2  (グリン)

 勝手に飛び級させた上に、この一年で進路を決めろと言い渡された。大人はみんな自分勝手で、子どもの都合も意思も自由も認めない。


 本当だったらあと二年、学生でいられたはずなのに、一年、短縮させられた。

こんな事なら手を抜いて、落第した方がよっぽど良かった。


「あなたほどの実力なら、ギルドに入ることも、統括魔女の城住みも、思いのままに選べますよ」

寮監は自分のことのように喜んで、満面の笑顔でそう言った。


 だったら自分がそのギルド預かりにでも、城住みにでもなればいいじゃないか、そう言いたいが、言ったところで相手を怒らせるだけだ。


「校長は、あなたには、出来ればギルドに行って欲しいとお思いです」

 優しい眼差しを向けて寮監は言うけれど、僕はそれだけはお断りだ。校長の思惑通りに生きていくなんて御免ごめんこうむる。


「あなたの学業成績なら教職も望めます。学者になるのはどうですか? 今なら、魔導理論、基礎呪文、魔導法規に欠員がありますよ」

馬鹿言うな、校長が目障りな僕を学校に置くものか。飛び級させたのだって、さっさと僕を学校から追い出したいからだ。


 魔導士学校の黄金寮の一室、グリンバゼルトは寸刻前の寮監の話を思い出していた。


 明日からの新学年を控え、個々に寮監と面接した。そこで飛び級を言い渡され、進路を決めなければならないと言われた。

「一生を左右する選択です。時間はまだあるのですから、じっくりとよく考えなさい。自分の適性と照らし合わせ、これからの人生をどう生きたいのか考えを巡らせるのですよ」

何を言っても返事をしない僕にしびれを切らせ、寮監は話を打ち切った。


 ふと気が付くと、いつもなら壁越しに聞こえる談話室の雑音が聞こえない。夕食の時間で、みな、食堂のある講義棟に行ってしまったのだ。そう言えば空腹だ。


 でもどうしよう、飛び級した僕を同じ寮の学生たちは扱いかねている。食堂に行けば、またあの気まずさを味わうことになる。味わいたいのは食事なのに。


「あー、面白くない」

 グリンバゼルトは窓を開け、ヒョイっとすぐそこまで伸びた枝に飛び移る。


 枝を折らないように移動してマグノリアの木から下に降りる。そこはベンチがあるのに周囲はやぶおおわれて、着地するのに目立たない絶好の場所だった。


 それに、ここからなら、寮棟にも教師棟にも講義棟にも行かず、むしろ遠ざかって、はいってはいけないと言われている森へと行けた。


 その森には、人心を惑わす魔物が住むと言われていた。見た目は美しくあでやかで、とても魔物とは思えない。けれどその美しさに心惹かれた者は二度と森から出られない。


 そんな話を信じる学生は皆無だが、侵入が学校に知れれば厳しい罰則を科せられる。禁忌を犯す学生はいない。グリンバゼルトだけだ。


 しかしグリンバゼルトが森に入ったことを学校が気づくこともなかった。罰則を科すと言いながら、学校は管理を放棄しているのだとグリンバゼルトは思っていた。


 初めて行った時は森の入り口で、やはりやめておこうと退き返したグリンバゼルトだったが、二度三度と森に足を運ぶたび、奥に奥にと進んでいった。そしてスケッチブックを持参しては、季節ごとに咲く花々や、枝で遊ぶ小鳥たち、リスや、蝶や、木立や、美しいと感じたものを描き止めて行った。


 そしてある日、深い緑色に輝く沼を見つけた。そして、幼い頃に聞いた物語を思い出す。


「魔導士学校の森の奥に緑色の沼がある」

 穏やかで落ち着いた大人の男の声、座らされた膝は硬くて、柔らかな母とは違っていたがグリンバゼルトはそこが好きだった。一冊の本と共に、男の懐に抱かれるのが好きだった。


 男は本を読みながら、自分の言葉で読み砕きグリンバゼルトに語っていた。

「その沼には金色の大きな魚が一人で住んでいるんだ」

「違うよ、パパ。魚だから一匹だ」


すると優しい声が

「うん、グリンの言う通りだ、魚は一匹だ。グリンは賢いね」

と褒めてくれた。


 嬉しくて、その胸にしがみ付くとそっと包み込まれた。心の中まで染み込むような温かさを感じていた。


「一匹で沼に住んでいても、大きな黄金色の魚は寂しくなんかなかった」

 沼の中には金色の大きな魚しかいないのだから、誰も彼を邪魔しない。好きな時に眠り、好きな時に好きなものを食べ、金色の大きな魚は幸せだった。


「けれど春が来て、金色の大きな魚も気が付く時が来る」

 沼のほとりでは鳥たちが愛をささやき、あちらこちらで動物たちが愛を育む。見渡すと世の中は愛に溢れ、満たされている。


 何と言う美しさ、何と言う幸福感……


「金色の大きな魚はみんなの事が羨ましくなり、自分にも恋を囁き、愛を確かめ合う相手が欲しくなった」


「ねぇ、パパ、恋ってなぁに?」

「恋か、説明するのは難しいなぁ。簡単に言うと誰かを好きになり、ずっと傍にいたいと願う事、かな。グリンもいつかそんな相手と巡り合うよ」


 そこで金色の大きな魚は必死になって相手を探した。魚だから沼から出ることは叶わない。沼の中を泳ぎまわった。


 金色の大きな魚しか住んでいないその沼に、恋を囁き、愛を確かめ合う相手は見つけられない。


「だけど、ある夜、金色の大きな魚はついに恋の相手を見つけるんだ」


 金色の大きな魚、見つけた相手は銀色に輝く丸い魚。そして金色の魚と同じくらい大きい銀色の丸い魚。


 なんて素敵なんだろう、銀色の丸い魚を一目で気に入った金色の大きな魚は、銀色の丸い魚に近寄って話しかけた。―― ねぇねぇ、僕と仲良くしようよ。


 だけど銀色の丸い魚は金色の大きな魚を見てくれない。返事もない。近寄れば、スイっと先に行ってしまう。


「銀色の丸い魚は金色の大きな魚が嫌いだったの?」


 その問いに答えはなかった。有ったのかもしれないが覚えていない。ただ優しい眼差しと、頭を撫でてくれた大きな掌をグリンバゼルトは覚えている。


「金色の大きな魚が銀色の丸い魚を追いかける、そんな日が何日か続いた後、急に銀色の丸い魚は姿を消した」


 金色の大きな魚は悲しんで、見えなくなった銀色の丸い魚を懸命に探す。もう彼は、恋を囁いたり、愛を確かめ合ったり、そんな事は望んでいなかった。ただ、いて欲しい。そこにいてくれさえすればいい。


 金色の大きな魚は何日も探し、泣き続け、緑色の涙をたくさん、たくさん流した。


 そして泣き疲れたある日、

「もう、追いかけたりしないよ。キミが幸せでいてくれればそれでいい」

そう呟いて、金色の大きな魚は空を見上げた。そして金色の大きな魚は空に、大きな銀色の丸い魚をみつけた。


 銀色の丸い魚は金色の大きな魚を見降ろしていた。金色の大きな魚は叫んだ。

「ああ、そこにいたんだね。どうしてそんな遠くに行ってしまったの? そんなに僕が嫌だった?」

銀色の丸い魚はやっぱり何も答えない。


 その様子を見ていた夜鳴鶯ナイチンゲールが金色の大きな魚にこう言った。

「沼にいたのは月の影、いつでも沼にいられはしない。そして月は太陽の恋人。太陽は月の恋人」


 金色の大きな魚は夜鳴鶯の言葉を聞かず、銀色の丸い魚に呼び掛け続けた。

「それで? それであなたは幸せなの?」


夜鳴鶯は夜空に声を響かせて、愛を詠う。


 いつでも同じ空にいられる幸せ


 太陽は月を愛している

 いつでも月を見詰めている

 昼も夜も見詰め続ける


 太陽の光に霞む月

 その時、月は太陽のもの

 そして太陽は月のもの

 他の星は太陽の前では姿消す

 昼の太陽は月の幻影


 月は太陽を愛している

 いつでも太陽を求めている

 昼も夜も見詰めて欲しい


 月の光は太陽の欠片

 その時、太陽は月のもの

 そして月は太陽のもの

 他の星は太陽の光で輝けない

 夜の月は太陽の残像


 太陽の残像、月の幻影

 二つは別でも同じ物

 引き離すことは誰にもできない

 そして同じ空

 二つは離れていてもいつも同じ

 同じ空にいられる幸せ……


 気が付くと沼の水は金色の大きな魚が流した涙で緑色に染まっていた。それ以来、沼は深い緑色の水を湛えている。そして今でも、金色の大きな魚は空を見上げている。


 沼のほとりの木立は金色の大きな魚を憐れんで、枝を伸ばして沼から空を隠してしまった。それでも毎夜、金色の大きな魚は空を見上げる。手の届かない空を泳ぐ銀色の丸い魚に、今も思いを寄せる金色の大きな魚、空は見えるが幸せか、空が見えぬは幸せか。


「物語はこれで終わりだよ」

 静かな声がそう告げる。幼い息子は胸の中で眠い目をこすっている。


「グリンバゼルトには少し早すぎたかな?」

と父親は苦笑しながら母親に尋ねた。


 母親は……愛しい男に微笑むだけだった。

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