姫君と魔法の眼鏡[後]

 執務室の戸口は、わずかに隙間が開いている。こっそりと様子をうかがうと、奥のほうの燭台に火が灯り、向かい合って正座する二つの人影が見えた。

 一方はくだんのムカワ城代、そしてもう一方は悪戯の主犯たる少女。腰帯を締めていないために紅の衣が着崩れて、背筋の伸びたその姿勢に似ず、どこか哀れっぽく見えた。

 のぞき見する少年の手のひらに汗がにじみ、握りしめた革帯を湿らせる。アルハ姫が蛇と見せかけて彼の背中に放りこんだそれを番兵が引っ張り出してくれたときは、だまされた怒りも忘れるほどにほっとしたものだ。しかし安堵も束の間、城代が執務室で待っていると聞かされて、肝が冷えた。

 逃げられるものなら逃げたかったが、姫がどうなったかを知らずに雲隠れもできない。恐る恐る出頭してみたら、案の定だった。作戦は、見事に失敗したというわけだ。

 こうして大人と差し向かいになっているところを見ると、アルハ姫も所詮、まだ幼い子どもだった。殊に長身のムカワの前ではなおさら小さく、あまりにも頼りなげで、遠くから眺めているだけで泣きそうになる。

 わずか半年とはいえ、シュロは彼女の兄貴分だ。乳母子の少女が独りで叱責されるのを放っておけはしない。今、姫を守れるのは自分しかいないのだと、少年は腹を決めた。

「アルハさま!」

 意を決して室内へ踏み入り、奥まで全力で走った。滑りこむように少女の横へ正座し、両手を前にそろえてムカワ・フモンに向き直る。

 頬の張った浅黒い顔に白髪交じりのまげ頭、右目を覆う眼帯、左目からの鋭い視線。揺れる火影に照らされたその面相を間近に見ると、やはり怖い。眼光を避けるように面を伏せ、額を床にすりつけて、精いっぱいの声で訴えた。

「じょうだいさま、ごめんなさい。ぼくが、いえ、わたしがいけなかったんです。おかしなうわさをアルハさまに聞かせてしまって。だから、どうか、アルハさまをしからないでください。やくそくします、こんなことは、もう、ぜったいに……」

「シュロ」

 場違いにのどかな声が、隣に座っている少女から発せられる。

「それは、もうおわった」

「……へ?」

「いまは、めがねが本当にまじないものなのか、きいているところだ」

 この少女は、いったい、どういう神経をしているのだろう。シュロはいよいよ胃の縮む思いで、目の前にいるムカワの顔を見上げた。母親や道場の師匠が叱ろうとするときには何かしら予兆のような気配があるのに、そうした感情の起伏がまったく読み取れない。なおさら不気味でしかたがない。

 と、相手がおもむろに腕を持ち上げた。面はアルハ姫に向けたままで、傍らの机に置かれたものを手に取る。それを静かに、前へと差し出した。

 誰にも触らせないと聞いている、あの片眼鏡を。

 一瞥、姫はシュロと視線を交わしたが、何も言わずにそれを受け取った。硝子に触れないように、金細工の施された縁の部分を両手で持ち、高く掲げてしげしげと眺める。しかしのぞきこむのにはさすがに勇気が要るのか、なかなかそれを眼に近づけてみようとはしなかった。

「このめがねで、ふつうの人には見えぬものが見えると、みんなが言っていたのだな、シュロ?」

「え、うん、まあ」

「たとえば、どんなものが?」

「だからそれは、人が心の中で思ってることとか、どこかとおい国のできごととか……うわさじゃ、そんなようなことを」

「ふうん」

 半端な相づちを打つと、姫は軽く息を吐いて左の目を瞑り、ゆっくりと右目にそれを押し当てる。

 少年は固唾を飲んで様子を見守った。が、やはりというべきか、彼女は冴えない表情で首を傾げるばかりだった。

「ぼんやりとして、なにも見えぬ」

 眼鏡を外して、姫は不平を漏らす。

「やはり、まじないをかけなければ、だめなのか?」

 すると城代はまた机に手を伸ばし、書類の一枚を取って床に置いた。それから、まだ片眼鏡を握ったままの姫の手首に指を添え、紙から少し離れた位置にゆっくりと誘導した。

 訝しげに寄せられていた少女の眉が開き、「おお」とつぶやく。シュロも気になって横からのぞきこむと、書類にぎっしりと並んだ小さな文字が、何倍もの大きさに膨らんで見えた。

 なんだ、虫めがねじゃないか、と少年は拍子抜けする。拡大鏡なら、叔父の営む小間物屋でもたまに売っている。ここまで手の込んだ細工の品は珍しいかもしれないが、取り立てて噂の種になるほどのものとは思えなかった。

「これは、見えがたきものを見えやすくするための道具にて」

 片目の男が、ようやく口を利いた。

「いかなるまじないをかけようと、見えざるものは見えませぬ」

 聞いているのかいないのか、姫はしばらくの間、眼鏡を傾けたり裏返したりしていた。が、やがて得心したように頷くと、それを両手で捧げるようにして、持ち主の前に差し返した。

「ありがとう。おかげで、気がすんだ」

 相手もまた押し頂くように受け取って、あとは何も言わずに立ち上がり、自分の座席へ戻っていく。栞の挟まれた書物を紐解いてその上に片眼鏡を浮かべる様子は、まるでもう二人が正座したままでいるのを忘れてしまったかのようだ。

 行こう、と横の少女が小声でささやく。大人がもういいと言う前に果たして立ち上がってよいものなのか、説教慣れしているシュロはためらった。しかし姫が着崩れた衣の裾をなびかせながらさっさと歩き去っていくので、少年も城代の横顔を気にかけつつ、小走りに後を追った。

 ムカワ・フモンは結局、二人が部屋を出る瞬間も、眼鏡に目を落としたまま顔を上げようとしなかった。


「ほんとに、きのうはひどい目にあったよ」

 地面に落ちている松の葉を拾い集めながら、シュロの愚痴は続く。

「母さまときたらもうカンカンで、ぼくみたいな子に食べさせるごはんはないってさ。姉さまがこっそりおやつを分けてくれなかったら、はらぺこでたおれるところだった」

「それは、なんでもかんでもしゃべってしまうシュロがわるい。だまっていれば、わからないのに」

「だって、あんなにかえりがおそくなったんだもの、わけを話さなくちゃうちに入れてもらえない」

 口をとがらせて言い返す。父親譲りとよく言われる嘘のつけない性格で、今まで得をしたためしがない。

「にわの木にしばりつけられなかっただけでも、よかったではないか。こうして、しろへ来ることもゆるされているようだし」

 アルハ姫は竹のほうきで地面を掃きながら、人を食ったように笑う。もちろん革帯はすでに彼女のもとに戻り、その細い腰にきっちりと留められていた。

 とはいえ、彼女のほうも、昨夜はいろいろあったそうだ。守り役のユウがどこからか事の顛末を聞きつけたらしく、みっちりと叱られた。さすがに食事抜きとはならなかったが、罰として今朝からこうして館の掃除をさせられている。

 手伝いを頼まれたわけでもないが、何もせずに見ているのも落ち着かない。シュロは拾い集めた落ち葉を掃き溜めに放ち、両手をはたいた。陽射しの中に塵が舞い、白く煙る。

「あのめがね、もともとは、うちの店でしいれたんだって」

 少し声を低めて彼が言うと、ほうきを動かす手が止まった。

「前のじょうしゅさまが、ぼくの父さまにたのんで、店から買い上げたものなんだって」

「母上が?」

「うん。右目が見えなくなってきたムカワさまのために」

「そうだったのか」

 西府さいふでも指折りの小間物屋が仕入れ、今は亡き英雄テシカガ・シウロの手でマツバ姫に献上された片眼鏡。そもそも、いかがわしい品であるはずがなかったのだ。

 ほうきが再び動きだす。針のような落ち葉の表層が、地面から剥がされていく。うつむき加減の横顔から、いつしか笑顔は消えていた。

「もしもほんとに、あれがうわさのとおりのめがねだったらさ……」

 昨日からずっと聞きそびれていた問いを、少年は口にする。

「アルハさまは、なにを見るつもりだったの?」

 少女は顔を上げて、その大きな眼を彼に向けた。まっすぐに見つめられると、なぜだかいつもぎくりとしてしまう。相手が一歩、こちらへ足を踏み出した。

 次の瞬間、ほうきの柄が彼の手に押しつけられ、一陣の風が横を吹き抜けていった。振り返ると、長い髪をなびかせた少女の、城館の外廊下へと駆け寄っていく後ろ姿が見えた。

「ムカワ・フモン!」

 まさに廊下を行き過ぎようとしていた長身の人影が、静かに立ち止まる。姫は欄干のすぐ下まで行くと、首をほとんど真上に向けるほどに振り仰いで、「ムカワじょうだい」と呼び直した。

「じょうだいというのは、じょうしゅのといういみだときいた」

 男はゆっくりと振り返り、少女の眼差しを片方だけの目で受け止める。

「もう、もどってこない人の……わたしの母のかわりを、ずっと?」

「見えざるものを見んとするに、眼鏡も呪いも無用」

 質問にまるで噛み合わないように思える返事を、唐突に男は口にする。

「鏡が一つ、あればよろしい」

「かがみ?」

「さよう。鏡の中をのぞき見れば、現し世にはすでになきものの影をご覧になることもできましょう。ただし」

 そこで男は、言葉を切る。姫は先を促すように黙っている。シュロはほうきの柄を握ったまま、二人の顔を見比べるばかりだ。

「ただし、見えたところで、代わりにはなりますまい」

「……」

「あのかたの代わりは、何ものにも務まらぬ。私にも、御身にも。ただ、己が務めを為すよりほかは」

「おのがつとめ……」

 少女は鸚鵡返しにつぶやいて、足元に視線を落とした。が、すぐに、くつくつと小さな笑い声を立て始める。シュロが訝しく思って横顔をのぞきこむのと同時に、あはははっ、と軽やかな哄笑が弾けた。

「じょうだいの話は、おもしろいな。なあ、シュロ、そう思わぬか?」

「えっ、いや……ぼくには、その、ちょっとむつかしいというか」

「うん、わたしにも、よくはわからぬ。わからぬが、きっとそれが、わたしの知りたい答えなのだ。そんな気がする」

「はあ……」

 ああ、まただ、と少年は思う。呪い眼鏡の噂を聞いたときと同じ、爛々と輝く瞳。恐れ知らずの好奇心の塊が、また新たな標的を見つけたのだ。

「ムカワ・フモン。またなにか知りたいことができたら、そなたにたずねる。答えてくれるか?」

「私の存じていることであれば、何なりと」

「よし、やくそくだ!」

 そう言うと少女は廊下に駆け上がり、城代の筋張った左手を取って、小さな両手のひらで包みこむように握りしめた。

「ずっと、ずぅっと……わたしが大人になっても、どんなにえらくなっても。よいな!」

 一方的にそう言いつけて、手を放す。それからすぐにまた庭へ飛び降りて、呆気に取られているシュロの手からほうきを奪い取り、

「シュロ、行くぞ! つぎは、前にわのそうじだっ」

 言うが早いか、まりの弾むように駆けていく。 

「ちょ、ちょっと、アルハさまっ」

 少年は慌てて後を追おうとしたが、城代に挨拶をしなければと思い直し、館のほうを振り返った。

 ムカワ・フモンはまだ外廊下に立っていた。苔色の長衣の裾が微風に揺れているが、本人はまるで人形のようにぴくりとも動かない。アルハ姫の駆け去った方角を片目だけで眺めやる顔は相変わらずの鉄面皮で、何を思っているものか見当もつかなかった。

 ただ、彼の筋張った左手は懐のあたりに押し当てられて、きれいに整えられた衣服のそこだけに皺が寄っている。手の下にはきっと、あの片眼鏡があるのだろうと、シュロは思った。


- 「姫君と魔法の眼鏡」おわり -

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