第三節

「よく参りました。この地より旅立たれる、勇者の皆々様」

 その日の謁見室には姫君の他、アカネアの騎士が集い、その者達を出迎えた。

 放浪騎士モゼス、魔術師ルイス。騎士ロバートも今は彼らの側に立っている。

「まことであれば、より盛大に送り出したいところにございますが……」

「イザベル様とてお忙しくございましょう。所詮は旅人に過ぎないこの身には、余りある栄誉でございます」

「ルイス。あなたにはお世話になりました。これよりはあなた自身の使命を全うなさるとよいでしょう」

 そう微笑むイザベルに対し、ルイスは深く頭を垂れた。

「姫様……それがしは勝手ながら旅の支度を整えております。お許しあれ」

 ロバートはまず謝罪した。対しイザベルはやや自省的な笑みを見せ、それを許す。

「いいえ。あなたが旅立たれるとミックから聞き及んだときには驚きましたが……。それもわたくしの我侭ゆえでございましょう」

「姫様はアカネアの騎士としての正しき道をお示しくださりました。それがしはその道に従うのみにございます」

「……ロバート。思えば、あなたには幼き頃から苦労をかけ続けてきました。立派になられましたね」

「そのようなお言葉……!」

 その言葉に、ロバートは気が付けば瞳からはらはらと涙を落としていた。

 彼は心のどこかでイザベルに疑いの目を向け続けていた。かつてのイザベルとカロンの地より生還した後のイザベルとは、果たして同じ人と言えるのであろうかと。

 六年もの歳月の記憶を失い、体も幼いままのイザベルは時の流れから切り離されていた。同じ時を歩んでいない者を、記憶の中の存在と同定することには耐え難い違和感があった。

 かつての妹君に似た何者かをエゼルは攫ってきたのではないかと、あるまじき疑念を抱いたことさえあったのだ。

 しかしかつてを知ればこそ、ロバートにはイザベルが記憶の中の存在と同じであることを否定できなかった。彼はそうした惑いの中、今日までイザベルの側に居続けてきたのだ。

 姫君イザベルに最も不信を抱いていたのは他でもない、ロバートである。

 しかし事ここに至り、ロバートは今までの己の考えを捨て去った。

「姫様は変わりませぬ。昔からお優しい。皆、そのようなあなたを慕い付いて来るのでございます。どうか、意気を取り戻されますよう」

 ロバートの言葉にイザベルは目を瞠る。

 そして軽く微笑み、頷いた。

「ええ」

「しからば、それがしは行って参ります。姫様の無念は必ずや晴らしましょう」

「ロバート卿……! 武運を!」

 騎士マーレはロバートの覚悟に感極まって言にしていた。

「姫様のことは私達にお任せを。後のことは何も気に掛けず……。たとえロバート卿が死しても、私はカロンまで骨を拾いに参りますので!」

「滅多なことを仰せられるな」

 ロバートは苦笑する。騎士コナーもまた、マーレの隣で苦い顔をしていた。

 騎士マーレの実力は、家中最強と言っても過言ではない。彼女がいるならば、アカネアは安泰だろうとロバートには思われた。

「不死の軍勢に続き、いつまた新たな災厄がこの地を襲い来るともしれぬ。その際に備え姫様の御側をお守りいたせ、マーレ卿」

「はっ……この一命に代えましても!」

 マーレは意気込んで胸に拳を当てた。

「話は終わったか。そろそろ旅発ちたいものだ」

 モゼスは飽いたように欠伸を掻いた。

「モゼス……あなたにも武運を」

 イザベルはやや、寂しげな目をする。

 モゼスという一人の放浪の騎士がこの地を訪れねば、イザベルはアカネアを守る前から死していただろう。しかしイザベルが彼についてを理解したことは、殆どないに等しかった。

 だが、一つのみ確信していることはある。

「ユリアのことは、ご案じなさらないでください。どうか御身が無事にこの地へ戻られますよう、わたくしは司法神に祈りを捧げましょう」

 イザベルの言は一見して不思議であった。しかしこの場でモゼスのみは、その意を解して頷く。

「達者でおられよ。姫君」



 妖精が棲む地は霧や雨が多くなるといわれる。その伝承は今のアカネアの現状そのものだ。近頃は天候が優れず、モゼス達がアカネアの辺境まで歩む頃には大雨が降り始めていた。

 彼らは崖沿いに洞窟を見出し、火を焚いてそこに野営することとなる。

「僕も妖精であれば、この大雨も気にせずに進んでいけるものを」

 荷物を降ろせば、ルイスはもはやそこから一歩も動けなくなった。

「よくそのような調子で旅をして来れたものだ」

「騎士のお二人に合わせれば当然疲れます。しかしこのまま路傍に置いて行かれては敵いません」

 ルイスの師は一人で旅をして、吸血鬼の封印を成し果せた。己もそうなるだろうと彼は思い込んでいたが、旅は道連れを作るもの。

 三人で焚火を囲みながら、ルイスはこの旅の行く末を案じていた。

「吸血鬼は僕が封印いたします。敵うことならば、余人に命を懸けさせたくはございません」

「魔術師らしい傲慢さだ。吸血鬼は俺の敵でもあるぞ」

「モゼス殿……僕は魔術師として、あなたの眼に敵ったでございましょうか」

 それは過日、馬車での会話を思い返しての言であった。

「常々考えておりました。モゼス殿はなにゆえ吸血鬼を追われるものか。今こそ、それを明かしてはいただけませぬか。そうでなくば」

 ルイスは顔をしかめる。

「因果が巡りまする。僕もイザベル様が発した言の意を半ばまで理解しております。モゼス殿はあのエルフに……ユリアに対し、何か情けを抱いているのではございますまいか」

「ルイス殿、何を仰せか」

 ロバートは当然に疑問を挟んだ。

「こやつはユリア殿と刃を交えた身にござろう。姫様ならばともかく……なにゆえ、情けなど」

「しかし、先日の地下道の崩落の際、彼女を庇い助けたのは他ならぬモゼス殿です。何か深い事情がおありなのではございませぬか。そして、その事情を押して戦わねばならない理由がおありなのか……。それを知らねば、この先の戦いへは進めませぬ。知らぬままに死なれては不幸なことと存じます」

 しばし、沈黙が降りた。

 モゼスは息を吐き、洞窟の外を見やる。

 降りしきる雨の向こうには、昔日の光景が広がっているのやもしれない。

「長く旅を続けてきたが、それ以上の不幸はなかったろうな。娘に殺されかけるなど……」

「……娘?」

「ああ、そうだ。ユリア……あいつは、俺が二つ目の故郷に残してきた実の娘だ」



 俺は、王都に住まう魔術師の息子だった。

 父は魔法研究院という王家直属の秘密組織に属していた。活動の内容は多岐に渡るが、父が特に熱心だったのは不老不死の解明だ。そのためにあちらこちら旅をして、幼い頃の俺もその旅に付き合わされていた。

 そして父は見つけることとなった。古代の魔法王国が支配していたとされる離島の密林、その遺跡に眠るエルフの死体を。

 妖精は死せば灰となるが、安定した状態で形を残すことも稀にあった。しかしその死体はそれとも異なる現象によって保存されていた。棺の中で朽ちることなく、言うなれば仮死状態で眠りに付いていたのだ。

 エルフは伝承上は不老不死の妖精であった。真偽は不明ながら、父はそこに人類の進化の可能性を見ていた。エルフの死体を遺跡から回収した父はそこから新鮮な血液を精製し、妻の胎の中にいた自らの息子に植え付けた。そいつが俺の弟にあたる男……アンドレだ。

 実験の影響か、アンドレは難産であった。母はやつを生んですぐさま死んでしまった。だが俺はそのことで父を恨みはしなかった。母は同意の上で実験を受け容れたのだから。せめて母親の分も弟を可愛がってやらねばと幼心に感じていた。

 しかし、なにぶんアンドレは優秀すぎた。俺とアンドレは共に王宮の騎士になったが、アンドレは次々に武勲を上げ賞賛を受けた。それもエルフの因子を継いだゆえであろう。片や俺は大して剣も強くない落ちこぼれだ。すぐにお役目はなくなり、父の手伝いへ戻った。

 アンドレはその内に地位を築き上げていた。王より領地を戴いてからは滅多に都に顔を見せず、半ば他人のような付き合いとなった。

 その頃になると父は金に悩み出していた。父は奴隷を買って実験を続けていたが、全てアンドレのような因子を発現せぬままに死していった。王室からの支援も止められ、いつしか奴隷を買う金は底を突いていた。

 そのような中で、父の元に公国の使者が訪れた。父は亡命を勧められたのだ。実験の内容を何処から聞きつけたかは知れぬが、活動の全面的な支援を約束された。

 父はそれを承諾した。しかし不幸なことに、公国の不穏な動きを王室は既に掴んでいた。やつらは父の実験を快く思わずとも、古代の遺物が他国に渡ることを恐れたのだろう。エルフの死体も、廃棄される予定であった。

 父は公国に渡る前に暗殺された。暗殺者はアンドレだった。

 やつは俺に言った。俺とエルフの死体を、領地に匿うと。そこで父の跡を継げと。俺は一も二も無く頷いていた。

 俺は小さな研究小屋を与えられた。しかし命を拾っただけで、実験を続ける気にはならなかった。父が死んだのは因果が巡ったのだろうと思えたのだ。

 やがて俺は、エルフの死体を蘇らせようと考え出した。人の都合で墓から掘り起こされ、捨てられそうになったそのエルフを自由にしてやりたかった。それが敵えば対話も可能だ。今では失われし知識も蘇るかもしれぬと。

 魔法研究院に属さない魔術師を研究小屋に集め、俺たちは共にエルフの蘇生方法を模索した。遺跡から死体ごと回収した棺がそのエルフを仮死状態に保っていることは判明している。しかし棺から無理に外に出したとして、エルフは灰に変わるのみだと考えられた。

 俺はふと離島には常には見られぬ大きさのトネリコの木が多く植生していたことを思い出した。エルフはトネリコを薬に用いたやもしれぬと考え、その枝を小屋に持ち寄った。微妙な賭けではあったが思い当たることは全てやろうとしていた。

 するとトネリコの枝を媒介にマナが集積し、エルフの死体に吸収される現象を目撃した。エルフが無意識の内に魔力を発現したのだ。我々は一縷の望みに賭け、トネリコを介してエルフにマナを与え続けることとした。

 その一方で俺は不穏な噂を耳にしていた。アンドレが狂気に陥り、使用人や兵士の血を夜ごとに啜るようになったというのだ……。

 アンドレはエルフとしての側面は持つが、吸血鬼ではなかった。伝承にはどちらの種も不死ではあるがエルフが血を吸うとはついぞ聞かぬこと。エルフが不死であるのは大地と魂を共有しているためと伝わる。他者の血でその魔力を補う必要はないはずであった。

 俺は領主の館に赴くこととした。その噂がでたらめだと確かめるためだった。

 しかし、俺とアンドレは行き違っていた。領主の館に着くとあいつは不在にしていた。ではどこに向かったのかと使用人に聞けば、『あなたに貸した小屋へ』と……。どこか、憔悴した様子で語られた。

 俺は研究小屋へと急いだ。そして、やつを見つけた。

 酷い有り様だった。部下は皆死んでいた。アンドレはそこに立ち尽くしていた。口元は血でべったりと塗れて、力を失くした死体を片手に掴んでいた。瞳は虚ろで、俺にも気が付かず、何も言わずに小屋の奥へと去っていった。

 その先には、エルフの死体を保存している封印棺がある。俺はアンドレを追いかけた。そしてやつが封印を破るところを目撃した。

 やつは、エルフの死体に呼びかけていた。『母上』と。『母上、今、助けます。どうか泣かないでおくれ』と。

 俺の頭はどうにかなりそうだった。しかし必死にやつに呼びかけていた。それは、お前を生んだ母親などではないと……。

 俺の声に気付きアンドレは言った。

『兄上も共に行こう。母上と一つになろう。さすれば私達は許される』

 俺達は過ちを犯していた。あれをエルフの死体だと思い込んでいたのがそもそもの誤りだった。

 吸血鬼は血を介して人間を不死に変える。ならば吸血鬼とて何者かに不死に変えられた種族なのではないか。その仮説上の怪物を『真祖』と呼んだ。

 あれは吸血鬼の真祖だったと思しい。

 その実態を見抜けず我々はアンドレという吸血鬼を生んだ。事実を悟ったときには全て遅く、俺はアンドレから血を送り込まれた。

 そして俺は、記憶を失った。

 そのときの俺は知らぬことだったが……。父は俺に、善後策を講じていた。

 アンドレに発現した因子が現れぬよう俺に呪いをかけ、人のままに留めおくという白魔術であった。

 父は不死薬を作り出し、人間を死と飢えの苦しみから救うことを目的としていた。しかし、果たしてその試みは人の世にまことの救いをもたらすであろうか。不死とは何とて人に破局をもたらさぬものであっただろうか。それはその未来にいたらねば、どのような賢者にも量り知れぬこと。アンドレとて、成功例ではない。不死実験とは遠大な経過を要するものであった。

 ゆえに父はそこに冗長さを与えんとした。人に不死をもたらさんと試みをする一方で同時に不死の発現を喰い止める方策を練り、それを俺に施した。俺はアンドレとは真逆の役割を持つ因子だったと言えよう。不死が世界の秩序に破局をもたらすものと知れれば定命の者が不死を駆逐しなければならなくなる。それが俺の役目だった。

 畢竟、父の試みは道半ばで閉ざされた。

 破局はアンドレにのみ訪れた。父が思い描いた構想よりも、遥かに近い未来に。

 俺は記憶を失ったが、不死にはならず人のままに留まった。それが結果であった。

 父は酷い人間だった。しかし俺は感謝している。他ならず俺を人として生んだことを。俺は凡人であった。その価値を、王都に残された父の手記を読むことでようやく知ったのだ。そしてその価値あるものを弟に与えなかった父を恨みもした……。

 ……話を戻そう。

 俺は自身が何者かもわからぬまま辺境まで歩き続けていた。覚えていることはただ一つ、エルフを救いたかったということのみ……。俺はそのためにこそ生きていた。そのために今も歩き続けているのだと思い込んでいた。

 いつしか力尽き、気が付けば、山奥の村に拾われて介抱を受けていた。

 俺を拾ったのは、エルフの女だった。

 女は己のことを、この世界に生きる最後のエルフだと語った。全てを見通す魔力によりその運命を悟ったのだという。

 エルフの名は、エイルと言った。

 村でエイルを知らぬ者はいなかった。その魔力によって村を助ける、小神のような存在であった。

 なぜ俺を助けたのかと問えば、他ならず、俺がエルフを求めていたからだとエイルは口走った。妙な女だったと、今でも思う。

 俺はその村に留まり、新たな名を名乗って生きることとした。獲物を狩り、なぜか腕に覚えのある剣を若者や子供に教えて暮らす、そのような日々であった。

 その内に俺はエイルから神殿に呼ばれ、子を成すこととなった。己の運命を変えるためだと。その子が、ユリアだった。

 ユリアは祭司達に養育されることとなり、所詮は余所者である俺は滅多に顔を合わせることなどなかった。しかし大切な娘だ。ユリアの居場所たる村を守るために俺は一層心血を注いできた。

 そのような俺の思いに反し、記憶は引いた波が打ち返すように戻ってきた。

 そして、真にやるべきことも見えた。

 アンドレ。やつだけは、俺の手で殺さねばならなかった。

 あの怪物を生み出した父と、それを見過ごした俺の罪を贖うために……。

 俺は己の過去をエイルに語った。そして、問うべきことがあった。吸血鬼とは何であるか。なぜ真祖は、エルフの姿をしていたのか。

 エイルはこう言った。

『吸血鬼とは、不死の民のことか』

 かつて飢えからの解放と不老不死を求め、妖精の住まう森に登った人の一族があった。エルフは彼らに関わろうとはしなかったが、人の一族は森の奥へと進み、不死の力を得て地上へ降っていった。

 不死の力を与えたのは森の中において最も力ある妖精だった。かつて、その存在に身を捧げたエルフの巫女もいたという。

 エイルが語ったのは、それのみであった。

 彼女は俺に魔力を込めた剣を渡してきた。この剣にて己の使命を果たすがいいと。

 ただし、その先には報われぬ結末が待つ。それに耐えられぬなら、この村で愛しい娘のために生きるがいいと、エイルはそう告げた。

 この魔剣は俺の愛しい娘をも斬り付ける、呪いの剣であった。それを手にしたときに、俺の行く末は定まった。

 俺はエイルの元に幼い娘を置いたまま村を出た。長い旅の始まりだった……。



「いささか、長い話になったな。結局、己のことを誰かに語らずにいられなかった。俺も老いたということか……」

 モゼスは酒を一杯呷り、喉を潤した。

 ロバートは険しく眉間に皺を作っている。同じ世を生きていたとは思えぬモゼスの壮絶な人生に、言葉もなくなっていた。

 ルイスも同様だったが、彼にはまだ疑問を投げかける余裕があった。

「ユリアは、人との混血にございましたか。しかし当人にその覚えがあったとは思えませぬが」

「人の父親がいたことをあいつは覚えておらぬだろう。俺のことは何も語らぬよう、頼んでいた……それが娘のためだった」

 それは欺瞞だった。エルフの子である限りユリアは道ならぬ道を歩むことになると、モゼスは予感していた。

「そしてエルフと人の混血は、自らの意思で己の運命を定めるという。定命の人間となるか、不死の妖精となるか。ユリアは、後者を選ぶ他になかっただろう。母親しか知らぬのであれば……」

「まさか……まさか、そのようなことが」

 選ばずしてかの少女は妖精になったというのか。ルイスはその巡り合いを、皮肉に感じざるを得なかった。

「まだあいつには欠片でも人間の名残が残っている。しかし、その一欠片があいつを苦しめたのやもしれない。……俺には、どうしてやることもできなかった」

「今ならば、町に引き返せます」

 その言葉にモゼスは俯かせた顔を上げた。

「僕の親は子供に盗みを働かせておりました。生まれ持った僕の魔力は、そのために用いられ……。寒村の貧しき家に生まれた僕らには、それが当然のことにございました」

 モゼスへの返礼になるか、ルイスは己の過去を明かし出す。

「師匠はその家から僕を攫い、正しき魔力の使い道をお教えくださりました。亡き今も、我が師には深く感謝しております……」

 ルイスはかぶりを振る。

「しかしそうであれ、師を親と思えたことはございませぬ! 親子の縁とは、それほどに切り離し難いものではございませぬか」

「俺は自らの意思でそれを捨てたのだ……。そこに後悔など抱いてはいない」

「正気にございますか」

「むしろ俺は正気に戻った。あり得ぬはずの幸福を得るだけの日々から脱し、本来の己の人生に戻ったのだ。己の罪を贖うための人生に」

 モゼスの言葉は全てが諦観だった。だが、そこに絶望の色は薄い。

「あいつは……年端ははや、十四になるか。父の助けなどもはや要るまい。どのような道筋を辿ったとてそこまで生きたんだ。それが知れただけで、俺には充分だ……」

 ルイスもロバートも、ただ沈黙していた。もはや、否定も肯定もなく、焚火の周囲には空白が横たわった。

「俺は使命のために、迷ってはいられない。吸血鬼を殺す。ただそれのみだ」

 モゼスは何度も確かめてきたことのように言った。

 ルイスは静かに頷く。

 全てを理解したわけではない。それでも、認めるべきことはある。

「……お話ししてくださり、感謝いたします。あなたの覚悟を、せめてこの胸に刻みましょう」

 ルイスが現実を呑み込み、受け容れる中、ロバートは厳しく唇を引き結んでいた。

(それがしには、認められぬ……。報われぬ結末だと。そのようなものは、断じて)



 結界の塔が空高くに聳える山道に、一人の若い娘の姿があった。

 慣れぬ山道に息を切らしながら歩いていたその娘は、大きな崖にかかった長い橋を前に、ひとたび足を休める。

「この橋を渡れば……アカネアに行ける」

 娘はそう呟いた。懐に提げた麻袋の中身を確認し、彼女はにやつく。

「この宝石を売って市民権を得て、良い男を見つけて結婚するんだ……。へへ……」

 熱に浮かされたように笑いながら娘は橋を渡ろうとし、はたと足を止めた。

 橋の中央に不死がたむろしていたからだ。

「あれ……どうして、こんなところに……」

 不死がゆっくりと首を巡らし、娘を見た。

 娘は小さく悲鳴を上げ、背中に手を回す。

(弓矢……弓矢……! 大丈夫、こんなときのために練習してきたんだから……!)

 もたつく内に不死は迫ってくる。

 娘は矢を番えるのを諦め逃げようとした。

 恐怖に足がもつれて転ぶ。その弾みで懐の宝石が橋に散らかった。

「ああ……ああ……!」

 必死になり宝石を掻き集める娘の背後には、既に不死の手が……。

 その間際、刀槍が風を切った。

 即座に二体の不死が灰と化す。

「あ、あなた達は……」

「逃がしたか!」

「追うぞ。ルイスはその娘を見ていろ」

 わけもわからぬ内に騎士達は走り去る。顔すら見られなかった。

 娘が呆けていると一人の少年が進み出て、手を差し伸べてきた。美少年だった。

「立てますか」

「え……」

 娘はぽっと頬を赤くする。

「あ、うん、全然平気だよ。そんなことより、あなたは? お貴族様? さっきのはお付きの人なの?」

 もはや娘は自力で立ち上がってその少年に詰め寄っていた。

 少年は当惑した様子を見せる。

「ええと」

「あっ……ごめんなさい、お礼も言わずに。私はルカと申します。その、お助けくださりまっことにありがとうございます」

 ルカと名乗る娘は地に額が付かんばかりに深々と頭を下げていた。

「僕はルイスと申す者。貴族などではなく、旅の魔術師にございます」

 ルカは顔を上げ、どこか皮肉げに笑った。

「魔術師なんだ。そっかぁ……」

「失望をさせましたか。先程の騎士達も旅の道連れにて。従者ではございません」

「ううん、いいんだ。危ないところを助けてもらったし」

 言葉に反し、ルカの表情には陰があった。

「私、旅なんて続けられるのかな……」

 悩み、手元の宝石を差し出す。

「これ、あなた達にあげる。他にお礼できるものなんてないし……」

「盗んできたものなら、貰えませんよ」

「どうしてわかったの」

 ルカは目を丸くした。

「魔術師だから?」

「僕に心は読めません。しかし盗んだ宝石はどこか輝きがくすんで見えるものです」

「へぇー……」

 罰が悪そうにするルカに、ルイスは問う。

「どなたのものを盗みましたか」

「私のお父様……」

「ならば、返せない相手ではございませぬ」

 そうかなぁ、とルカは不安を零す。

 ルイスは彼女から目を離し、手を振った。橋の向こうにモゼス達の姿が見えたのだ。

「モゼス殿。無事にございますか」

「ああ。伏兵が潜んでおったが、なに、ものの数ではない」

「娘は無事か」

 ロバートが問い、そして謝罪した。

「不死どもは我々を警戒していたのだろう。巻き込んでしまい、申し訳もない」

 生真面目な騎士の謝罪に、ルカは動揺して忙しく首を横に振った。

「いや、よくわかりませんが危険だって知りながら村の外に出たのは私の責任です。私が、悪かったんだ……」

「カロンに村があると申すか」

 聞けばカロンには、吸血鬼と不死を恐れる人々が寄り添い暮らす村があるという。

 ルカはその村長の娘であった。

「村は一基のゴーレムに守られているんだ。だから村の暮らしは平穏だけど……退屈で。この二年、外との交流もないし、変な教えもできて、みんなおかしくなってきているんだよ」

「お主が自分の村をどう思おうと勝手だが、野垂れ死ぬよりはましだ。一つ案内してくれんか。代わりにその村までお主を護衛しよう」

 モゼスの提案にルカは渋々頷いた。

「仕方ないか……」

「しかし、ゴーレムとは」

 ルイスは首を傾げた。

 ゴーレムとは魔術によって動く石の人形。よもやその術者とは。

「そのゴーレムに、名はございますか」

 ルカは答える。

「ガレス」

「ならば、それは僕の師が作ったものです」

 ルイスの言に、ルカは丸く目を見開いた。



 山中の森の木々に隠れるようにその小さな村は存在した。

 その秘境を台無しにするかのように、天に頭を突くほどの巨大なゴーレムが木々の隙間から村を見降ろしていた。凄まじい威圧感を前にしてモゼスは唸りを上げる。

「あれがゴーレムか。お前の師匠が作った」

「これほど巨大なものとは僕も知らず……」

 ルイスは言い訳のように口にしていた。

「村人の生活も落ち着かぬだろう」

 ロバートは呆れたように言うが、これにはルカがかぶりを振って否定した。

「もう慣れたよ。この光景も」

 村の奥を見やれば広場に老いから若きまで人が集い、ゴーレムを崇めるよう両手を振り仰いでいる。

「私もガレスを残してくださった賢者様には感謝しているよ……。でも」

 ルカは旅人達にその胸の内を吐露した。

「村は自分たちの手で守るものだったって、皆が忘れている気がして。男達ですら……。それが嫌だったんだ」

 その言葉にルイスは瞼を伏せる。

 人は魔法に輝かしい希望を見出す。かつての魔術師は神と崇められ、後の世に語り継がれた。

 ルイスは生きていた頃の師を知っている。神などではない。しかしいずれは己の中でも、過去は輝かしい記憶となりゆくのだ。

「それも、仕方なきことでございましょう」

 一行はルカの案内によって歩みを進める。村長の屋敷は村のもっとも奥まった場所にあった。

「あ……お嬢様」

 屋敷に入るより先にルカを見つけたのは、井戸で水を汲んでいた使用人らしき娘だった。彼女は思わず水桶を取り落とし、ルカの元に駆け寄った。

「ああ、ああ、無事でございましたか……。一晩明けても戻らないものだから、もしや、もしやと思っておりました」

「ごめん」

「旦那様も心配なされておりましたよ。もうやめましょう、このようなこと……」

 縋りつく使用人の頬には鞭で打たれた痕が残っていた。ルカは俯く。

「ごめんね、ホリィ」

「私は何も構いませんよ。お嬢様がご無事でアカネアに辿り着けるのか、私はそれのみを気にかけておりました……」

 屋敷に通されると、村長は娘を見てかぶりを振り、「部屋に入っていろ」とルカに言い渡した。モゼスら一行は客間へと通され、深々と礼を言われる。

「娘を連れ戻してくださったこと、まことに感謝する……」

 村長の名はクラウスと言った。若いように見えるが、声の質はかなり老いている。

「少し、暗くなってきたな」

 クラウスは指先から火を発し、蝋燭を灯した。ルイスは微かに目を瞠る。

「……今のは」

「何、つまらない魔法だよ」

 魔術師のその男は、蝋燭の火の様子を見て微かな安堵の表情を浮かべた。

「旦那様……」

 ちょうど使用人のホリィが客間の扉を叩き、夕餉の支度が整ったことを告げた。

 しかし未だ客間にルカの姿は見えない。

「ご息女には用意せぬのか」

 とロバートは問う。

「娘は軟禁させる。心苦しいが、禁を破って村の外に出たことには罰を与えねば」

 クラウスは憮然と答えていた。

 やがてモゼス達には薄い粥が通された。

「私はこの村の長だというのに、あまり歓迎できず申し訳ない」

「構わん。一晩屋根を貸してもらうがな」

 モゼスがそう答えた。

「いいだろう。ただし夜は出歩かないこと。そしてゴーレムには近づかないことだ。村の人間にとって、あれは御神体のようなものなのでな……」

 クラウスは悩み多き瞳をしていた。

「近頃は、不死が活発に動いているようだ。あの賢者の封印をも、吸血鬼は破った……。もはや、人間の力ではどうにもなるまい」

「それは……」

 ルイスは言い淀む。

「少年、君は魔術師だな。どのような目的でこの地に来たのか、私からは聞かないが……よく考えることだ」



 ルイスは与えられた個室で眠りに就いた。旅の疲れは大きかったが、クラウスの言葉が頭から離れずに浅い微睡みが続いていた。

「あれ、寝ちゃったの?」

 ルカの声が聞こえた。

 そんなはずはない、と思いながらルイスは気怠げに身を起こす。

「……なぜ、君がここに」

 当惑を隠せなかった。ルカは薄い夜着の恰好で、なぜかこの個室にいる。

「軟禁されていたはずでは」

「使用人のホリィを通じて、お父様に私の考えを伝えたら許して貰えたの。とても、素敵な考え」

 ルイスには彼女が何を言っているものか、一分とて理解できなかった。

「あなたは私と結婚するの」

「馬鹿な」

「本当だよ」

 ルカは僅かに赤く頬を染めた。

「これは、真剣な話なんだ」

「…………」

「私は魔法が使えない。魔術師の家としてはもう終わりなんだよ。このままだと」

 ルカは目元を抑える。その声は涙ぐんでいた。

「お父様はこんな私を大事にしてくれてる。それがずっと辛かった。私にできることは、これくらいのことしかない」

「ルカ、君は」

「あなたがいればガレスもただの御神体じゃなくなる。みんな、安心するよ」

「それはただの諦めであり、理屈でしょう。君はそれを望んでいるのですか」

 ルカは両手で覆った顔を上げた。そして、少年の姿をその眼に映す。

「……私は、あなたが好き」

 その声にルイスはぞっとした。

「これは運命。だから、今、こうするしかないんだ。あなたを逃すわけにはいかないの。私を受け容れて。ルイス……」

 ひた、ひたと寝台の方へ歩み寄るルカに、ルイスは杖を向けた。

「それ以上、近付いてはなりません」

「怖くないよ、そんなもの」

 ルカは片手で杖を押し退けた。

「あなたはこの村に残るの。永遠にその血を残すの。吸血鬼の元になんか行ってはだめ。あなたはきれいなんだから……」

 寝台に膝を乗せ、真白いその指を伸ばす。

 ルイスはルカの腕を掴んだ。

「近付くなと言っている!」

「私が、私がそんなに嫌なの? こんなに、頑張っているのに……ねえ、どうしてなの」

「僕にも、慕う者がおります……!」

 無理矢理に押し倒そうとするルカの両腕を抑えながらルイスは寝台の上で足掻き続けた。これまでの己の人生を回顧しながら。

「僕は人というものを嫌悪しておりました。人間に味方をするのはこれきり、我が師匠に対する一度切りの義理立てと思い心ならずも旅を続けて参った。いずれは人の身を捨て、妖精になることこそが僕の願いだった!」

「嘘だ、そんなの。あなたは私にも、優しい言葉をかけてくれた」

「嘘ではございませぬ。しかし今の本心にもあらず。僕はこの旅のさなかで出会いました。妖精でありながら人の間に生き、人のように苦しみを抱えていた、一人の少女に……」

 あの夜、師の元に赴くと言いながらどこかへ去り行こうとした少女の孤独な背を、ルイスは目に焼き付けている。

 そして畢竟、ユリアは戻ってきた。彼らの目の前に。人のため、正義のために。

 本心からの行動だったのかはわからぬ。しかし彼は、そう思おうとした。

「僕が何より憧れた妖精という美しき者が、人の世の苦しみを知り、それに抗おうとしていた。ならば僕もそのようにあらねばならない! 僕はこの旅を、途中で投げ出せはしませぬ!」

 ルイスはルカの体を押し返し、寝台の上に倒した。ルカは息を切らして凝視する。

「私だって、頑張っているんだ……。人の世の苦しみ、そんなもの、私にだって」

 ルカは瞼を閉じ、ぐったりと力を失った。呼吸が荒い。その額に手を当てると熱があった。

「いけない。満足な食事も取らずに、このようなことを」

 ルイスは急いで部屋の外に出た。

 廊下にはなぜか使用人がうずくまっている。カンテラの明かりだけを友にしていた彼女はルイスに気が付き、泣きはらした顔を上げた。

「な、なぜ君はここに」

 ルイスが訊くと、ホリィは目元を拭った。

「それは……だって、お嬢様が心配で……」

「ルカは今、熱を出しています。介抱をしてあげてください」

「ほ……本当ですか! お嬢様!」

 ホリィは寝室に飛び込んでいった。

 ルイスは溜め息を吐いて、先程のホリィのように廊下の隅に座り込む。

「……すみません、ルカ。わかっております。君の苦しみも、僕は……」

 そのままルイスは廊下で、静かに寝息を立て始める。一夜の嵐は、このようにして過ぎ去った。



 空は重い鈍色だった。この日モゼス達は、吸血鬼の居城へ向かう。

 村との別れは酷く淡白であった。朝早くにホリィが屋敷の門の鍵を開け、「お気を付けて」と声をかけたのみだった。外に出ていた村人は沈黙しながら、村を去る旅人を見送った。

「貧しい村でした」

 ルイスは言う。

「あのように生きる人々を救うためにも、僕たちは戦わねばならないのでしょう」

「難しく考えることはない。もはや吸血鬼は目と鼻の先。倒せば、それで終いだ」

 モゼスは冷たい空気に白く息を吐いた。

「そいつがアンドレでなかったら、俺はまた旅に出る。その繰り返しだ」

「まことに終わりは来ようか。その旅に」

 問いを投げかけたのはロバートであった。モゼスは肩を竦める。

「俺は吸血鬼という存在のみを頼りに、見当違いの旅を続けてきたのやもしれない。旅先でのしがらみに囚われ、足を止めざるを得ないこともあった。気が付けば既に八年。だが、俺がそうすることで救える者もいた。その過程にも意味は宿ろう」

 彼は遠く、城の影を見据える。

「しかし……そろそろ、終わらせねばな」



 カロンの城下は不死が支配する町だった。人口の一分に過ぎなかった不死によって市民は喰いつくされ、この町は滅び去った。

 吸血鬼が封印され、悪しき思念の影響力が薄れると多くの不死は土へと還っていった。しかし少数は吸血鬼のため血を蓄えた己が肉体を捧げる時を待ち、地上を彷徨い続けた。そうして方々の村を襲い、己の糧へと変えていった。

 そしてついに、彼らの主は甦った。

 その呼び声を聞き届けた不死は城下に集い、巡礼にも似た参列を作り上げている。

 招かれざる客であるモゼス達は悟られぬよう参列の後を追った。

 辿り着いた城門前の広場には数多の不死がひしめき合い、閉ざされた門が開かれる時を待ち望んでいる。

 その異様な様子を物陰から観察しながら、ルイスは囁いた。

「この先に、吸血鬼が。しかし……」

「どうやって城に入るか、だ」

 モゼスは呟いた。

「今まで人の城を奪った吸血鬼など見たことがない。それほどに力を持つ悪鬼ということ。あの夥しい数の眷属もそれを物語っている」

「しかし賢者は城に入れたのであろう。何か抜け道が……」

 ロバートの言にルイスは首を振った。

「師匠は空を飛べましたから、抜け道などは探す必要もなかったでしょう。無念ながら、この中に空を飛べる者はおりません」

 ひと時の沈黙が降りた。

「……門が開くのを待つしかないか」

 大胆な策をモゼスは打ち出す。

「やつらは門が開くのを待っている。そのときを狙い俺が単身でやつらを急襲する。お前達はその隙に城に入れ」

「そのようなことをすれば、あなたが」

 ルイスが案ずるも当然であった。しかし、モゼスは決意を滲ませる。

「俺とて無傷ではいられぬやもしれん。だがすぐに追いつく」

 ルイスはしばし唖然としたが、ロバートはその策に乗った。

「信じるぞ、貴様を」

「ああ。せめて吸血鬼の顔は確かめさせろ」

 その間際に地鳴りが響く。

 門は誰の手にもよらず開き始めた。濃厚な妖気が漏れ、広場を満たしていく。

「時間だ……。始めるぞ。後は振り返るな」

 モゼスは走り出した。

 気配を悟る間もなく背後を斬り裂かれた不死は、呻きを上げてその場に倒れる。

 大勢の不死の群が、一斉にモゼスを振り返った。

 不死は慎重にモゼスの周囲を囲み出す。モゼスは剣を実直に構え、敵の動きに気を張り巡らせた。

 にじり寄った不死を一体、二体斬り伏せる。剣を突き出した姿勢のまま、モゼスは転じて広場の外へと駆け出した。

 その誘いに乗り、不死は彼を追って正門前を離れていく。ロバートはしばしの間、戦の神に向け祈りを捧げた。

「……厳しい戦いとなろう」

 もはや道は開かれた。ロバートは物陰から身を乗り出し、城へと向かう。ルイスも杖を握りしめ、ロバートの背に続いていった。



 城の中は異様な妖気に満たされていた。

 空気には異臭を放つ塵が舞っており、通路の床や壁のそこかしこに腐って融けた肉のような黒い沼が生まれていた。兵士のように通路を徘徊する不死が誤って沼地を踏み、沼の内から這い出た触手に呑み込まれていく。あまりにも異様な城であった。

「それがしにも解せる……。この妖気、肺が苦しいほどだ」

「……まことに、これほどの異界を生み出せる妖精が今のこの世にいるものでございましょうか」

 ルイスにはそれこそが不可解であった。

 妖精は確かに驚異であり続ける。しかし妖精が地上の主であった時代など、とうの昔に過ぎ去っているのだ。人の城を奪い、このような無惨なる姿に変えるほどの力を持つ妖精がいるなど、到底信じ難いことであった。

「見方を変えれば、この大きな妖気の元を辿れば吸血鬼の在り処に辿り着けるということ。進みましょう。我々の敵は、近くにおります」

 進めば進むほど、妖気の圧迫感は大きくなる。常人であれば身動きも取れなくなるであろう。信じ難いことに城の奥へ行くほど徘徊する不死の数も少なくなってくる。代わりに黒い沼が二人の行く手を阻み、ルイスが魔力によってその呪いを浄化しつつ確かなる歩みで奥へと進んだ。

 元は謁見室だったと思しい重厚な扉の前に辿り着くと、膨大なる妖気はその内から漏れ出ていることがわかる。ロバートはその扉に、手をかけた。

 開けば、そこにあったのは巨大な肉の塊であった。

 天井に蠢く謎めいた肉塊は、心臓のように拍動し、そのたびにロバート達の正気を失わせようとする。

 しかし、彼らは屈せずしてその肉塊を見上げた。

「何だ、あれは」

 四肢を持つそれは、巨人であるようにも……。

「あるいは、その角は」

 伝承に語られる、ドラゴンであるようにも見えた。

 二揃いの角は一方が欠けている。しかし、それは違いなく、伝承に語られる悪鬼の象徴であったのだ。

「そなたたちにはわかるまい」

 声が聴こえた。

 玉座に座す者の声だ。彼は杖を片手に、立ち上がった。

「この美しさが。この偉大さが、これこそが、母なる神であるぞ」

「……狂っておる。このようなものを地母神と重ねるなど」

 ロバートはかぶりを振り、かの者を……吸血鬼を睨んだ。

「妖精と人の道理は異なります。まともに相手をしては、此方が狂うのみ」

 ルイスは一歩、前に進み出た。

「ようやく会えたな……吸血鬼よ。我が師を殺した報い、ここで受けてもらおう」

 その杖を掲げると、吸血鬼の背後に巨大な扉が現れた。

 吸血鬼は振り返り、僅かに眼を見開く。

「開け、死者の門!」

 暴風と共に開け放たれた扉の向こうには、果てしのない荒野が広がっていた。蠢く肉塊はその景色に霞み、見えなくなる。

 鐘の音が遠くに響き渡る。

 闇の中の荒野を彷徨う数多の亡者が、吸血鬼を捕らえんとその手を伸ばした。

 閃光が迸る。

 光が治まると、吸血鬼は己を結界に封じ、亡者の手を逃れていた。

 光の矢が放たれ、ロバートは槍で防ぎ出す。

 吸血鬼の魔法は幾度となく放たれた。

 ロバートは大いに槍を振るう。形なき光の矢の嵐を槍一つで受け、弾いていく。

 しかし敵の魔力は無尽蔵である。かような無茶が、何時までも通るはずがない。

「騎士の槍に加護を!」

 ルイスが唱えると、ロバートの槍に魔力が宿り、一振りで矢の悉くを薙ぎ払った。

「これならば!」

 ロバートは床を踏み鳴らし、槍を構える。投擲の構えであった。

 放たれしその槍は吸血鬼の結界を貫く。

 崩れゆく結界。異界の亡者の手は瞬く間に吸血鬼を捕らえ、引きずり込んだ。

 轟音が鳴り響き、門は閉ざされる。

 暴風が治まり、城に静謐が訪れた。

「……終わった、のか」

 ロバートは呆然とした。魔術師の助けなくば、到底敵わぬような敵であった。己が生きていることが不思議ですらある。

 ルイスは門の前に歩み寄る。

「番人となり、門を封じます」

 番人はそこから離れられぬ。門の向こうで怪物が死を受け容れるまでは。ルイスは既に、その覚悟を定めていた。しかし。

 門に触れようとした間際、亀裂が走った。

 ロバートは走り、ルイスを庇う。

 異界の門が砕け、数多の光線が溢れ出る。針の山の如く膨大な光の矢が乱射された後、吸血鬼は門から這い出た。

 騎士達は辛うじてその猛攻を逃れていた。

 ロバートは気絶した魔術師を抱え、後退る。ルイスは死力を尽くし敵の魔法を相殺したのだ。

(感謝いたす、ルイス殿。しかし)

 封印は失敗に終わった。異界の門は瓦解し夢幻へ変わりゆく。

 肉塊はやはりそこに蠢いていた。

 吸血鬼は呻きを上げている。その肉体から灰が流れ落ちた。

「その魔術師の血を寄越せ」

 杖が掲げられ、マナの光がそこに満ちた。

 ロバートは槍を拾う。

「その槍は、もはや魔法を防げまい」

 刃毀れした穂先を向け、ロバートは強いて吸血鬼を睨んだ。

「なぜ抗う」

 ロバートの瞳は揺らがぬ。

「……いや、何を期している」

 果たしてもう一人の騎士は現れる。

 答えはすぐそこにあった。

 吸血鬼はその声を聞いた。

「槍を下げろ」

 懐かしき声だった。

「そやつは俺が殺す」

 傷だらけの騎士の姿を見て、吸血鬼は……アンドレは、雄叫びを上げる。

「──兄上ッ!」

 マナの光が膨張し雷槌となって放たれた。

 モゼスは石の大盾を作り出し、雷を躱す。そして盾で魔法を防ぎながら、仇敵の元へとにじり寄り、近づいてゆく。

 あと三歩。アンドレはついに剣を抜いた。

 打突にモゼスは後退し、大盾が砕け散る。

 モゼスの片手には魔剣があった。

「アンドレ、覚悟ッ!」

 強かに床を蹴り、一心に剣を突き出した。

 アンドレの冷たい瞳が迫る。

 刃が空を切った。対してアンドレの剣は、モゼスの腹を貫いていた。

 モゼスは血を吐いた。

 腕から力を失う。その手は剣を取り落とし、血溜まりへと……。

 ……否。モゼスはしかと剣の柄を握った。

 跳ね上がるように腕が動き、眼前を斬る。

 アンドレの肩を裂き、肩から胸へと緩慢に、しかし確かに刃が通ってゆく。

「な……ぜ……」

「この剣は……使い手と血の繋がった者を、必ず殺す運命にある……呪いのかかった剣だ……」

 モゼスは擦れた声を出した。

「アンドレ。お前を殺すまでこの剣が折れることは、ついぞなかった……!」

 アンドレの肉体が灰に変わりゆく。

 彼は残された力で、モゼスを突き放した。

 天井の肉塊は触手を伸ばし、彼を吊り上げ呑み込んでいく。

 厭わしきその光景を、モゼスは霞む視界で見上げる。羽のように舞う白き灰が涙に濡れる頬に触れ、落ちて行った。

「モゼス、死ぬな!」

 若き騎士の声が聞こえた気がした。だが、それももはや確かではない。

「このような場所でくたばる気か。貴様にはまだ……!」

 竜の肉体が起き上がり、天井が崩落する。視界が瓦礫に埋まっていく。

 モゼスは、つい先日の光景を思い返した。地下道の崩落に巻き込まれた際のこと。

 死に恐れを抱かぬ者はいない。騎士とて、同じである。

 ゆえにモゼスも、死の間際にあって祈っていた。司法神に。戦の神に。地母神に。そして……エイルに。我が娘を、守りたまえと。

 祈りは功を奏しただろうか。暗闇の中、腕の中から伝わってくる熱と息遣いに安堵した。そのことを、よく覚えている。

 ……しかし今、モゼスに祈りはなかった。

 その腕に、既に守るべき者はいないのだから。

(後のことを頼む。ルイス。ロバート)

 それは友に対するささやかな願いだった。

 モゼスはその生涯に、幕を閉じた。

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