やりたいことが全部叶う薬

aoiaoi

第1話

 7月下旬。高校1年の1学期、終業式。

 明日から夏休みだ。

 カバンには、見せられるものではない成績表が入っている。家へ帰ってもどうせ見せる人などいないのだが。

 いいことの何一つ見当たらない高校生活。

 何とか受かった底辺高。入学後最初の体育でみっともなく転んだことがきっかけで、この一学期間、一部のクラスメイト達から陰湿な嫌がらせを毎日受け続けた。持ち物をゴミ箱に捨てられ、人の見ていない場所でどつかれ蹴られ、しばしば金を奪われて。薄々それを知ってる生徒も先生も、誰もが見て見ぬ振りだ。

 長い1日を漸く終えてアパートへ帰れば、暗い部屋のテーブルに残された汚れた皿と、何本も転がるビールや酒の空き缶。黙って皿を洗い、缶を濯いでポリ袋にまとめる。母さんは僕を育てるために頑張ってくれてるんだ、と繰り返し心で呟きながら。

 母子家庭の暮らしに疲れたのか、そんな母も最近あまり家に帰ってこない。夜の仕事で入った金が、時々思い出したようにテーブルの上に見出しで置かれている。びっくりするほど諭吉の枚数があるので、僕の日々の生活は一応維持できているが……あんな金、一体誰から貰ってるのか。



 もうどうでもいい。何もかも。

 なんとか切れないよう保たせていた神経の糸が、夏の真っ昼間の日差しの中で不意にふつりと切れた気がした。

 学校からの帰り道、電車を待つ駅のホームが視界の中でぐにゃりと溶けたように歪む。

 楽になっちゃえば?

 耳元で、何かに甘く誘われて——気付けば、走り込んでくる電車の前に上半身をふらりと傾けていた。


 グイッと、強い力でホームの内側へと引き戻された。

 我に帰って振り向くと、背の高い眼鏡の男が僕のリュックをがっしりと掴んでいる。


「————あ、あの」

「ねえ、君。時間あったら、これからちょっと僕の部屋にこない?

 僕も特に急ぐ用でもないしね」

 20代半ば位だろうか、ひょろりとしたボサボサ髪のその男は、目の表情が読めない分厚い眼鏡をぐっと押し上げるとニッと機械的に微笑んだ。


 言われるままにホームを出て、男について改札を抜ける。

 小さな商店街を通り過ぎ、雑居ビルのエレベーターに乗った。

 薄暗い廊下を歩き、一室の小さなドアをガタリと開けて、中に案内された。壁の戸棚に無造作に突っ込まれた様々な化学の本。大きなテーブルには無数の実験用器具が乱雑に置かれ、奥のシンクには何やら焦げ付いたビーカーや洗ってないシャーレなどが積まれている。部屋というより、胡散臭い研究室か何かの佇まいだ。

「ミキちゃん、コーヒーあるかい? ミキちゃん!……あれ、外出か。留守番しててくれって言ったのに。ああ、何も出せなくて悪いがまあそこ座って」

 壁のハンガーにかかった白衣を慌ただしく羽織りながら、彼は使い古した黒い革張りのソファをさらりと勧める。

 ……この男、何かの研究者か? これから僕は何か怪しい実験のモルモットにでもされるのだろうか?

 まあいいや。一旦どうでもいいと思ってしまったんだから、もう何が起ころうが構わない。そんな投げやりな気持ちで無言のまま座った。


「もし、君がもう人生投げ出したいと思ってるならさ、ちょうど試してみてほしい薬があるんだよ」

 彼は、部屋を仕切った白いカーテンの奥へ入ると、小さな皿に何かを乗せて戻ってきた。

 皿の中を見ると、白くて小さな薬のような固形物がぽろぽろと転がっている。

「なんですか、これ」

「これまでの僕の研究成果を全部詰め込んだ薬だ」

「楽に死ねる薬ですか」

「残念ながらそうじゃない。

 これは、生きるための薬だ」

「いりません」

「まあ、そう言わずにさ。

 これ飲むと、やりたいことが全部叶うよ」


「……え?」

 僕のぼんやりした返しに、彼は何事もないような顔でさっきと同じ笑みを浮かべる。

「君、死ぬ前にどうしてもやりたいこと、ない?」


 彼の問いかけに、僕は力なく思考を巡らせた。

 何をやる気も、もう失せてしまっているんだが……

 もし、本当に叶うというなら。


「……あいつらを、潰してやりたい。

 二度と僕の前に立てないくらいに、痛い目に合わせたい」

「うん、それ飲めば叶うよ。

 どうする? 飲まずに死ぬ? それともこれ飲んでから死ぬ?」


「本当に、叶うんですか」

「うん」


「……なら、飲んでみます」

「うん、じゃあこれ一粒、口に入れて。

 水はいらない。これは噛んで服用する薬だから」

 怪しい薬かどうかなんて知るか。僕はもう自分自身が要らないのだから。

 言われた通りに、小さな粒を噛み砕いた。


 すると、強すぎるくらいのピリピリとする刺激が舌の上に走った。

 その直後、きらめくスカイブルーを思わせる涼やかな風が、口から身体の中へ一気に流れ込んだ。

 目の前の霧がにわかに晴れて、視界が開けたような清々しい感覚が訪れた。


「どう?」

「————すごい。

 体の中を、澄んだ風が通り抜けるみたいだ。こんなに頭の中がスッキリしたの、生まれて初めてな気がする」

「ほお、どうやらよく効いたみたいだな。

 これで君は、どんなこともできる男になった」

「……」

「はは、疑ってる? そんな顔しなくても大丈夫さ。今ここから、世界は君の思い通りになるよ。

 さっき言ったあいつらをぶっ潰したいんだろう? そのために、まず何をする?」

「強くなりたい」

「そうそう、そんな感じ。叶えたいことを言葉にするんだ」

「叶えたいことを、言葉にする——わかりました。やってみます」

「うん。じゃあこの薬、一ケース分あげておくよ。毎朝一粒、今のように服用してね」

 彼はそう言いながら、煙草の箱くらいのサイズの黒いプラスチックケースを僕に手渡す。

「ありがとうございます」

「ああ、そうだ。そのケースの中身が全部なくなったら、またここに来てくれる? 薬の効果を聞かせて欲しいんだ」

「また来ます」

 僕は彼に深く頭を下げると、薄暗いドアを後にした。



 強くなる。そのためには、どうする? 学校のない夏休み中に、なんとかしたい。ビルを出て歩きながら考える。

 そうだ。思ったことを言葉にしろと、彼は言っていた。声に出すのは何か恥ずかしかったが、思い切って息を吸い込んだ。さっきの爽やかな刺激が再び口の中を巡る。

「強くなるには——強くなる技を、誰かに教えてもらう」

 口にしたその言葉を、脳がしっかりとキャッチした感覚が走る。さっきまでどろりと死にかけていた脳が、今は必要な目的物に辿り着くためにまるで息を吹き返したかのように動き出す。

 そういえば、ここの駅の近くに空手の道場があったはずだ。「○○流空手道場」という看板を見かけたことがある。

 記憶を辿り、次第に大股に地面を踏みしめながら、僕は目的の道場へ向かった。 

 あった。ここだ。

 入り口の引き戸を開けようとして、指先が不意にピタリと止まった。

 ——お前なんかが、ほんとに強くなれるのか。体育の授業すらまともにこなせないお前が?

 それに、ここに踏み込んで、一体なんて説明するんだ。いじめにあっているから強くなりたい、ってか? 無様なやつ、って笑われるんじゃないのか。

 自分の胸の隅に蹲っていた黒い僕が、いつものように頭をもたげてぶつぶつと呟き出す。

 やっぱり、怖い。

 どうせ無理だ、僕には。

 戸の取手にかけようとする指が、ふるふると小さく震えた。


 その瞬間——さっき吹き込んできたスカイブルーの風が、再び胸で強く煌めいた。


 君はもう、今までの君ではない。そうだろ?


 後ずさりかけた足が、ぐっと踏ん張った。

 そうだった。

 今の僕は、あの薬に守られてる。もう昔の僕じゃない。

 その証拠に、ここまでちゃんと辿り着けたじゃないか。こんなこと、これまでの自分にはどうやったって無理だった。

 今の僕には、何だってできる。


「あいつらのぶっ潰れた図を見るんだ。絶対に」

 そう声に出し、僕は力なく自嘲する自分自身を力一杯突きのけた。


 引き戸はガラリと大きな音を立てた。

 そこには、広くはないが明るく清々しい板の間が広がり、ひとりの男が壁にはめ込んだ鏡に向き合って静かに稽古をしていた。

 僕に気づくと、男は稽古を中断してこちらへ歩み寄る。

「入門希望かな?」

 グレーの短髪と首筋の汗をタオルで拭きながら、彼は僕に笑いかけた。

 小柄だが引き締まった身体。空手着の袖から逞しい腕の筋肉が見え隠れする。初老に差し掛かる年回りのようだが、目尻や口元に刻まれた小皺すらも何か生き生きと見える。年齢を超越した溌剌とした空気が彼の全身から放出されているようだった。

「あ……はい、あの」

 勇気を出せ。

 叶えたいことを言葉にするんだ。

 俯きかけた顔をぐっと上げ、はっきりと口にした。

「ここで、稽古したくて。——強くなりたいんです、僕」


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