5.巨星堕つ その③:消えぬ殺意

 病室のベッドで安静にしながら窓の外でもうもうと立ちのぼる煙を眺めていると、いきなり誰かが戸を開けて病室に入ってきた。


 そちらに顔を向けると、『猟犬ハウンド』のアーシムさんが辛気臭い顔付きをして私を見下ろしていた。つかつかとこちらへ歩いてきた彼は、厳かにベッド横の椅子に腰かける。


「君は、人の道を外れたことはしないと思っていたよ……」

「人の道?」

「……罪のない人を殺すようなことだ」


 言い訳は容易い。死は彼女自身が求めていたことなのだから、私は介錯してあげたまでのことだ。だが、そうやって言い繕うことにあまり意味を感じなかった。


「そんなことを言うなら、私よりも他に相手すべき連中がいるんじゃないの?」

「……今は、君の話をしている」

「あの日、アンタは何してたの?」


 アーシムさんは視線を伏せて押し黙る。返事がなかったので、私は言い回しを変えて聞き直した。


「『猟犬ハウンド』は、何をしていたの?」

「……答える必要はない」

「私は別に答えて欲しくて言ってるんじゃない。ただ、確認をしているだけ。あの日に起きた暴動に対し『猟犬ハウンド』が何もしなかったという事実を」


 私のような小悪党にかかずらっている暇があるのなら、市井に溢れる悪徳の輩を一人でも多く誅する方が余程有意義な時間の使い方ではないか。


 アーシムさんは、困ったように重いため息を吐いた。


「『人生とは選択の連続だ』と言った人もいるけれど、俺に言わせれば諦めと妥協の連続だよ」


 急に何の話をするつもりなのか、興味をそそられた私は顎をしゃくって話の続きを促した。


「でも、諦めるということは、何かを守るということでもあると思うんだ」

「守る……? 自分のちっぽけな自尊心を?」

「それもある……今回の場合ケースでいえば、仮に取り組んだとしても徒労に終わるかもしれないリスクであったり、自分の命を失う危険であったり、立場を無くす心配であったりする。そして、妥協して、諦めて、何らかのものを守る選択を続けたとしても、その先にだって人生の幸福はあると俺は思うよ」


 そこまで聞いても、話の意図が全く読めなかった。


「……何の話? 言い訳がしたいなら最初にそう言ってくれる? いくらでも聞いてあげるわよ」


 そう言うと、アーシムさんは静かに首を横に振った。


「これからするのは、言い訳ではなく説明と思って聞いてほしい」

「ええ、良いわよ」

「君の眼には町中で暴れる連中ばかり映っているかもしれないが、俺の眼には暴力に怯え、固く門戸を閉ざし、嵐が過ぎ去るのを祈っている人たちの方が多く見える。俺は彼らを一人でも多く救いたい。そのためには体制の安定が急務だ。民衆に取っては、上に立つものが王であろうと平民であろうと悪魔であろうと、そう大きな違いではない」


 それは、言い訳と何が違うのかと言いたい気持ちをグッと堪え、私は真っ当に反論の弁を述べた。


「だから、奴らの暴虐を見過ごすと?」

「そういった物の見方が、既に旧時代の産物アンティークとなりつつあるのが今だ。モラルが、道徳が、善悪の価値観が音を立てて揺らぐ時代。その渦中にあって、我々『猟犬ハウンド』は日和見を決めた」


 無性に誰かを害したいと、こんなにも強烈に思ったのは初めてだ。眼の前の善良で模範的な男をではなく、もっと取るに足らないをめちゃくちゃにしてやりたいと思った。


 この窓から街に飛び出せば、その捌け口に最適な無知蒙昧の貧乏人どもがそこかしこに蠢いていることだろう。石でも投げれば狙いを定めなくてもそのうちの誰かに当たるような有様なのだから。


 殺してやりたい。

 誰彼構わず、片端から斬り伏せて回りたい。


 ――だが、それに何の意味があるのだろう。


「ここが一つ、妥協のしどころなんじゃないか?」


 アーシムさんはとても言いづらそうに、だがそれでいて滑らかに発声した。


「俺は君に対して後ろめたさのようなものを感じている。しかし、だからといって自分の選択に反省や後悔がある訳ではない。例えもう一度過去に戻ってやり直せるとしても、俺は同じ行動を選択するだろう」


 その時、突如としてドス黒い炎のようなものが腹の底から湧き上がり、私の理性を激しく燻るのが分かった。「妥協」だと? 生まれてこの方、「妥協」だけはするまいと邁進してきた私に向かって「妥協のしどころ」だと?


「反論しづらい開き直りを言うなァ――ッ!」


 私はアーシムの右頬に拳を叩きつけた。マネの補助サポートを受けずに放ったパンチは非常に遅く、避けるなり受け止めるなりできた筈だが、アーシムは甘んじて私の拳を受け入れた。


 そして、私の怒気に感化されて、アーシムもまた堰を切ったように威勢よく吠える。


「――君の言わんとするところは理解できる! しかし、君の望む選択がより多くのイリュリア国民を更なる地獄へ導かないと、どうして思える? 自分が地獄への水先案内人でないと、どうして確信できる? その正しさを誰が保証するんだ!? 『唯一神かみ』が保証してくれるとでもいうのか!?」


 私は何も言えなかった。もし仮に『唯一神かみ』が夢にでも出てきて、私の正しさに太鼓判を押したとしても、私は「自分が絶対に正しい」と臆面もなく吹聴することはできないだろうから。


「他人に無責任な期待をかけるものじゃない。それは大概にして裏切られるものなのだから」

「……最低限の良心を持って生きることが、これほどまでに多くの人々にとって難しいことだとは思いたくない」

「俺もさ……リン君……」


 何だ、その眼は。


 まさか、咎めているというのか? 責めているというのか――この私を!


 私はアーシムを睨みつけ無言の抗議をぶつけるも、彼は全く取り合わずにすくっと椅子から立ち上がった。そして、大きくもなければ特段小さくもない丸まった背を私に向ける。


「君に咎が及ぶことはないだろう……それは君が先の作戦における功労者だという事実とは無関係に、このご時世に人が一人死んだくらいで我々はいちいち対応していられないからだ」


 スタスタと交互に繰り出される淀みない足取りからは、何の恨みも未練も感じられない。アーシムは、既にこの件に関しては己の中で決着が付いていて、今度の身の振り方も決めているのだろう。私は、彼のような生き方を蔑みと少しばかりの羨望でもって見上げた。


 アーシムは、病室の戸を開けたところでふと立ち止まる。


「もし、君が何かを欲するのなら、それは人任せではなく必ず己の力で為遂しとげなくてはならない。君はもう、口を開けて餌を待てばよかった雛鳥ではなくなってしまったのだから」


 それだけ言うと、彼はゆっくりと退室していった。


 ピシャリと戸が閉められた途端、まるで私を責めてたるような静けさが私を襲う。生命維持に忙しいのか、マネは何も言ってくれない。


 堪えられた時間はきっかり十秒。そこが限界点だった。


 私は獣のような叫声を上げながら、病室の窓を叩き割った。

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