかったっけ?」

「…………」


 自分の身体は「両性具有」であることがわかり。

 ここ最近の体調不良は、女性の機能の活性化による生理に当たるもので。

 心身に大きな悪影響はないから良かったものの、もしかしたら妊娠が可能になるかもしれなくて……。

 そんな、自分自身の根底部分をぐちゃぐちゃにかき回す事実を聞かされ、はっきり言って俺は混乱していた。

 当たり前だ。こんな話を聞いて平然としていられるわけがない。


 なのに……俺の心の混乱をよそに、神岡は初潮を迎えた女の子同様のお祝いをする気らしい。

 ……ちょっと冷静すぎる。というか、変人すぎる。


 何となくいろいろ作る気力を奪われ、何の変哲も無いカレーをすでに煮込んでいた俺は、一層力なく肩を落とす。

「まあいいじゃないか。赤飯カレーも悪くないかもしれないし。それに、祝い事は多いほうがいいに決まってる。とりあえずシャワー浴びてくるから、シャンパン冷やしといてね、柊くん♪」

 神岡は、ネクタイを緩めつついつもと変わらぬ明るい笑顔でそう言うと、今日はちゃんとまっすぐ脱衣所へと向かっていった。



「おお、思った以上にめでたい感じになるものだな、赤飯カレー! 初体験だ。

じゃ。柊くん、乾杯ー」

「…………」

 全く普段通りの顔で美しい泡の立つグラスを口にする神岡を、俺はじっと見つめる。


「何も、そんな気に病むことないじゃないか」

 神岡は、静かにグラスをテーブルに置くと、穏やかな瞳でそう微笑む。


「——これまで知らなかった事実がはっきりした、ただそれだけだ。

 その事実を知ろうが知るまいが、君は君だ。これからも、今までと何も変わらない。

 ……そうだろ?

 定期的に不調が訪れることを思うと、少し気にはなるけど……でも、それで何かが大きく変わるわけじゃないんだし。

 そう思えば、こんなこと全く些細なことだ」

 そう言って、彼は優しい眼差しを俺に向けた。


「……樹さんがそう言ってくれて、嬉しいです」

「なら、もう君の悩みは晴れるよね?」


「……でも……

 ——そこじゃなくて」

「ん?」

「妊娠できる、っていう部分です——俺が引っかかってるのは」


「…………」


「樹さん……子供、欲しくないですか」


 俺がそう問いかけた途端、彼は思わずぐっとシャンパンに噎せた。

 口元を覆ってゲホっと苦しげに息を整えながら、一気に赤面しつつ狼狽える。


「し、柊くん……なんていうか、あんまり突然そういう聞き方は……なんかヘンなとこ刺激されるから……」

「でも……できたらいいな、と思いませんか? 赤ちゃん」


 神岡は、んぐぐ……とでも声が漏れそうな、複雑に苦しげな顔をする。


「…………それはもちろん……君と僕の子供ができるとしたら……こんなに嬉しいことは……

 ——でも、佐伯先生の話、聞いたろ?」


「……」


 妊娠する可能性について、佐伯は言っていた。

『なにぶんにも、前例がないことなのでね……一般の女性に比べたら、受精の確率ははるかに低いでしょうし……妊娠や出産が安全と言い切ることはできません。どんな不測の事態が起こるかもわからないし……

 ただ、今の医療技術があれば、余程特殊な事態が起こらない限り、対応は可能なはずよ。……裏返せば、どんなに健康な女性でも、妊娠出産に伴う危険は完全にゼロとは言えない、ということよね』


 その言葉を、どう捉えたらいいのか。

 その可能性に賭けてみていいのか——やめたほうが無難なのか。


 数日、そんなことをモヤモヤと考えるうちに……

 そういう具体的な事実とは関係なく、思ってもいなかった欲求が勝手にムクムクと自分の中に育ち始めていることを、俺は感じていた。


 ——新しい命を、産み出してみたい。

 心から愛するひとの命と、自分の命を混ぜ合わせて創る、新しい命を。

 そういう欲求。


 俺は男だから……これって、母性じゃなく、父性……なのか??

 そんなわけのわからない事を思いつつも、自分の中に芽生えた想定外の感情を振り払おうにも振り払えない。


 どんな不測の事態が起こるかわからない……佐伯のその言葉は、はっきり言って怖い。

 けれど……

 もしも神岡が、俺の思いに同意してくれるなら——可能性にトライしたいという俺の気持ちは、きっと固まる。

 そんなことを思いながら、彼にこの問いかけをしたつもりだった。


 神岡は、何と言うだろう?

 俺の予想に反してと言うか、予想通りというか……彼の表情は急に曇った。


「僕は、君を危険に晒してまで、これ以上何かが欲しいとは思わない。

 僕は、君さえいれば、それで幸せだ。

 もしも君に何かあったら——僕は、それに耐えられる自信がない。

 ——僕はもう、君なしでは生きられない」



 彼のその言葉はきっと……大げさでもなんでもなく、真実なのだろう。

 なぜなら——俺も、彼と同じだからだ。

 彼がひとりこの世に置き去りになるような選択肢は、間違っても選べない。

 ここにきて、俺は自分自身の思考の矛盾を目の当たりにする。


「…………」


「君が、僕たちの子供を欲しいと思ってくれたことは、僕だってたまらなく嬉しいんだ。

 ……けど……この話は、もうなしにしよう。

 君に何が起こるかわからない、そんな不安の中に、僕を置いたりしないでくれ。……頼む、柊くん」



 神岡は、懇願するような瞳で俺をまっすぐに見つめた。









「ん、どうしたの三崎さん? どこか体調不良?」


 神岡とそんな話をして、一週間後の金曜。

 俺は昼休みを利用し、こっそり佐伯のところに来ていた。


「いえ……あの……。

 体調が悪いわけではないんですが……」


 この前の金曜に神岡と話したことが、俺の胸で引っかかり……それは次第に大きさを増してくるようだった。

 モヤモヤとスッキリしない気持ちを、他に打ち明ける場所など見つからず……気づけば、助けを求めるように佐伯のところへ来ていた。


「じゃ、悩み相談かな?」

 佐伯は、まるで小学校の保健の先生のように、どこかお茶目にそんな言い方をする。

 なんだかんだ言って図星を指され、俺は微妙に狼狽えた。

「あ、あの……ここに来たこと、副社長には秘密にしてもらえますか?」

「ええ、もちろんよ。……彼と、何かいざこざでも起こっちゃった?」


 彼女の質問に、俺はもじもじと不明瞭に呟く。

「……というか……

 彼に反対されてしまって。……妊娠する可能性にトライすることを」


「——え……?

 ということは……つまり……

 あなたは、妊娠を希望してる……そういうこと?」


「——自分の中で、そういう希望がとても強くなっている気がするんです。

 新しい命が、自分の中に宿るなんて。なんだかすごい……。

 でも彼は、俺を危険に晒してまで妊娠や出産は望まない、と……突っぱねられちゃいました。

 危険度が高いのは確かでしょうし……仕方ないんですかね」


「あなたって、変わってるわね」

 俺の言葉に、彼女はどこか呆れたように、ふっと優しく微笑んだ。


「よく言われます。

 ……って、どこが変わってるんですか」

 言われ慣れてはいるものの、俺はちょっとむすっとしてそう返す。


「だって……普通なら、そんな不要な機能は厄介なだけだから、どうにかならないか……っていう方向に悩むと思うのよ、ほとんどの人が。手術で除去できないか、とかね。

 でもあなたは、危険を冒してでも子供を宿したい、と考える。

 ごく自然に、そういう風に考えることができるって、なんだかとても素敵だわ」


 俺は、そんな言葉になんとなく照れつつ、ボソボソと佐伯に問いかける。

「素敵かどうかはよくわからないですけど……

 彼の言う通り、やはり避けるべきなんでしょうか……そういう前例のないことに自分から飛び込むなんて」


「うーーーーん……そうねえ……。

 あなたが、そんな風に本気で願っているなら……」


 佐伯は、デスクの上に両肘をつき、腕の間に頭を抱えるようにしながらしばらく何やら考えていたが……

 その頭をふっと上げて、俺に小さく呟いた。


「一か八か、相談してみようかしら。……彼に」


「…………?」


 そんな佐伯の呟きの意味が飲み込めないまま、俺は彼女をじっと見つめた。



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