エッチ・スイッチ・ワンタッチ
とんそく
エッチ・スイッチ・ワンタッチ 01
べちん。
頬に当たる誰かの手の甲の感触で目が覚める。
誰かとは言ったが、犯人は一人しか考えられない。おもむろに体を捻って隣を見れば、事件は解決。ごおごお、といびきをかいて気持ちよさそうに眠る恋人―
俺はお返しとばかりに、友の頬を軽くつねる。ぷっくりした柔らかい頬。そういえば、友の手はクリームパンみたいにちょっとむちむちしているし、こうして眠っている姿はまるで赤ちゃんみたいだ。まあ、起きている時も子どもっぽいんだけど。
しばらく頬を弄んでいると、友は「うーん」と唸り、ごろんと寝返って俺に背を向けてしまった。名残惜しく思いながらも、友の背中ひとつぶん空いた距離をすぐに詰めて体を寄せる。
背後から友に密着するような体勢で、今度はTシャツの襟ぐりから覗くうなじに鼻先を当てた。
友のうなじは、何というか、俺の中では他に例えようがないくらい「友」っていう感じの匂いがする。
つまり、俺くらい友に近い人間じゃないと、この匂いは分からないのだ。俺はこの匂いが好きだ。友よりも早く目が覚めた時に、こうしてうなじを嗅ぐのが、俺の習慣のひとつだった。
俺は友の首筋にわざとふっ、と息を吹きかける。友は一瞬だけぴくり、と反応したが、またすぐに寝息をたて始めた。こんなに好き勝手されてるのに、まだ起きないなんて。
楽しくなってきた俺は、友のシャツの裾を背中側だけぺろりと捲った。ひと夏の間に少しだけ日焼けした腕や脚とは対照的な白い肌が露になる。俺は腰回りにうっすらついた肉をつまんでみた。
決して太っているというわけではないが、肉がつきやすいのか、友の体はどこをつまんでも、なんかぷにっとしている。ついつい触りたくなってしまうのだが、やりすぎると友が「もっと痩せた方がいい?」と気にする。だから、これも友が寝ている時限定の楽しみなのだ。
ひとしきり友の柔肉を堪能してから、今度は背中を人差し指でなぞる。背骨をたどるようにつうっと指を滑らせていくと、ボクサーパンツのゴムにぶつかった。俺はそのままパンツを少しずらして、中に指を潜り込ませ、背中と尻のちょうど間、割れ目の起点あたりをくすぐってみた。
「ひやあっ!?」
すると、友が体をびくっと弾ませて、飛び起きる。くるりとこちらを振り返った友と、今日初めて目が合った。友が目をぱちぱちさせながら言う。
「……何してんの」
上半身を起こした友が、寝そべったままの俺を見下ろす。寝起きで目が半分しか開いてないのか、俺を睨んでいるつもりなのか、よく分からない表情をしている。俺はそんな友に思わず笑いながら答えた。
「スイッチ探してた」
「スイッチ?」
「そう。スイッチ」
友はきょとん、と首を傾げつつも、しばらく考えてから言った。
「リビングにあるじゃん」
「ゲーム機の方じゃなくて」
俺は首を横に振る。
「友のだよ。友のスイッチ」
「俺の?」
ますます分からない。
そう言いたげに友は首を捻っていたが、戸惑う自分を見てにやにやする俺に気がつくと、「なんだよお」と俺の髪をわしゃわしゃと撫でて乱した。俺はそれが何だか気持ちよくて、暫し、友の手のひらにされるがままになっておく。
ていうかさ、と手を止めて友が言った。
「ひぃ、起きないの?」
「うーん」
俺は腕を伸ばし、友の左手首を掴んで言った。
「やだ。起きない」
「……ひぃ」
友が俺の上に覆いかぶさってきた。
「本気で言ってる?」
友に押し倒されているような格好になる俺。胸の高鳴りは隠しつつ、俺は友の腰に両手を回すと、耳元で囁いた。
「だって休みだし……いいじゃん。友も、起きるのやめちゃえば」
「ひぃ……」
友の顔が近づく。鼻先と鼻先がくっついた。友の前髪が額に触れる。俺は唇を薄く開いて、期待した。
やった。
目を閉じて友を受け入れようとしたその瞬間。
「っつう……?!」
こつん、と額に額をぶつけられた。
痛みのあまり呻きながら目を開けると、そこには満面の笑みを浮かべる友がいて。状況がうまく飲み込めていない俺に友が言った。
「はい。ひぃのルール違反!デートの日に二度寝しようとしたので、来週のトイレ掃除当番俺とチェンジだから!」
友は俺の上から退くと、ぴょん、とベッドを飛び降りて、鼻歌まじりに寝室を出て行った。ぺたぺた、という足音が遠ざかっていく。
一人ベッドの上に取り残された俺は呆然とした。
友の石頭。
強くぶつけたつもりはないのだろうが、額がまだじんじんとしている。痛みと期待を裏切られたショック、持て余したムラムラ感。やり場のないそれらを込めて、俺は心の中で叫んだ。
ヤれよ!
◇
「ひぃー、タオルって持ってった方がいい?」
振り返ると、洗面所からひょっこり顔を出した友が紺色のバスタオルを手にしている。俺は皿を洗う手を止め、数秒考えてから「向こうで貸してくれると思うからいらないよ」と答えた。
「了解ー!」
そう言って洗面所に引っ込んだかと思えば、今度は「パンツ忘れた!」と寝室に駆けていく。忙しなく「デート」の準備に勤しむ友に、俺はつい頬が緩むのを感じた。
可愛い。
俺―
友とは高校生の時からの仲で、出会って十年、付き合ってからは七年経つ。だが、同棲を始めたのは今から一年程前で、最近になってようやく友との生活にも慣れてきたところだ。
同棲を始めるにあたり、友と俺の間にはいくつかルールを設けた。そのうちのひとつが「やむを得ない事情を除き、一度決めたデートの日程を延ばすこと、及びそれに値する行為の禁止」だ。破ったら、翌週のトイレ掃除当番交代。
これは、同棲を始めてからというもの、出かける予定を立てても、当日になると「また今度でよくない?」と延ばしがちになることに危機感を覚えた友が決めたルールだ。
確かに、友と家でだらだら過ごすのも悪くないけど、一度決めた予定を何度も延ばすのは人としてダメになる気がする。
一度は俺も納得したため、このルールが施行されたわけだが、今朝はまんまと友にハメられてしまった。いや、ある意味、ハメられそこなったとも言えるのだが。
俺としては、こんなルールも罰も本当はどうでもいいのだ。トイレ掃除なんて、一生俺のターンでもいいから、もうちょっと友とだらだらいちゃいちゃしたいのだ。
それなのに。あそこまでしたのに。友は一線を越えてこなかった。
俺と友は七年も付き合ってるカップルだ。頻度は多くないが、やることはやってるし、毎回盛り上がっている―はずだ。少なからず、友だって俺としたいと思ってるはずなのだ。……いや、どっちかというと、いつも俺が誘ってる気がするけど。
考えれば考える程、自信がなくなる。ああ、一体、友の『やる気スイッチ』はどこにあるのか。
「ひぃー!靴下って洗ったやつどこにある?」
「知らないよ!」
「えっ?」
振り向くと、いつのまにかそこに立っていた友が目を丸くしていた。やば。余計なことを考えていたせいで、思わず声を荒げてしまった。俺はものすごく穏やかな表情と声で「ソファのあたりに畳んであるよ」と言って、洗い物に戻る。友が首を傾げながらリビングに行った。ごめん、友。
準備を友に任せたので、俺は朝食の片付け担当だ。カップについた洗剤の泡を水で洗い流していると、ついそのデザインが目に入る。
ゆるいタッチの熊のイラストが描かれた赤いメラミンカップ。これは友が同棲を始めてからずっと使っているカップだ。ちなみに俺とお揃い―ではない。
似たデザインだと友は頻繁に取り違えるし、陶器だとうっかり割ってしまう。デザインにもそれほどこだわりがないと言う友は、同棲を始める時に、百均で適当に自分の分だけカップを選んで買ってきた。
同棲といえば「恋人とお揃いマグカップ」なイメージがあった俺は、早速カルチャーショックを受けた。しかし、まあ、趣味も生活リズムも違う二人が一緒に暮らすのだ。揃える必要がないことまで無理に揃えることもないか、と、当時の俺は自分に言い聞かせた。
本当はちょっとだけ残念だったけど。
一旦、水を止め、軽く水気を切ってから、友のカップを洗いかごに置く。すると、リビングの方から友の歌う声が聴こえてきた。
「ぶるんぶるんぶるん~はるちるがるとるぶる~♪」
「いや、懐かしいな」
「なー?小学生の時、めっちゃ歌ってたよな」
「今でも歌ってるの友くらいだよ」
キッチン越しに友とげらげら笑い合う。
くだらない。本当にくだらなくて―さっきまで考えていたことも、結局、「まあいっか」と思えてしまう。
だって、どんな理想よりも、今この瞬間の方がずっと良いから。
◇
洗い物を終え、リビングに行くと、友がソファで横になってテレビを見ていた。休日の朝にやっている情報番組だ。天気予報は今年何度目か分からない「この夏一番の猛暑日」を伝えている。
ふと、壁にかかったカレンダーを見た。八月。二週目の月曜日から三週目の日曜日にかけて赤と青の線がそれぞれまっすぐ伸びている。赤い線が友で、青が俺。これは俺達二人の夏休みの期間を表していた。今日は三週目の日曜日。つまり今日が二人で過ごす夏休み最後の日なのだ。
「わっ、何だよ。ひぃ」
暢気に寝転んでいる友の上に思いきり体重をかけてのしかかる。友はうざそうに身を捩ったが気にしない。
むしろ、もっとぴったりくっつくように、友を背中から抱きしめて、髪に顔をうずめる。起きたての時とは違う、整髪剤の香りがした。一分くらいはそのままでいさせてくれたが、さすがにしびれを切らした友が言った。
「……ひぃ、行かないの?」
「行く」
俺は諦めて友の上から退いた。友も体を起こし、二人並んでソファに座り直す。俺は友に聞いた。
「友はもう準備できてる?」
「うん。できてるよ、ほら」
友がソファの足元からトートバッグを二つ、持ち上げて見せる。着替えのシャツや下着なんかが、ぱんぱんに詰められたトートバッグ。
二人分用意されているが、たぶん、どちらにも俺のものと友のものがごちゃごちゃに入ってるに違いない。友は荷造りが苦手なのだ。
それなのに友の顔は自信に満ちていたので、思わず吹き出してしまう。友は唇を尖らせて言った。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
俺はトートバッグの大きな丸い膨らみを撫でて言った。
「友のお腹みたい」
「えー、こんなに出てないですう」
「どうかなあ」
「嘘じゃないし。ほら!」
そう言うと友は両腕で俺の頭を抱え、自分のお腹のあたりにぎゅっと押し付けた。俺は腕をじたばたさせながら「離せって!」と言って笑う。
しばらくそうやってじゃれていたが、ふと友と目が合った。示し合わせたようにお互い、ぱちぱちと瞬きする。
「……」
友がもぞもぞと姿勢を正し、おもむろに俺の両肩に手を置いた。さっきまで騒いでいたのが嘘みたいに口をつぐむ友の視線の先が、俺の口元だと気づく。
俺は友に応えるように、ゆっくり目を閉じた。友の顔がじりじりと近づいてくる気配がして、かすかな緊張で胸の奥がきゅっとする。だが、唇が触れるまであと数センチ、というその瞬間。俺の耳元で、悪魔が囁く。
さっきの仕返し、しちゃえ。
俺はぱっと目を開け、すんでのところで、友の頬を両手で抑える。それから、少しだけ伸びをして、友の額にキスした。
唇を離すと、友がぽかんと口を開けている。俺はその頭をわしゃわしゃと撫で、ソファから立ち上がり、友の方を振り返って言った。
「ルール違反だよ、友。そろそろ出かけなきゃ」
トートバッグの片方を拾い、逃げるように玄関に向かう。我に返った友がすぐに「待ってよひぃ!」と追いかけてきた。俺はまた笑った。
今になってスイッチが入ったって遅いんだから、友。夏休みの終わりは待ってくれないのだ。
さあ、出かけよう。
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