第55話 微笑
「まったく、本当に邪魔な人ですね、ブライス卿。いつもいつも僕の邪魔をして。分かってます? 貴方がいてどれだけ僕が窮屈な思いをしていたのか。そのねちっこい視線が本当に嫌でしたよ」
「くだらん。他人の視線に窮屈さを覚えるのは己の中に肯定できぬ感情があるからだ。己の心のあり方を他者のせいにする。人類の裏切り者には相応しい痴愚だな」
平然を装ってはいるけれど、ブライス卿が流す血は多く、とても薄皮一枚で済んだようには見えない。
「痴愚? この僕が痴愚ぅうう!? ブライス卿、状況分かってます? その傷でラウと戦う気ですか? こっちには人質もいるんですよ」
ラーズはラウに捕らえられたピピナの正面へと回りこんだ。
「やぁ、ピピナ。今の気分はどうだい? この状況、さすがの君も少しは驚いてくれたんじゃないかな?」
「ぺっ」
呪術が効いているのか、ピピナはラーズの顔に唾を吐きかけるのでやっとと言った様子だ。
「まったく、君は本当にお転婆だね。正直、君には何度となく苛立たしい気持ちにさせられたけど、それもこうなってしまったらいい思い出だよ」
ラーズの手がピピナの服を引き裂いた。
「あはは。なんだよ。思った以上に女らしいじゃないか」
「いい加減にーー」
「姫、迂闊に飛び込んではいけませんぞ」
こちらに背を向けてゲスな悦楽に浸る、すっかりと変わり果てた幼馴染に引導を渡そうとしたら、ブライス卿に止められた。
「しかし」
「あの小僧はともかくラウの実力は知っているでしょう。一瞬の油断が命取りですぞ」
「クッ」
確かに敵うかどうかも分からない相手に怒り任せの攻撃を仕掛けるわけにはいかない。
「なんだ来ないのか。まぁ、いい。それよりも、おい小僧」
「ガァ!?」
ラウの蹴りでピピナの体を弄んでいたラーズが吹き飛ばされる。
「な、何をするんだ?」
「これは俺のだ。お前が欲しいのはそっちだろ」
裏切り者二人の視線が私を捕らえた。それに無意味だと分かってはいても、問わずにはいられない。
「ラーズ、どうしてなのですか?」
「どうして? それはこっちの台詞だよ」
ラーズはいつもの柔らかい物腰の彼とは似ても似つかぬ神経質そうな形相で自身の髪を掻きむしる。
「リーズ。いや、ローズマリー、君は城の外に修行しに行ったんじゃないのかい? それがぁ、何で男なんて作ってるんだよ? 君の初めてを奪うのは僕のはずだったのに。クソ、クソ、クソ、ビッチ。このクソビッチが!」
「……よく分かりました。私の幼馴染はとうの昔に死んでいたのですね」
剣を構える。ラーズは問題なく制圧できる。だがピピナを人質に取られた状態でラウの相手ができるだろうか? たとえブライス卿が万全でも難しいだろう。戦闘を長引かせて援軍を待つ? 敵味方が怪しいこの状況で、それは本当に正しい選択なのだろうか? もしかしたらブライス卿だって味方のふりをしているだけの可能性がーー
「姫」
「な、何ですか?」
警戒しているところに声をかけられて、ラーズに向けていた剣先が僅かに乱れる。
「私を警戒していますな」
「それはーー」
「良いのです。そのまま誰も信じないように。この城に巣食う魔女は恐ろしく狡猾で、我々のあらゆる捜査を掻い潜って今日まで活動しています。ですから聞きたい。姫はどうしてここに? そこの気色の悪い小僧に何か吹き込まれたのですかな?」
「私がここにきたのは……」
お父様を殺害した魔女についてゼニーヌを問い詰めたから。でもここにいたブライス卿は魔女ではなかった。ならどうしてゼニーヌはここにくれば全て分かると? いや、そもそも守護剣の捜査を掻い潜るだけではなく、あのラウを堕落させるような存在が本当にただの魔女なのか? もしかしたらこの城に巣食っているのはもっと恐ろしいーー
「あれ? まだ終わってなかったんですか? どうしよう。早く来すぎてしまいましたかね?」
重圧がのし掛かる。一瞬にして深海の底に引き込まれたかのような感覚は、まるで初めて龍に遭遇した時のよう。
二人の裏切り者が左右によって新たに入室してきた者に道を譲った。
「こ、こんにちは。リーナ様。さっき部屋で虐められた時以来ですね。その、魔女の正体は、わ、分かりましたか?」
全裸に剥かれたフローナを小脇に抱えた彼女ーーゼニーヌはそう言って初めて会った時のように気弱に笑った。それはまさしく悪魔のような微笑だった。
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