第6話
「こちらです」
広大で薄暗い書庫の中で、聖徳太子が手に取った原本。
表紙こそ平凡だが、開いた途端緊張が走った。
「……これを破損と呼ぶには綺麗すぎますね」
「ご丁寧に序盤から終盤まで」
手渡された現文がざっと目を通す。人物の名前のみ、切り抜かれている。
「この原本の持ち主は、自分の家族の名前すら憶えていない、というか抹消されているようです。あ、でも全員じゃない。何人か名前が切り抜かれずに残っているようですね」
「館長!」
息を切らした紫式部が到着した。
「焼却炉の記録簿を確認してきました。資料コードを照らし合わせたのですが、この原本、本来ならとっくの昔に除籍、焼却処分されているはずです」
全員が顔を見合わせた。
「……じゃあ、今天界にいるのは一体……」
「スープがしみる」
休憩時間、売店で買ったスープをすすりながらのんびり、空を見上げる。
空の向こうには宇宙があるはずなのに、全く見えない。ただただ、呆れるぐらいの爽やかな青がどこまでも広がっている。
「お前はおかしい」
どこからともなくバッサバッサと天使(仮称)が現れた。
「あなたこそ、おかしい僕に毎日のように付き纏って。あなたこそおかしい」
「天使が直々に諭してやっているんだ」
「こんな天使がいてたまるか」
真意は読めない。ただ、ヤバそうな気がしないので僕も慣れてしまった。案外どこかで知り合いだったのかもしれない。
「どうして僕にこんなに付き纏うんです?」
「俺の勝手だ」
「僕を知っているんじゃないんですか? 本当の僕を」
「知るか」
ええ。一蹴された。本当にただのストーカーなのか?
「じゃあ、本当にあなたは天使なんですか?」
「天使だよ。直々に交渉して俺は天使に」
[リュウ を 捕獲 します]
一瞬だった。
ああ、この人たちこそ天使なのか、と納得した。壁画の天使がそのまま大人になったような、高潔で、完璧すぎる見た目の彼らが、薄汚い天使(仮称)を地面に押さえつけていた。
リュウと呼ばれた彼は、驚いた顔はしたものの、すぐに落ち着き、そして抵抗しなかった。
「ああそうか、ずっと俺は天界にいなかったからか」
[天界上層部 に 連行 する]
「どーぞ。ああ、お前、今なんだっけトオルなんだっけ?」
「え、うん」
「トオル、善い人じゃなくたってお前は愛される人だって、気づいてくれよな、いい加減」
「えっ」
最後に見たのは、泣きそうな笑いそうな、でも諦観したような顔だった。
「驚いたでしょう? 大丈夫、全員驚きましたから」
数日後、館長と向き合って、僕は立派な応接間のソファに久しぶりに腰掛けた。
「彼は結局何だったんですか?」
「順番に話しますね。調べたところ、彼の原本が書庫に残っていました。本来なら、しかるべき時期に焼却されるべきものでした。万が一、燃やし損ねたものがあれば、現場の職員がすぐに燃やします。恐らくですが、第三者が忍び込み、原本を書庫に移動した可能性が大きいです」
「でも、カードキーがなければ焼却炉や書庫には入れないはずでは?」
(便宜上)右腕のブレスレットがカチャリと揺れる。
「そう。そして、これは職員でも一部しか知りませんが、全てのカードキーは厳重に管理され、誰がいつどこに入ったか判別できるんです。もちろん、その頃の記録も残っていたので洗い出しました、が」
「が?」
「該当者がいなかったんです。監視カメラも併せて確認しましたが異常なし」
「……ホラーですか? いや、ミステリー?」
「まあみんな死んでますからね。もう死体は増えません。それで、トオルさんをこのタイミングで呼び出したのは、あの天使——リュウさんの捜査が一区切りついたからです」
「はい」
「彼は、何らかの事情で上と取引して、天使になった元死者だったと。これは本人も否定しませんでしたし、原本も確認できたので事実です。ではどうして取引をしたのか? そしてその取引にどうして上が応えたのかに関しては、黙秘しているようです」
「肝心なところが何もわかりませんね」
「……リュウさんの件に関しては、上層部も早く手を打ちたいらしく、準備が出来次第、原本焼却だそうです。まあ、天使に不審者が紛れ込んでいたことは公にしたくないようでして」
「あの、彼がどうして僕に付き纏っていたかは……?」
「そのことについても、何も話さないようです。あ、でも、……うーん、口止めされていますが、事故を装って話しますね」
何だろう。
「あなたの原本の在処を気にされていたようです」
「僕の?」
"善い人じゃなくたってお前は愛される人だって、気づいてくれよな、いい加減"
「だから、トオルさんと何らかの関係があった可能性を捨てていません。実は極秘でリュウさんの二刷本を製本しました。今日の夕方にはリュウさんの原本は焼却されるので、ほとぼりが冷めた頃にでも——」
ない耳の鼓膜が破れそうな、やかましいアラームの音が鳴り響いた。
「なっ、この音は何ですか!?」
「これは……」
応接間に血相を変えた聖徳太子が飛び込んで来た。
「館長、火事です!」
「聖徳さん、このアラームの音って」
「え、でも、天界で死ぬことはないんですよね?」
のんきに見た、館長の顔。
血の気が引き、震え始める小さな身体。
「書庫で火事です!」
聖徳太子の切羽詰まった声に、ない脳みそがぐわんと揺れた。
人生について書かれた本(原本)は利用期間の後、焼却炉で燃やされる。
それで魂が成仏し、完結する。
書庫にあるのは、天界で業務に励む人々の原本である。
つまり。
書庫が燃えたら、天界は。館長たちは。
「まだここにいなくちゃいけない……お姉ちゃんを待たなきゃいけないのに」
へたり込む館長の背中を、聖徳さんがさする。
「お気を確かに」
さする聖徳さんの手も震えている。
「既に各所に連絡しています。館長、大丈夫です。私も紫式部も側にいます。トオルさん、すみませんが緊急事態なので……あれ?」
僕は走り出していた。
原本の所在も、存在も不確定な僕が最も適任だと思ったから。
ライターで、一つ一つの棚に火をつけていく。何らかの術で弾かれているが、耐久はそれほど強くようだ。しばらくすれば火も根付いて、原本を燃やし始めるだろう。まさか自分が持っていたただのライターが役に立つ時が来るとは。
本当に呆れるほどお人好しだった。
あんなに自分をすり減らしているのに、どうして平気なんだ?
下界ではまだ死ぬことで終わりがあったのに。
天界はもうそれすらないのに。
なのに、なんで、お前は。
見えない何かに、火を灯す腕を掴まれた。
「話の続きを聞かせて」
「……いつの間に」
「君の人生の、話の続きを聞かせて」
横を向くと少し焦げたブレスレットと、ネックストラップが揺れていた。
煙と炎の中、俺とお前は向かい合った。
もう顔なんてないのに、表情なんて、視線なんて見えないのに、確かにそこには真剣な顔で立つお前がいた。
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