ぼくのマホてぃん
市川拓司
第一章 1
馴染んだ光景だ。この五年間、ずっと見続けてきた。あるいは、もっとその前からも。
充生ではなく、彼の父親が彼女のとなりにいた頃から。
*
充生の父親を初めて見かけたとき、彼女はまだ二十四だった。
いまでも、はっきりと憶えてる。とても印象的だったし、おかしくもあった。
駅前のスーパーマーケット、地下の食品売り場に彼はいた。
午後のこれといった特徴のない空白の時間。この頃の彼女は体調を崩し、勤めには出ていなかった。文字通りの家事手伝いで、買い物はリハビリも兼ねた彼女の日課だった。
人気のない食品売り場のお菓子コーナー。
彼は(あとになってから、真帆は彼の名が
年齢は――三十前後。黒く艶のある髪をかなり長めに伸ばしている。幅のない顔で、彼女はすぐにアフガンハウンドを思い浮かべた。円に近い多角形の眼鏡(のちに康生から、それをオクタゴンと呼ぶのだと教わった)を掛け、色の褪せたポロシャツにジーンズといった姿だった。
そろそろ見切りをつける時期に差し掛かっている売れないミュージシャン。真帆は勝手にそう同定した。だいたい、平日の昼日中から、お菓子売り場で熱心に探し物なんて、堅気の人間のすることじゃない。足元は安っぽいサンダルだし、挙動もちょっとどこかおかしい。きっと、あまりひとからは理解されない歌ばかりつくって、自費でプレスした五百枚のCDも、まだそっくり残っているんだ(このときの想像は見事なまでに外れていた。彼にはちゃんとした収入があったし、扶養家族だっていた)。
彼はスナック菓子のパッケージを手にとった。しばらく難しい顔で眺めてから、首を振り棚に戻す。目当ての品ではなかったらしい。彼は棚を見つめながら、小さく前後に身体をゆすっていた。左手を頬に当て、その指を握ったり開いたりしている。
あまりながく眺めていても失礼だと思い、真帆はその場から去ろうとした。
カーゴの向きを変えようとしたとき、タイヤのベアリングが
真帆は一瞬身構えたが、結局彼の口から漏れ出てきたのは言葉ではなく、(おそらく照れ隠しのための)小さな咳払いだった。
彼は両手の指を腿の脇で大きく広げ(まるでペンギンの真似をしているようにも見えた)、懸命に考えていた。この場を取り繕う言葉か、あるいはサインのようなものを探していたのかもしれない(指が鍵盤を叩くように忙しなく動いていた)。けれど、何も思い浮かばなかったようで、数秒ののちに、彼は開いた手をぎゅっと握りしめ、その場から去っていった。
彼が消えてからも、真帆はしばらくまだその空間を見つめていた。それから、こらえ切らなくなって、くすくすと笑い出した。
おかしなひと。
この笑いには、胸に広がる安堵の気持ちも含まれていた。彼女は日常的に接する生き物の中では人間が一番怖いと感じていた。脅威は実際、統計の数字にも表れている。人間を傷付ける動物のナンバーワンは、おそらく人間なはず。
でも、彼は無害そうだ。細いおとがいと、目尻の下がった小動物っぽい眼。男なのに、睫毛が濃かった。もしかしたら、好みのタイプかもしれない。いままで好きになった相手も、似たような風貌の男の子が多かった。すべては片思いで終わってきたけど(何人かの相手は、きっと自分にも好意を持っていてくれたはず。でも、結局それを打ち明けてくれるひとはひとりもいなかった)、最初の直感が外れたことは一度もなかった。
これが、記憶に焼き付けられた最初の出会いで、それからも、何度か同じ場所、同じ熱意で菓子箱をあさる彼の姿を見かけた。
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