第3話

 「”稀によくある”って話ですよ、要は」

 ふかふかのよく分からない菓子を頬張りながら、紫さんは淡々と話した。

 「色恋沙汰ってのはたとえ天界であってもどうにもできないので」

 あの少女からもらったブレスレットは、あれきりどうしても外せなくてまだ(便宜上)右手首にあった。

 「食べてみます? 天界名物くもがし。意外と腹持ち良いんですよ」

 とりあえず受け取って、首の少し上辺りを探る。まだ自分の体の勝手はよく分からない。

 「ん!」

 穴があった。

 じわ、と体に染みていく。

 「あ、くもがしが消えた……ということは、口が出来ましたね」

 「口が出来ました。これは……これは味ですよね? すごく久々な……」

 「びっくりしました? くもがしって甘そうに見えて甘くないんですよ。スパイシー菓子、激辛のやつです」

 「痛いです。味覚に痛いってありましたっけ?」

 「痛覚も出来ましたね」

 「痛いんですが、紫さん。これ劇物では? 天界はこれが普通なんですか?」

 「聖徳太子は食べると二、三日は苦しむみたいです」

 「紫さん?」

 休憩中の紫式部とくもがしに苦しむ”僕”の向こうで、聖徳太子と館長はある報せを聞いていた。

 「それで、その刃物持ち込み者は今どこに?」

 「センサーが働いて移動本棚で隔離されていますが、蔵書への切り付けを行なっているようです」

 「刃物の出どころは?」

 「天界のストックは異常ないようなので、恐らく下界から共に。こちらが人生カルテです」

 人生カルテとは、死者の生まれから死までの全記録を記した書類。人生について書かれた本を製本する際に使用する。

 「……館長、ここ」

 聖徳太子が指差した文字列。

 “——◯◯名を殺害後、自殺。”

 「死んでからも暴れるケースはあまりないんだけどね。様子を見るに死んだことを知らないのかも。特殊部隊の派遣要請は済んでいますか?」

 「はい。もう後数分で到着します」

 「迅速な対応、ありがとう。……可哀想な人だ」

 「ええ」


 くもがしに苦しみ抜いた僕は、ないはずの胴体の違和感に耐えながら屠書館内を漂っていた。

 「これが幻肢痛ってやつなのかな……紫さん、どんな胃してんだろう……」

 痛みから現実逃避するためにも、面白そうな本を探す。

 屠書館は人生について書かれた本(原本)を製本して、死者の魂を完結へ導く場所である。ただし、その死者が希望すればその原本とほぼ同一の本を製本し(二刷本と呼ばれる)、屠書館内で永久に保管してもらうことも可能。後に訪れた死者はそれらを自由に読むことができる。二刷本は原本とは異なり、燃やしてもその死者が成仏することはないが、永久に保存するために傷付けることは御法度である。

 重々しい音と共に本棚が動き出した。慌てて後ろに下がる。動くのが止まると、ひどい光景が目に入った。

 「本がめちゃくちゃだ」

 切り裂かれた本が散らばっていた。

 「誰が一体こんなことを」

 「犯人は捕まったから大丈夫ですよ」

 「館長」

 「可哀想に」

 館長は小さな手で本を拾い始めた。咄嗟に手伝う。軽い腕まくりをしていたその小さな細い腕に、痛々しい注射痕があることを見つけた。触れてしまっていいのか、いや、でも——ないはずの目玉が、視線が、泳いでいることは筒抜けだった。

 「下界にいた頃はほとんど病院暮らしだったんだ。点滴をつけてなかった日の方が少ない」

 「ああ、なるほど……」

 全ての本を拾って、修理課へ置きにいく道中、館長は優しい声色で言った。

 「話したいことがあります。お時間いいでしょうか」

 ついに成仏か。こんな存在不定のボーナスタイムは終わりか。薄々分かっていた。

 「はい」

 終わりだとしても、始まりだとしても、逃げないでいよう。僕が誰だか分からなくても、善い人でいよう。僕が存在していると知ったその日から、そう決めていた。


 見晴らしのいい所だった。

 ベンチに座り、ココアを手渡された。

 「紫さんに聞きましたよ、口が出来たって」

 「そうなんです。本当に久しぶりに食べました」

 「天界はまだあなたの存在が分からないようです。ご不便をおかけして申し訳ない」

 「いや、いいんです。そもそも本当に僕のような風もどきが、生きていたなんて僕が信じきれてない」

 ココアを口に含む。想像通りの甘い味が身体中に広がる。

 「……やりたいことはありますか?」

 「……いえ、特にまだ何も」

 「行きたい場所は?」

 「まだ……まだ自分がわからないですから。そんなこと考えていないです、全然」

 目の前を、白い花吹雪が飛んでいく。美しく、どこか寂しい景色だった。

 「天界の花ですか、あれ」

 思わず指差した。ブレスレットの動きで、館長も視線の先に気づいたようだ。

 「ああ、あれは……正直に言ってしまえば、細断刑です」

 「サイダンケー?」

 「さっき、切り裂かれた本を拾いましたよね」

 「はい」

 「たまに、思いの強さから、下界のものを持ってこれてしまう人がいます。ぬいぐるみや食べ物程度ならいいんですがね、刃物を持って来れる人もいるんです」

 「さっきのは、じゃあ」

 「何てことのない、普通のハサミだったようですが、その人はそれで屠書館の蔵書を傷つけました。天界では人が死ぬことはありませんが、永久保存の蔵書を傷つけたこと、また人に危害を加える恐れがあることを加味して、非常に厳しい刑を下されました」

 「それが細断刑。死ぬことがないってことは、身体をその、細かく刻まれるっていう……?」

 「いいえ、それよりもっと辛いことです。切り刻まれるのはその方の原本」

 原本は人生について書かれた本。

 「それまでの記憶の一切を失います。また、原本は天界の炎で焼却されることでその役目を全うしますが、細断された原本は紙屑となって下界へばら撒かれるんです。永遠に、天界の炎は届きません」

 「あの花吹雪が、細断された原本だと」

 思わず息を呑む。何てことだ、美しいあの景色、とんでもなくグロテスクじゃないか。

 「全ての記憶を失ったその人は、自分が誰であるか、何であるかを忘れて永遠に天界や下界を彷徨うことになる。館長の職について何年も経ちますが、あの景色はいい思いをしませんね」

 「そんな——」

 いや。

 待て。

 ある疑問が生まれる。

 疑問というより、確証に近い。

 それは”僕の存在”について。

 ないはずの背中に、冷たいものが走る。

 「館長、僕ってそうだったんじゃないですか」

 「え?」

 「僕って、細断刑を受けたんじゃないんですか」

 だから記憶も、身体もないんじゃ。

 一度思ってしまえば、その疑念は湧くばかりだ。

 「それは違う」

 館長はしっかりと僕の目を見た。見えるはずのない目を。

 「違うと思っています。細断刑は全ての記憶を失う、つまり人としての振る舞いも忘れます。言い方悪いですが動物に戻る、と考えていただければ。ただ正直に言いますが、その可能性も天界は捨てていません。今の所、細断刑を受けた人の中に該当する人物はいないようですが。動物のようになった、壊れてしまった人間が時間をかけて人に成る、ということもあり得なくはないのでしょうが、原本が細断され下界にばら撒かれている以上不可能なんです。だから、僕は違うと思っています」

 僕の返答をあえて挟ませないような、一息だった。

 「……じゃあ今日の話ってのは」

 「提案をしたいんです。屠書館で働きませんかって」

 「え?」

 「だいぶ話が逸れちゃったんですけど、本題は就職提案です。もちろん気ままに漂っててもらってても全然いいんですが、史上ないケースなので身元がわかるまで時間がかかります。だから、よかったら考えてくれますかっていう話をしたかったんですよ」

 苦笑いしつつ、封筒を手渡された。

 「気が向いたらでいいです。ここでは死ぬことはありませんから、のんびりやっていきましょう、一緒に」


 拍子抜けした。そして、まだ僕としてここにいていい、と背中を押されたような心地だった。

 僕は誰か。

 何がしたいか。

 どこへ行きたいか。

 いつか、答えが出るのだろうか。いつか、きっと。

 館長を見送って、一人ベンチで考えていた。

 働くことに関しては嫌な気持ちはしていない。最近は慣れてきて、確かに時間を持て余している。

 善い人でありたいと思っている。人のために貢献することに不快感はない。

 何だか思考が堂々巡りだ。久しぶりに飛んでみるか。


 しばらく地に足をつけていたから、風として舞うことを忘れているかと思っていたけど、すんなり空を吹き渡れた。

 雨が降ってきた。全身で水飛沫の中を駆けていく爽快感。

 目の前に、何かがいた。

 白い髪に、具合の悪そうな顔(特に目のクマがひどい)、そして背中からは灰色の翼。

 そうか、天界だから天使もいるのか。

 見えてないんだな、とすれ違うその瞬間、(便宜上)右手首を掴まれた。

 ブレスレットが食い込む。

 「お前、何者だ?」

 「見えるんですか!?」

 「質問に答えろ。お前は何者だ? 何で空を飛んでいる? 死者じゃないのか?」

 「僕は僕が誰だかわからないんです、今は」

 「…………許すべきじゃない」

 「はい?」

 「お前みたいな存在を、世界は許すべきじゃない」


 天使と呼ぶにはあまりにも邪悪で忌々しい表情をしていた。

 大雨の空の中、僕と彼は向かい合っていた。

 見えないはずの僕の顔を、見透かすような鋭い眼光だった。

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