7
*
土曜日の朝、ふたりは一緒に家を出た。ドレスとレンタルした充生のタキシードは真帆の父親が車で運んでくれる。妹と母親、それにオーナーもその車で教会に向かう。参列者はそれだけだ。披露宴もなし。式のあと、教会でささやかな茶会が開かれることになっている。真帆にはそれでも充分すぎるほどのプレゼントだった。
電車が走り出すと、すぐに充生がそわそわし始めた。
「大丈夫?」
彼は頷いた。
「うん、興奮しているだけ」
「ならいいけど」
明らかに充生の緊張が高まったのは、いつもの電車から長距離列車に乗り換えたときだった。
「うわ、すごいな」
彼は座席や天井を見上げてはしゃいでいたが、すでに手が冷たくなっていた。真帆は彼の手を握り、強くさすった。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ただ――」
「なに?」
「ちょっと、息苦しいかな」
「窓空ける?」
「うん、ほんの少し」
外気は冷え切っていた。
「真帆ちゃん寒くない?」
「わたしは大丈夫よ」
「うん」
一番の試練が駅間が一三分あるこの区間だった。これを乗り切れば、きっと楽になるはず。
充生は落ち着きの失せた目で外の景色を見ている。真帆はそのあいだもずっと彼の手をさすり続けた。
「ありがとね」と彼女は充生に言った。
「うん?」
「こんなふうにさ、わたしのためにしてくれて」
ぜんぜん、と彼は照れたような顔で言った。
「大したことしてないよ。真帆ちゃんが嬉しければ、ぼくも嬉しいんだ。自分のためだよ」
「そう?」
「うん」
電車は区間の中間点を越えようとしていた。低い山の連なりを背にした田園風景が続く。
「真帆ちゃん、寒くない?」と充生がまた訊ねた。
「平気よ」
本当は寒かった。でも堪えられないほどじゃない。充生は吹き込む風に目を細めている。このままがいいらしい。
「この風景知ってる?」
充生が訊いた。
「なんとなく。最後にあの町に戻ったのは、小学校の五年生ぐらいのときだったから」
じゃあ、と充生が指を折って計算した。
「二十年ぐらいぶり?」
「そうね」
牧師さんがまだ元気なことは充生から知らされていた。今回の段取りを決めるために、彼は何度も教会に電話を入れていた(あの電話嫌いの充生が!)。
「楽しみだわ」
真帆は言った。
冷えたせいか、またお腹が痛くなってきた。ここしばらく遠離っていたのに。
彼女の表情の変化に気付いた充生が立ち上がり、窓を閉めた。
「あ、いいのに」
「うん、もう平気。息苦しさは治った」
嘘ではないらしい。視線が落ち着き、顔色も良くなってきた。
「強くなったね」
「そうかな?」
「うん」
充生が照れ臭そうな笑顔を見せた。
ほどなくして列車が駅に到着した。充生の手を握ってみると、かなり温もりが戻っていた。
「もう大丈夫みたいね」
「うん」
真帆ちゃんは? と充生が訊ね返した。
「お腹痛い?」
ちょっと、と言って真帆は親指と人差し指で小さな隙間をつくった。
「いつものことよ」
充生はそれでも心配げな顔で真帆を見ている。彼女は
やがてドアが閉まり、列車が動き出した。あと二十分ほどで目的の場所に着く。真帆が生まれ育った町。
一緒に千代紙を集めたなみえちゃん、高鬼をして遊んだあきちゃんやひろくん、みんなまだあの町にいるのだろうか。会ってみたい気もするし、なんだか会うのが怖いような気もする。
ずきん、と背中に痛みが走る。身を強ばらす真帆を見て充生が訊いた。
「なに?」
「うん、大丈夫よ」
今度は充生が真帆の冷たくなった手をさする。
「もう少しで着くからね」
充生の言葉に真帆は思わず笑ってしまった。
「逆になっちゃったね」
「そうだね」
痛みは退く気がないらしい。ひとしきり気ままに暴れると、すっと気配を隠すが、またすぐに顔を出す。その間隔が徐々に短くなっているような気がする。陣痛って、こんな感じなのかしら、と真帆は思った。ならば堪えられるはず。女性はみんなこの痛みを乗り越えて子供を残してきたのだから。
列車が鉄橋に差し掛かった。鉄の響きが耳に障る。胸が悪くなるような音。
「真帆ちゃん?」と充生が訊ねた。
答える力がなく、ただ小さく頷く。
「顔色が悪いよ。大丈夫?」
平気、と唇の形だけで言う。でも、平気じゃない。痛みはますます強くなっていく。脈が上がり、息が浅く早くなる。脂汗が額に滲んできた。
充生は片方の手で真帆の冷たくなった指を握り、もう一方の手で彼女の背中をさすった。
鉄橋が過ぎ、それとともに痛みがすっと遠のいた。
「充生」と彼女は言った。
「うん」
「ごめんね」
ん? と充生が真帆の口元に耳を寄せた。
「ごめんね」と彼女は再び言った。
「なんで?」
「駄目かもしれない」
「なにが?」
「うん」
次の波が来たら堪えられないかもしれない。せっかくみんなで用意してくれたプレゼントなのに。よりによって今日というこの日に、こんな大きな痛みが来るなんて――
涙で視界が揺れた。
痛みになる前の小さな違和感が下腹に広がる。
「ごめんなさい――」
それだけ言うと、真帆は身を折り充生の腿に額を押し付けた。彼女はきつく目を閉じ、寄せ来る大波を待ち受けた。
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