不知顔
みとけん
第1話 河南が来た!
札幌市、地下鉄大通駅を降りて札幌駅までは、南への通りを直線に歩けばいい。地下街から階段を上がって地上へ出れば、通りを歩く人の呼気、湿気ったアスファルトの香りが漂う。西の空には雲が途絶え、既に赤みがかった日の光がビルの影を伸ばす。丁度降り始めた霧雨が人の輪郭、足音をぼかし、九時のアサガオのように、周りで色取り取りの傘が開いた。琴似の改札を通ったときにはまだ、空は晴れていた。軽く用事を済ませる装いで、鞄も持っていない。当然傘もない。道行く人の間を小走りで行く。
札幌駅地下の喫茶店で、河南と待ち合わせていた。
去年までは、ここに喫煙席も設えられていた。かつてあったパーティションは綺麗に消えて、二人座れるテーブル席が四つ並んでいる。一番奥の席に座る河南、壁際にスーツケースを置いて、疲れた様子で目を擦る。華やかというよりは、端粛な顔立ちで、多分、北海道土着の血が濃く入っている。ただ、瞳の虹彩だけは、西洋人のような琥珀色。およそ五年ぶりの再会だったけれど、記憶の中の面影と殆ど変わりがない。太ってもおらず、痩せすぎてもいない。彼女と最後に会ったのは、私が大学を卒業したときだった。
当時所属していた演劇サークルの中で、特に仲が良い数人が集まった飲み会だった。部員は多く、裏方と演者では微妙にグループの隔たりがあったのだけれど、河南の周囲には男女役割問わず、様々な人間が集まった。多分、彼女にはカリスマ性というものが備わっていた。
私は何故か彼女によく懐かれ、在学中はそれが不思議だった。如何にも裏方の、幸薄そうな醤油顔、そのどこが気に入ったのか知れない。飲み会では必ず私の横に来る、脚本家として舞台のチェックをするときもくっ付いて回った。正直鬱陶しいと思うこともあったけれど、彼女のお陰で、内気だった私の交友関係も広まった。
私が道内の企業に就職してからは、主にSNSで互いの近況を追い合った。繁忙期の忙しさを愚痴り、くだらない時事の話題に食いつき、彼女が通勤途中で見つけた鼠の画像にリアクションを付けるだとか、そのくらいのものだ。彼女が卒業後上京したことは知っていたし、最初の仕事を三年も経たずに辞めたことも、彼女が語る以上の事を知らないまま把握していた。
「東京では色々ありましたけど、結局地元の方が居心地いいやって思って。それで、こっちに戻ることにしたんです」身の上を語る口調も、あの頃のままで、「そうなんだ」久しぶりの再会で浮ついていた気持ちも沈静し、彼女は寄越したハンカチで髪を撫でながら席に着いた。
地元に戻ったからといって、彼女は実家に帰るつもりではないらしかった。かといって部屋を決めて東京を出たわけでもないらしく、尋ねれば友人の家を当てにしているらしい。そういえば、河南から家族の話を聞いたことはない。折り合いが悪いのだろうか。
「それなら、私の部屋に来ればいいんじゃない」
「いいんですか」
待ちかねたように身を乗り出して、やはり私を当てにしていたのだと思う。
「琴似の部屋なんだけどさ、一部屋使い余してるんだ。でも、泊める代わりに掃除をしてもらわないと」
「そんなの全然良いですよ。ほんとに助かる……このままだとどこにも行けないところだった」
地下歩行空間を大通りまで歩くうち、河南の隣を歩くことが恥ずかしくなってきた。彼女は黒いフレアパンツに、V字ネックのニット。落ち着いた出で立ちなのだが、首元が綺麗に見えるせいか、年上の私よりも大人びて見える気がした。私は履き慣れたジーンズに、長袖のシャツ、その上にジャケットを着ているが、彼女と比べてみれば野暮ったいファッションだった。髪には禄にセットをしないで、後ろの髪をゴムで纏めている。
河南は、青くて大きなスーツケースを引きずって歩いた。居酒屋へ向かう道中、霧雨に濡れて、表面は朝の葉っぱのように小さな水滴が幾つも付いた。
予約した時間には少し遅れた。でも、店内には全然客が入っていなかった。そこで、SNSに書かれることのなかった、彼女の様々な話を聞くこととなった。新卒で入った職場が肌に合わなかったこと、年上の上司に迫られて困ったこと。それから、同じ業界の企業に転職したのだけれど、一月も経たないうちに女性上司との折り合いが悪くなったこと。彼女は話が進めるごと、息継ぎをするように酒を飲んだ。途中まではペースを合わせていたけれど、彼女が強い酒に変えてからは到底追いつかなくなった。
――不意に静寂が訪れた。聞こえるのは、小さい雨粒が弾ける音、厨房のテレビの音、他の客の咀嚼音、それらが私達の間に流れる時間があった。河南は呆けたような表情でテレビを見つめ、「どうしてこうなったんだろう」独り言のように呟く。テレビに映るのはクイズ番組、常識的な問題に、真剣な顔でボケる芸人の顔、作り物っぽい笑い声、けれど内容は頭に入っていないように見える。
気の利いた慰めも思いつかず、「自分がどこに合っているのかなんて分からないもんだ」至極当たり前のことを言うと、河南の瞳は私に停まり、花が咲くように瞳孔が開く。ちょっと笑って見える白い前歯、頬は酔いに染まったまま。「ですよね」大した感慨も無さそうに言う。
居酒屋でだらだらしている内に、午後十時を回った。アパートのある琴似までは、目鼻先の大通駅から、地下鉄一本で帰ることができる。今日出会ったときの約束通り、彼女を家まで案内して泊めることになった。酔いたりない雰囲気はなかったけれど、道中、コンビニに立ち寄って缶の酒を幾つか買い込んだ。明日は休日であるから、翌日の自分に遠慮は要らない。
アパートの階段で、「先輩、良いとこ住んでますね」という河南の言葉が低く反響する。「そんなことないよ。古いんだ、こう見えて」
実際、築年数は結構なものになる。入居当時は外壁も一部崩れているくらいだった。けれど、一昨年に外壁が工事されて、ギリギリモダンと言えるナリになった。部屋の間取りは、風呂、台所が付いている玄関廊下から一番広いリビングルームに続いて、さらに、リビングの東側にはベッドルームがおまけみたいに付いている。
灯りを付けると、河南は新居の匂いを嗅ぐように胸を張った。ベッドルームとはいえ、殆ど物置になっている。入居一年目だけ使ったベッドは東に向いた窓際にあり、買い集めた古本はそこかしこに平積み、通販するたび増えるダンボールは、出来るだけ積み重ねているけれど、大きさが不揃いで厄介な場所の取り方をしている。
早速河南は、空いたスペースで荷解きを初め、「東京じゃ考えられませんよ」「何が?」「こんなに贅沢な空間の使い方。無駄ばっかりじゃないですか」喋りながらも、テキパキとスーツケースに入っていた衣類、化粧品、貴重品を取り出し、床に並べる。必要以上のものは無く、それこそ彼女が今まで生活していた場所を語る。言われてみれば、私の生活には無駄が多い。ぼおっとSNSを眺める時間や、切るに切れない人間関係、それから、大量の物。シャワーを浴びた後は、彼女はキャミソール、パンツ、身軽な格好に着替えた。
ズボンを脱ぎ、ソファで寝ていた。夜はシーツ一枚、夏でも冬でも下着姿で、エアコンをよく効かせる。不意にベッドルームの扉が開き、河南は音も無く、シーツを捲り身を寄せてきた。ただでさえ暑苦しいのに、臍の辺りを撫でられ、初めはただ甘えているのだと思っていたけれど、彼女の手は陰毛の生え際、下の方へにじり寄り、堪えていた息が漏れた。「先輩は可愛い……」呪いのように呟き、甘えたようにうなじをしゃぶる。嫌悪感よりはただ呆気に取られ、女の指の這う感触、掛かる吐息の艶めかしさに身を強ばらせた。私の起きる気配を感じたか、「ごめんなさい」呟かれるのだが、何も言えない。
彼女と過ごした大学時代、履修相談に乗ったことや、講堂での読み合わせ、打ち上げで撮った集合写真、最後に残るのは稽古場の石油ストーブ、その燃える様子、まるで嵐のようで、渦巻く光が走馬灯のように駆け抜け、そこから先のことはまっさらだった。気付けば河南は、スマートフォンを弄りながら私にのし掛かり、それでも愛撫する手は止めないでいる。いよいよ息を荒くして、キャミソールも脱いで、白い素肌を露わにした。獣のような目付きで、瞳孔は開き、ベッドルームから差し込む灯りで虹彩が輝いた。黒々とした眉毛、紅潮した頬。
目の前でうごめく彼女の肌、まるで真っ白に焼けた砂漠で、青い空、熱い太陽だけが照っている。乾ききって木も花も、何もない。もしかしたら、今はまだ砂の中に埋まっているだけなのかもしれない。夜になれば、雨も降るのだろうか。彼女の腰と連動して、砂丘があちら、こちらと盛り上がる。豊かな稜線は動くたび震え、少し太ったのじゃないだろうか? 今の状況に関わらずそんなことを思う。「先輩と、ずっとこういうことをしたかったんですよ」突然砂漠は盛り上がり、丘と丘がくっ付いた。唇に入ってきた熱いものは、河南の舌だった。下唇を丁寧に啄んで、小鳥の鳴くような声が聞こえてきた。
*
ベッドルームのベッドからはカビの匂いが漂った。部屋に篭もるうち朝日は昇り、東に向いている窓からは、焼けそうなくらいに熱い太陽が顔に当たる。数分前から河南は勝手にすり寄ってきて、「先輩、そんな落ち込まないでくださいよ」私の肩を揉みながら言う。
私も流石に平静を取り戻し、「なんであんなことしたの?」股の間には、無理矢理入れられた指の感触が残り、しばらくの間、ミミズのように這い回っていたのが、濡れないとみると、今度は舌を突っ込んできたのだった。こうなると気持ち云々の問題でも無くなって、私の体も反応してしまった。
「河南が人を騙して襲うような人だなんて思わなかった」
「私だって、そんなつもりは無かったんですよ」
「じゃあなんであんなことするの?」
「だって……」
河南との思い出が、彼女自身によって台無しにされた気分で、こんなことなら合わない方が良かった。
朝日と彼女の体温で汗をかいてきた。彼女の方には顔を向けないまま、髪の毛からは私の使っているシャンプーの香りが漂ってくる。ついさっき、朝のシャワーを浴びていた。既に私の家を我が物のように扱っているようで、そんな態度にも腹が立ってきた。
「河南、私は違うんだよ」
「違うって?」
「私はレズビアンでは無いってこと」
「そんなこと分からないんですよ。自分のセクシャリティなんて、ある日突然気が付くものなんだから」溜め息を吐いて、「マイノリティになることなんて、ある日突然、予告も無いことなんですよ。何の前触れも無く、急に……」言葉の切れかかりが悲哀を帯びていて、彼女が視界に入らない程度に、後ろを向いた。
「付き合いませんか……私たち」
はっきりと彼女と目を合わせる。
「お前、ほんとふざけんなよ」
「先輩が嫌なら、もう昨日みたいなことしませんよ」
彼女を拒絶しきれないのは、動画があったからだ。
河南が昨晩、スマートフォンで撮影していた、無理矢理脱がせた私の裸、顔、それから、河南の指が私のあそこに入れられるところ。そんな様子が、粗い手ぶれの中で撮影されている。彼女が舌で私のあそこを舐めているところは、流石に撮られていなかった。動画は事後、シャワーを浴びているときにLINEで送信されてきた。私の顔がバストショットで映されていたところで、動画は消した。怒り、恐れで血の気が引いて、体が震え、LINEではまた、「可愛かったです」という河南のメッセージも付いてきた。私はそれを、殆ど脅迫として受け取ったのだった。肩に弾かれていたシャワーの温水が、やけに熱く感じられた。恐らく今、メッセージを送信した直後だろう彼女が、リビングで私を待っていることを怖いと感じた。
――――
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