フランクの穴

市川拓司

「開いた窓は見すごす」

 わたしの大好きな映画の中に出てくる言葉だ。いつも熊の着ぐるみを着ているナスターシャ・キンスキーがすてきだった。わたしには同性愛的な傾向はないけれど、あの映画を観るときは、いつも彼女に目が行ってしまう。同性愛といえば、主人公ジョンの兄、フランクがゲイという設定だった。でも、わたしにはどうにもジョンのほうがゲイに見えて仕方なかった。ロブ・ロウが演じていたんだけれど、わたしは下睫毛が濃い男性には何か特別な先入観を持っているらしい。彼はあまりにも顔が整いすぎて、わたしの趣味にはなり得ない。あの映画で、わたしがナスターシャ・キンスキーの次に好きだったのは、じつは、そのゲイのフランクだった。演じていたポール・マクレーンは、いまではすっかり髪が少なくなってしまった。『ER』で彼を見かけたときには、ほんとに驚いた。「この人が、あのフランクなの?」って。でも、髪の少なくなったポールも、やっぱりわたしの好みだった。リスみたいな目をしていて、普通にしていても悲しげな表情に見える。だいたい自信たっぷりな顔をしている男の人は、わたしは苦手だ。迷いのないひとは過ちを犯しがちだし、その被害に遭うのは、いつだってまわりの臆病な人間なのだから。



 そう、「開いた窓は見すごす」って話だった。あれは、けっきょく、「生き続ける」ってことなんだって、ジョンが弟のエッグに言っていた。なるほど、そういうことだったのね、ってわたしは納得したんだけど、じゃあ、「壁に開いた穴」はどうすればいいのだろう? 「どうすればいいのだろう?」と言いながら、すでにわたしは、その穴に夢中になっている。「見すごす」ことができないでいる。罪悪感はいつも感じている。わたしが女性で彼が男性だってことは、言い訳にはならないだろう。誰だってプライバシーは大事なのだから。でも、好奇心がわたしを突き動かし、あの穴へと向かわせる。どうしても、それを止めることができない。わたしはしないけれど、マスターベーションも、やっぱりこんなもんなんだろうって想像できる。とくに男の子たちは、やるとバカになるだの、猿と同類に退化するだの言われながら、それでも止めることができないでいるらしい。



 隣の住人も毎晩のように猿に退化する。彼はちょっぴりポール・マクレーンに似ている。広い額は、のちに彼の頭髪に訪れるうら悲しい状況を暗示しているし、やけに色素の薄い肌や、小鼻の両脇にある赤いソバカスもよく似ている。目はリスと言うよりはボタンインコを思わせる。齧歯げっし類と言うよりは鳥類。



 その彼が、自分の突起物をはげしくシェイクし始めると、森のチンプに変身していくのだ。一番最後、その――フィナーレというかピリオドというか、その瞬間に彼は天井を見上げ、上唇をめくり上げて小さなうなり声を上げる。喉にたんが絡まったときに、おじさんが出すような音。その姿は、やっぱりドキュメンタリー番組でよく目にするわたしたちの毛深い兄弟によく似ている。上唇の裏側のピンク色に濡れている部分だとか、桜色した健康そうな歯茎だとか、そのあたりが。



 もちろん、初めて見たときは、こんな細かいところまでは観察できなかった。わたしはバージンだし、18になるこのときまで、父親以外の男性の下半身なんて、一度しか見たことがなかったのだから。



 中学二年生のとき、クラブ活動(ブラスバンド部だった)の帰りに、人気のない国立病院の裏手の道を歩いていて露出狂に出くわし、そこで初めてわたしは父親以外の大人の男性のあの器官を見た。一瞬のことだったのに、いまでも鮮明に思い出すことが出来る。それは、魚肉ソーセージにそっくりだった。金属製の輪っかを歯で引っ張って、ビニールだかポリエステルだかのフィルムをがしたあとの、あの力なくうなだれている姿。色もそんな感じだった。自立するだけの力を持たず、それは気落ちした首長竜の頭みたいに、少しうつむき加減で、ゆらゆらと揺れていた。わたしが叫ぶとその首長竜の飼い主は(意外なことに、清潔で誠実そうな三十代の男性だった)、弾かれたように後ずさり、そのままくるりと背を向けて走り去っていった。彼はグレーのスーツに、オフホワイトのステンカラーコートを着ていた。走りながら慌ててジッパーを引き上げて、あのうなだれた頭を挟まないのかしら? ってちょっとだけわたしは考えた。ひどく柔らかそうで、真鍮しんちゅう製のジッパーは、いともあっさりとその表皮を裂いてしまいそうに思えた。



 それが13歳のときだから、以来5年ぶりということになる。わたしがまた魚肉ソーセージというか、首長竜というか、そんな有機的な付属物を目撃することになったのは。

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