間章
無論にして、不死も万能ではない。
重篤な傷から甦った後のユリアは、暫しの眠りに付かねばならなかった。彼女は人質としてマーレの屋敷に預けられている。
マーレにしてみればただの人質ではない。彼女なりの恩を返さねばならぬ。目覚めれば充分なもてなしを供する心積もりであった。
「……いつになれば、目覚めましょうか」
マーレはユリアの灰色の前髪を払い、安らかな寝顔を覗いた。硝子張りの窓からは暖かな夕陽の光が差し込んでいる。
時は既に暮れ合い。昨日の冒険から、日は一巡りしようとしていた。
この時間は、オーデン家の城がアカネアの平野に大きな影を落とす。
赤い陽の光に濡れたその城の中庭に佇み、イザベルは眼下の光景を見据えていた。
アカネア城下の町は三千人程の民が住む。百年前には五千人を越したともいわれるが、飢饉、疫病、戦と人死にの多いこの時代に、流れ来る人足は少なくなる一方。
かつては町に人に溢れ、領主は治安の維持に苦慮したという。町の外に村を作り、流れ者を住まわせたこともあったそうだが、今のアカネアの景色に村は見えない。
遠景には五基の結界の塔が小さく見える。いずれも人を寄せ付けぬ辺境の山や森、あるいは湖中に聳え立っていた。
常であればこの地の空を覆う結界の光は、今は塔の頂から火の粉のように燻ぶるのみ。
この日不死の軍勢は現れなかった。だが、今のアカネアは危うい状況にある。
不死は吸血鬼が血を別った存在であれば、大軍は成し得ない。しかし小勢であろうと、厄介な敵となるには違いなかった。
そして兵が少ないのは此方も同じである。騎士と従兵はその大半が遠征に出払っている。新たに町から兵を募ってはいるが、戦支度が整った者は三十人に足るか否か。
明日にも町が戦場になるかもしれぬと民は知るところとなっている。民兵はこの戦に合力すると市長は約束してくれたが、その助力をあてにしてはいられない。
戦いに参ずる者には敵が不死であることを伝えている。不死であれその力は限りがあり、首を落とせば決して殺せぬ相手ではないとも。しかし実戦でその論理がいかほど通用するか、イザベルには気掛かりであった。
(お兄様……。なぜ、行ってしまわれたの)
イザベルは独り、心の内で弱音を零す。
「供も付けずにどうされた、姫君よ」
と、聞こえたのはモゼスの声であった。
「モゼス……。何用です」
「訓練は仕舞いだ。この地の兵士達は案外、鍛えがいがあるな」
モゼスは随分汗をかいている。イザベルが兵士の訓練を頼んだのだ。
「あなたまで巻き込んでしまい……」
「人手が不足しておるのだろう。兵を率いる覚悟を持つならば、易々と頭は下げぬことだ」
将は采配に自負を持たねばならない。兵が惑うからだ。兵が惑えば、城は落ちる。
イザベルは忘れかけていた兄からの教えを思い返し、心に沁み込ませた。
「……はい。ところで、モゼス」
「なんだ」
イザベルの瞳の色は、やや変わっていた。好奇の色であった。
「重ねてお頼み申し上げます。今朝は林檎がたくさん採れたそうで……」
その夜、マーレの屋敷には来訪者が訪れた。
客間に入った老人は林檎が入った籠を置き、不愛想な顔で言った。
「姫君から見舞いだ」
「まあ。これは造作をおかけいたしました、ヨーゼフ殿」
「モゼスだ」
モゼスは鼻を鳴らす。
見舞いと言ったが、ユリアに対するものだ。人質にする扱いではない。
「……あいつはまだ、眠ってるのか」
「ええ。一向に目覚める気配もなく」
「そいつはよかった。あいつが起きていれば再び刃傷沙汰になっていただろうな」
「それは困ります……」
マーレは言いつつ、ふと笑った。
「しかしそうはならないかと。ユリアさんを庇ったのは他ならずあなたでございますから。彼女が覚えているかは、わかりませぬが」
「勘弁しろ」
モゼスは頭を掻く。
「あいつには俺のことを何も話すなよ。今日、ここに来たこともだ」
「承ります。どうしてもと仰るのであれば」
「どうしてもだ」
「意外に初心でございますね」
「何を言っておる、たわけっ」
くすくすと笑い出したマーレに、モゼスは仕方なしとばかりにかぶりを振った。
「あまり老人をからかうな」
「ごめんなさい。姫様もあなたのそういった気風が気に入っておられるのだと思いますよ」
「変わっておるな。姫君も、お主も」
「まさか、姫様と私を並べるなどと」
マーレは慌てて否定するように手を振った。
「褒めているのではないぞ」
「わかっております。しかし姫は私にとって憧れるべき御方でございますから」
「そうかい」
「戦に出ることは敵わなくとも、姫様と共にこの町をお守りすることもまた大切な役目と私は思っております。ユリアさんも……」
熱っぽく語る口は暫し閉ざされた。
「ユリアさんも、姫を慕っていただけるなら。まこと私は、そのように勝手な思いを抱いてしまうものでございます」
「……ああ。その方がよいのやもしれんな」
「彼女はどうなさるのでしょうか。おそらく彼女が師と呼ぶ御方は、既に……」
また、沈黙が流れる。互いに案ずることは同じであった。
「姫様は寛大な御心によって、自らのお命を狙ったというユリアさんを許しておられます。その深慮は、私などには量り知れませぬが」
マーレは落ち着きなく指で机を叩きながらそう語っていた。
「ユリアさんは、勇敢な騎士かと存じます。人の世には血を分けた肉親が殺し合うこともございますれば、敵味方であれ騎士は互いの勇気を尊ぶものでございましょう」
「……どうだかな」
モゼスは宙を睨んでいた。
その表情があまりに険しいものであったので、マーレは素早く頭を下げた。
「面目ございません、他ならず命を狙われたモゼス殿にこのような話をしてしまい……。しかし同輩に語れるようなことにもあらず、ついこの場で」
「構わんよ。お主には命を助けられた身だ。話を聞くのみならばどうということはない。しかし少々、長居をし過ぎたな」
モゼスは席を立った。
「お主に預けられたものなら思う方へ導け。それこそ姫君の心積もりなのやもしれんぞ」
彼はふと、懐に入れた羊皮紙に気が付く。
「ああ……それと、これもだ」
簡単に折り畳まれた書簡が机に置かれた。マーレは首を傾げる。
「これもイザベルからだ。ユリアに渡してくれと頼まれたが、眠っているのなら仕方なかろう。お主に預けておく」
「大事に預からせていただきます」
「頼む」
そう言い残し、モゼスは屋敷から去った。
マーレは林檎の甘い香りを思い出す。
(さてこの籠は、ユリアさんの部屋に置いて差しあげましょう)
と、籠を持って上階に上がり、部屋の扉を開けたところ。そこにユリアの姿はなかった。
どこにも、なかった。
「あー……」
涼しい夜風が部屋に吹き込む。
マーレは唖然としながら、他人事のように口にする他なかった。
「窓のある部屋に眠らせるべきではなかったのでしょうね……」
ユリアは寝間着のまま、素足のままで夜の丘を歩いた。
その腕には魔の剣を抱いている。
人質であれ騎士から剣を取り上げはしないのだろう。目覚めたとき、まずユリアの目に飛び込んだのがこの剣であった。
帯がないので、使い慣れた小剣は目覚めた部屋に置いてきてある。ただこの魔剣を師に返さねばと、その一心でユリアは動いていた。
「師よ……あなたは、何処に……」
未だ魔力は戻ってきておらぬ。道は暗く、先が見通せない。己の足が今どこに向かっているのかも、まるでわかってはいなかった。
この晩は星も見えず、時の流れも知れぬ。
ただ一つ、星のように小さな光を放つ塔が遠くに見えた。光は確実に近くなっている。あれがこの地の果てかとユリアには思えた。
ふと振り返れば、夜の町に焚かれた篝火が小さく目に映る。
師の背中に付いて歩けば人里から人里へは決して遠い道程ではなかった。
これ程、世界は広かっただろうか。
ユリアは町の篝火を、じっと睨んだ。
(私は、どうすればいい?)
惑うその背に、忍び寄る影があった。
ユリアは振り返った。それは小人の妖精、ゴブリンの群の影であった。
彼らは決して友好的な種族とは言えない。ゴブリンは群で生き、盗賊を働く。闇に光る数多の眼はユリアを獲物として捉えていた。
同じ妖精であれ、働くは生存と闘争の理。ユリアは鞘から剣を引き抜く。
(申し訳ございません、師匠。今ばかり私にこの剣をお貸しください)
魔剣は闇の中にあって尚、異彩を放った。
ユリアは魔剣から力を得たように感じた。妖精の瞳は夜闇を見通し、日中にいるような視界を彼女にもたらしている。
一体のゴブリンが矢を放った。
ユリアの眼はそれを捉え、矢を剣で弾いた。
弓の使い手が居ては分が悪い。そのはずが、逆しまにユリアの心は燃え上がった。
皆殺しにしてくれよう。もはや波立つ心を抑える術をユリアは見失った。
一足で弓使いに迫り、その背に魔剣を深々突き立てる。
粗末な弓を奪い、矢を放てば、小さきものどもの影は容易く消し飛んでいく。
ユリアの口元には笑みが浮かぶ。
生きている、という実感だった。
畢竟、ユリアはそれのみをを求めていた。ユリアには生の感覚が薄い。戦いはその心の空隙を充足させた。
(足りない。不死はどこだ。私を燃やした、あの不死にこそこの剣を……)
だが、果たしてそれのみだっただろうか。それのみが己を満たすのであろうか。
ユリアは魔剣をゴブリンの背から抜いた。
暖かなマナの光が流れ込んでくる。
血塗れの手で剣の柄を握りながら、暫し、ユリアは呆然とした。
(……違う。私はこのようなつもりで、剣を持ち出したわけでは)
風を切った矢の音もその耳に届かず。
この時のユリアは鎖帷子すら具しておらす、素肌の肩に矢は易々と突き刺さった。激しい苦痛と共に、異様な痺れが腕に広がりゆく。
矢尻には毒が塗られていた。
ユリアは急ぎ肩から矢尻を抜いた。だが、痺れは治まらない。次第に悪寒が走り出し、総身から冷たい汗を噴いた。
呼吸の荒さが己でわかる。
魔力が足りておらぬ。視界は再び、夜闇に染まっていく。
そして聞こえたのは、知らぬ男の声だった。
「よく射抜いた」
ゴブリンの群はその男に道を開ける。
ユリアは剣を握り治し、闇の先に立つ男に切っ先を振りかざした。
「威勢がいいな。小娘でも騎士と見える」
「貴様も……騎士か。名を、名乗れ」
「戦場でもあるまいに。我が名はポールだ。騎士と言えど、今は盗賊にやつす身よ」
「我が名は、ユリア。ゴブリンどもの頭領を気取るとは、随分といい身分をしてる……」
「無理をしているな。小娘は眠る頃合いだ」
「舐めるな……!」
駈け出そうとしたユリアの足はもつれて、身を転がせた。その手にあった剣は地を滑り盗賊の足元に吸い寄せられる。
「言っただろうに。試合にもならん。どれ、この剣は値打ち物か」
「やめろ……」
ポールは夜闇の中で煌めく剣の妖しい光に魅入られる。
「なるほど……こいつは売るには勿体ない。ついに魔剣使いを名乗るときが、この俺にも訪れたということ!」
「やめろ!」
「小うるさい小娘め」
ポールは切っ先をユリアの額に近づけた。ひやりとした感触を額に感じつつ、ユリアは静かに瞼を閉じる。
だが、切っ先はすぐに離れた。
「いや、殺すのは勿体ない。若い娘ならば、働きもののゴブリンどもにくれてやらねば」
全身の血が沸き立つようだった。
ユリアは瞼を見開き、指先をもがく。
盗賊の背は遠ざかり、小さくなっていく。
周囲に群がるゴブリンの気配を感じながら、ユリアは地に拳を叩きつけた。
「ぐっ……」
言うことを聞かぬ体に鞭打って、ユリアは跳ね起きた。
そして数歩後退る。目の前には夥しい数のゴブリン。素手で切り抜けねばならぬ。
呼吸を深め、魔力を絞り出す。しかし。
戦意を失っておらぬと見るや、弓矢を具すゴブリンは矢を射かけた。
ユリアはやむなく魔法を断念し、避ける。
そこに短剣を持ったゴブリンが飛びかかり、追い討ちを仕掛けた。
ユリアは腕を犠牲にそれを防ごうとした。
直後、ゴブリンの顔に剣が刺さる。
「ユリアさん!」
騎士マーレの剣であった。更にはユリアの周囲に光の壁が展開し、矢を防ぎ出す。
「今ですッ!」
魔術師ルイスの声に導かれ、ユリアは再び魔法を試みる。
燃え広がる炎は夜の丘を大いに照らした。数体のゴブリンが火に巻きこまれ、塵となる。
恐れをなしてゴブリンの群は逃げ出した。一先ずは、危機を脱したと見える。
(……火を、使ってしまった)
ユリアは浅く息を吐き、そして、倒れた。
(無暗な破壊のために力を使ってはならないと、母さんに教えられていたのに)
後悔をしながら、一歩も動けない己の体を疎んだ。
「ユリア、これを」
ルイスはユリアの口に小瓶を付けた。
そこから垂れ落ちてくる水を飲み干すと、体の痺れは徐々に治まっていく。
「魔力を増す水にございます。生来の魔力に乏しい人間の魔術師が重用する品にて」
それがルイスが持つ最後の一瓶であるとは口にしなかった。
「どうして、ここに」
「町の周辺に張り巡らせた簡易な結界により妖精の出現を感知し、ここに駆け付けました」
「私は彼の話を聞いて、あなたがそこにいるかもしれないと……。当たりでしたね」
マーレはどこか照れ臭そうに言う。
「大事はございませんか」
マーレの問い掛けに、ユリアはただ静かに頷きを返し、立ち上がった。
「……手助けには、感謝する」
ユリアは踵を巡らす。
「でも、もう私には関わるな」
「ユリアさん……。いったい、どこに向かうおつもりで」
「私は、師匠の元に赴く」
小火が燻ぶる丘を立ち去っていく少女は、足取りは確かだが、その背は弱々しい。
ルイスの眼にも、今のユリアは同じように映っている。彼は大声で呼びかけた。
「ユリア! ご覧になれ、遠く弱々しい光を放つあの塔を」
ユリアはひたと立ち止まった。そうして、振り返ることなくただ遠くを見据える。
「あれこそこの地に人の理を敷く結界の礎。しかし今、その魔力は封じられております。この地はいずれ妖精の楽園となりましょう」
ルイスは拳を握りながら語っていた。
「君はそのことを望むやもしれません。しかし僕は、君と相争うことを決して望みませぬ。君はあのゴブリンのような悪鬼にはあらず。そのことをお忘れなきよう……」
ユリアは何も言わない。ただ一度俯いて、歩き去っていった。
「ルイス殿、あなたは」
「マーレ卿……彼女の後を追ってください。僕は町に戻り、結界を維持しなければ」
「……わかりました」
ルイスの考えは誰にも読めぬ。
しかし彼がアカネアの味方であることには違いなかった。マーレはこの魔術師を信頼し、ユリアの後を追いかけ始めた。
長い夜は続いた。
「どうして付いて来るの」
ユリアがそう訊ねたのは、随分歩いてからのことであった。
「私のお役目は、あなたを見張ることです。こうして屋敷の外を出歩かせるのもまことはよからぬことでございますが……」
「そう」
それ以上会話は続かなかった。
ユリアもマーレを追い払おうとはしない。不思議な行脚は夜が更けても続いていく。
マーレはカンテラを持って歩いているが、ユリアはその眼で夜闇を見通して進んでいた。その先に何があるのかは知れぬ。
するとマーレは、いつの間にか足元の草の背が高くなってきていることに気が付いた。土はぬかるんでおり、アカネアの辺境にある湖沼地帯に足を踏み入れたのだと思い至る。
(ああ……ここは)
ここにはかつて村があった。壊れた木柵の壁を越えると、廃墟が見えてくる。
結界の礎たる塔の一基は、この湖沼地帯に築かれていた。
月が、その大きな影を露わにさせる。
塔そのものは人の手になる建築であるが、内部には大いなる魔力を宿らせていた。
塔の壁には剣が突き立ち、巨大な鎖が周囲に張り巡らされている。それこそが呪いであり、塔の力の発散を妨げる枷だった。
ユリアは塔を見上げ、呟く。
「そういうことか」
その言葉の真意は量れない。
「ユリアさん……ここには、何の御用で」
マーレがそう訊ねると、ようやくユリアは彼女を振り返った。
「ゴブリンの妖気を追ってきた。あいつらに盗られた、師匠の剣を返してもらう」
「左様にございましたか……。では」
マーレは腰の剣帯から小剣を抜く。
ユリアは身構えたが、マーレはその小剣を水平に持って差し出した。
「これをお貸しいたします」
「なぜ……」
「素手ではあまりに無謀。私も微力ながら、お力添えいたします」
「……師匠に受けたという恩を返す気なら、それはいらない。あなたはあの姫君の元で、騎士としての役目を果たすべきだ」
「それゆえでございます。あなたが人質に置かれているのは他ならず姫様のご慈悲。私はその御意思を重んじるまで」
「なぜ、イザベルは私を庇う?」
「その御心までは、量れません。いつしかあなた自身が解すべきことにございます」
マーレはそのように話しつつ、己の言葉に訂正を加える。
「恩を返さなければならないのも私の本心。しかし、これ程のことが何になりましょう。あなたの師匠は、このようなことで戻っては来ませぬ。あなたもわかっておられるはず」
「わかっている! だけれど……」
「ならばあなたの心ゆくまでおやりなさい。その先に見えるものもございましょう」
剣の柄がユリアの胸元に押し付けられる。彼女はその剣を受け取り、呟いた。
「師匠と、似たような人は……」
その呟きは小さなものだった。
「存外にいるものだ」
ユリアは己の力の限界を悟り始めている。このような感覚は、久しいものだった。
「ゴブリンの気配はこの先だ。付いてきたいなら、来るといい」
滅びた村跡を抜けた先に広がる湖の畔に、地母神の神殿は建っていた。
百年の昔に作られた村だが、神殿はここに人が移り住む以前から存在した。
それがまことに我々の知る慈悲深き女神の神殿であったのかは、定かではない。結界の塔より真新しく見えるその建築は、かつてのアカネア領主が再建したものだ。
村人達は由来も定かならぬ神殿を地母神に祈りを捧げるための祭儀場とし、ささやかな信仰を持つ共同体として成立した。魔術師が神官を務め、彼らの長として振る舞ったとも。
しかし信仰も空しく、天災によりこの村は滅びる運命を辿った。領主の保護を受け存続した神殿も、ある事件により神官の一族が途絶え廃墟と化した。
そして今、廃墟には妖精どもの影が。
空から月の光が差し、本堂の天井に空いた裂け目から立ち込める。生々しい天災の傷痕。かの者どもはその歴史を知る由もない。
ゴブリンどもは月の下で愉快に踊る。
今宵の稼ぎは剣一本。その価値は知らぬが頭領の機嫌はいい。酒も供され、呑んで騒げれば彼らは満足である。
「……ここは」
ゴブリンの頭領とは、騎士であった。
「ここは、楽園だ」
騎士ポールは杯を片手に呟く。月光を浴び、傍らに置いた魔剣の刃は妖しく煌めいていた。
「言うことをよく聞く手下に、魔剣までもが手に入った。お、俺は無敵だ……」
この地の結界が解けて数月、辺境の廃村に棲み付いた悪鬼は皆、風のように流れてきた放浪騎士ポールの暴力に従うところとなった。
この廃墟の奥には酒の貯蔵があり、近くの森に出向けば獲物にも困らない。数ばかりは多いゴブリンが鍬を握れば畑も広がるだろう。
「クソみてえな戦に出ないでも食っていける。いいじゃあないか、それで……」
ゴブリンどもは彼の言葉は解してはいない。ポールの笑みは孤独であった。
いずれ太陽が昇る。そのときまで、しばし微睡んでいようかと眼を閉じかけた。
警鐘がなったのはその間際だった。
「……敵襲か!」
ポールは剣を手に取って立ち上がり、踊るゴブリンどもを蹴って転がした。
「何をしている、戦え屑ども!」
ゴブリンの群はナイフや弓矢を手に手に、慌ただしく武装して本堂から去った。
「クソッ、近くの町の衛兵に見つかったなら面倒だ」
ポールが発する独り言に返ってきたのは、ゴブリンの断末魔の悲鳴であった。舌打ちし、彼は廃墟の角部屋へと足を向ける。
濃い影が染み付いたようなその部屋には、鎖に縛られた悪鬼がいた。
ゴブリンの群を従えていた、本来の頭領。巨大なる悪鬼、オーガーである。
騎士に頭領の地位を奪われ、罪人のように息を潜めるばかりの日々を送っていた。
ポールは半ば眠りに付いているその怪物に酒を浴びせ、鎖を引きちぎる。
「お前の出番だ」
神殿の中庭に飛び出したマーレは、数多のゴブリンの群を一太刀にて伏した。
月光に閃くその大剣を担ぎ、運よく初撃を逃れたゴブリンどもを見据える。
「悪く思われないよう……。悪鬼とて死後は冥府へと誘われましょう」
間際、重く響く足音が中庭に響いた。
マーレは油断なくその方向に剣を構える。
「妖精には、かように巨大なものもおりますか」
現れたオーガーは月すら掴みそうな巨きな掌を振るい、マーレを捕らえんとした。
大剣を両手に握りながらマーレは軽やかな動きで掌を躱し、隙なく構え直す。
「聖剣よ……我が誓いに応えよ」
その剣は月より尚、光輝いた。
天まで聳え立つ悪鬼の赤き双眸と、騎士の剣の眩い輝きが対峙し……次の間際、悪鬼の肉体は光に裂かれ、胴が二つに割れていた。
オーガーの血の雨が降り注ぎ、ゴブリンの間に恐慌が広がる。
マーレは剣を振り切った姿勢のまま、浅く息を吐いて逃げ惑う悪鬼に瞳を巡らす。
ゴブリンの断末魔が一つ、二つと聞こえる。ポールは焦りを覚えた。
「役立たずどもめ……。だ、だが、俺には魔剣がある。これを持つ限り俺は負けぬ……」
いたいけな少女から奪い取った剣の柄を、ポールはしかと握り締める。
そのとき、天井から土埃が落ちた。
天井に裂けた穴から差す月光に影を作り、降ってきたのは彼の死神であった。
(……馬鹿、な)
冷たい鉄の感触が背を這う。
暗殺者ユリアは裂け目から落下すると共に、盗賊の背に小剣を突き立てていた。
「ああっ……がああああっ!」
ポールは咆哮を上げた。怒りに任せ魔剣を振り回し、周囲の床や柱を滅茶苦茶に破壊していく。
「まだ動けるか!」
振り落とされたユリアは、剣を躱しながら距離を取る。
盗賊の動きは精細を欠いた。隙を見切り、硬い床を蹴って突き出したユリアの小剣は、過たず相手の心臓を射抜く。
「ゆる、ごぼっ、許さんぞ小娘、俺の楽園を……ごぼっ、…………」
剣を抜くと、血がどっと噴き出した。
ポールは仰臥して倒れる。
ユリアは返り血を拭い、盗賊の手にあった剣をおもむろに取り上げた。
「……返してもらう」
師の剣はその手に戻った。
そして彼女は本堂の入り口を振り返る。
(マーレの加勢に向かわなければ……!)
そう思った頃には既に、マーレはその姿を見せていた。
「終わりましたね、ユリアさん」
大剣をひきずる跡におびたたしい量の血。凄絶な戦いぶりを想起させられる。
「全て……倒してしまったの」
「思うよりも数がいて、手を焼きましたが」
その返しにユリアは乾いた笑いを零した。
「……よく、わかった。私は弱い」
神殿に静寂が訪れた。月は相も変わらず、二人の騎士の影を照らし出している。
「私はお役目を果たしたのみ。あなたはその剣を取り戻すという大儀を果たされました」
「物は言いようだ。でも、助けられた」
ユリアが礼を言うと、マーレは瞳を閉じた。
それは、在りし日の光景を思い返すための行為でもあった。
「私の命はユリアさんのお師匠さんにお救いいただきました。私が死の淵から生き返ったのは、それが二度目のことにございます」
「二度目……。では、一度目は」
「私がまだユリアさんほどの年の頃に……。幼き頃、私はまさにこの神殿に仕えし神官の一族の娘子でございました。祖父は隠遁した魔術師であったところ、神殿を守護するため領主様から召喚されたのだと聞き及びます」
マーレの瞳がすう、と開き祭壇を見据える。
「私が物心付いた頃には、村は廃村となっておりました。神官の一族は神殿に納められた財貨を守るために残り続けておりましたが、その日々とて盗賊紛いの騎士の一党に神殿が襲われるまでの、儚いものにございました」
「そのようなことが……」
「一族は皆殺しにされ、私だけが残りました。私だけが、生き残っていたのでございます。それは他ならず、私達が仕えていた地母神の御力をお借りすることによって」
ユリアはにわかに信じられず、目を瞠った。
「あなたは神を見たというの」
「地母神の御霊、その端の端のようなものにございましたが。その御霊が私の内へと宿り、理不尽な力に抗するための力となりました」
「信じられない。神とは人間が過去の王族を語り上げたに過ぎないものだ。エルフとして古くから生きた私の母が、そう言ったんだ。神は、人が見る虚像に過ぎない」
「……それは、確かなことかもしれません。しかしあなたも魔力がおありならば、過去に生きた亡者の魂を感じ取れましょう」
ユリアは肯定も否定もしなかった。
確かにユリアは、人の亡霊を感じ取れる。彼女は様々な土地を歩んだが、地上のどこに行こうと、それは見えるのだ。
ユリアにとってその嘆きは耳障りなだけで理解の対象にはなり得なかった。心を閉ざし、見て見ぬふりをするようなものであった……。
「私にそのような力は、殆どございません。人にとって魔力は代を重ねるごとに失われゆくもののようですから。私に見えぬものが、一族には常に見えておりました」
金の髪が、神殿に吹き込む夜風に流れる。マーレは過去を惜しむようにその眼を細めた。
「しかし私はついにこの眼に神を見ました。私の最期の祈りか、あるいは死にゆく一族の怨嗟の声だったのか……。そのようなものが神の御霊を呼び寄せてしまったのでしょう」
気が狂ったとしか思えぬような話だった。
しかしそれがマーレの、あるいは人というものの総体が見る真実であるのやもしれない。
「私の手には神の御力を宿す剣があり、盗賊騎士は全てその剣にて討ち取っておりました。全て、霧中の夢のような出来事でございます」
騎士マーレは現在の己の姿を示すように、大きく腕を広げる。
「私はこのようにして、騎士となりました。生き残った者には責務がございます。私は、騎士として人を守ることでそれを果たそうといたしました。しかし私には財も家もなく、あるのはこの剣一本。騎士と認められるには無体でございました。いち従者として長らくオーデン家にお仕えしておりましたが……。そのような私を、騎士に推薦してくださった御方がおりました。その方こそ、カロンより帰還なされたばかりの姫様でございました」
「イザベルが……」
「私が騎士として認められているのは姫様のお言葉添えあってのこと。私はそのことを、幸福に思います。神様から戴いたこの力を、アカネアの地に住まう多くの人を守るために振るえるのですから……」
「…………」
ユリアには、神というものがわからない。
ケインズ病院騎士団は辺境の司法神教団を守護するべく組織された。騎士団に所属する騎士は教義に則り、病める者や貧しい者には手を差し伸べた。それが彼らの規範だった。
ユリアはその規範と道徳を学んで育った。そうせねば人の間で生きていけないからだ。それがユリアには、何よりも恐ろしかった。
『我々騎士は元より、人道を外れた存在だ』
師の言葉を思い返す。
『ただ人を殺めるための修練……それは人を魂の次元から変えてしまう。お前には、その違いなど些細なものに見えるのだろうが』
『……師匠は、恐ろしく思わないのですか。人とは異なる存在になるということを……』
『私には正義がある。理性と、信念がある。それが辛うじて、私を人に留めおいている。正義を持たない騎士は堕落するばかりだが、正しき神に従えばそれは正されるのだ』
『では……なぜ、師匠は私に手を差し伸べたものでございましょう。あなたの正義は私の存在を否むべきものではございませんか』
『確かに妖精は、呪いや穢れを運ぶ存在だと言われる。しかしお前がそうとは見えない。我々の正義は妖精にも通じるのやもしれぬと信じたくなった。くだらない賭けだ……』
ダリウスはその賭けに勝てたのだろうか。ユリアは規範に従えど、未だに神なるものが見えずにいるのだ。
「……すごいな、あなたは」
「いいえ。私は、あなたを羨んでおります。ユリアさん。あなたに神が見えないのなら、それはあなたが神に頼まずともよいということ。あなたは強いのです。私よりもずっと。もし、その強さがあの頃の私にもあればと、そう思わずにはおれません」
マーレはかぶりを振った。
「そしてどうか、その力をアカネアのため、姫様のためお役に立てていただきたいと……今の私は、そのように願っております」
「そうか……。あなたはそのように、私を」
ユリアはしばし考え込んだ。
それはあまり長くはかからなかった。
「私もあなた達に多くの借りを作っている。こんな私の力で、それに報いることができるというのなら……私は、そうしたいと思う」
「まことにございますか」
マーレの声は震えた。
「ルイスさんが仰った通り、アカネアの地はかつてない危機に瀕しております。しかし、あなたにとっては、違うのかもしれません。辛い思いも、するかもしれません……」
「……それでも、やるよ。私は」
ユリアの言葉はこれから起こり得る全てを見通しているようですらあった。
マーレはその誓いを、しかと聞き届けた。
妖精は死ぬとき、魂の光に焼かれ灰となる。ゴブリンもオーガーも共に土へと還っていく。
騎士の死体のみがここに残った。
彼は所詮、人間だからだ。
マーレは村外れの塚に騎士の屍を埋めた。甦ることのないよう、せめて祈りを捧げる。
ユリアもマーレの隣に立ち、祈った。
「お優しゅうございますね、ユリアさん」
「私はこの騎士を恨んではいない。まして、死んでしまったものなら」
夜は明け始めていた。東の空には陽が白い柱となって立ち昇っていく。滅びた村にも、その陽光は遍く照らし出そうとしていた。
そしてアカネアの町は、黒煙を噴いた。
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