第44話 夜行

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 サマーコンサートまでの時間は少ない。

 団員も、当日の急な体調不良でもない限りはこの配置で動くことはない。わたしはオーボエのファースト奏者であり、唯一のオーボエ吹きであった。オーボエのセカンドがいないのはたしかに痛い。平松も吉川も吹けないことはないようだったが、かれらがそれぞれの楽器から抜けられないポジションであった。わたしはなんとしてでも吹かねばならない。ファースト譜を吹きながら、その休みの間もセカンド譜を拾って演奏していた。実質、休みはない。ブレスコントロール、夏場の体力的問題などで練習はかなりハードだ。しかし自分が必要とされていることをひさびさに嬉しく思い、なんの糧となるかはわからないがこのオーケストラに身を置くことは幸せでもあった。

 ここ一、二週間は吉川も指揮台を降り、かれの隣でバスーンを構えていた(タクトは顧問が握っていた)。吉川のバスーンは練習量を考えたらうまい方だったし、クラリネットのファーストである鈴谷、もともとハイレベルなフルート、金管楽器群などもよく練習しているのが見て取れた。わたしたちのシングル・ダブルリード、そして懸案の弦楽器群もブラッシュアップされ、おおよそ完成形に近いといえた。


 夜の練習にも熱が入り、終わるのは顧問裁量で二十一時を過ぎる。練習がすむと、電車やバスに乗り遅れてはいけない団員を除いて、みな片づけをし、それが終わると散り散りに家路を急いだり、なおもパートに分かれて練習をしたりしていた。

 シングル・ダブルリードパートはこの日も入念に合わせていた。吉川もただでさえ学生指揮者であるのだ。練習時間も取れず、また医学科に籍を置くので多忙を極める。ミスのたびに舌打ちをして小首をかしげる。イメージ通りに吹けず、焦っているのだろう。平松や鈴谷、瀬戸はそれを見てもなにもいわず、練習を続ける。

「そこのC、入ってからすぐティンパニが『ダダンッ』っていった後の『タルルーンー』ってとこ。『タルルーンー』って。そこ『タルルーンァーア』って広がって。フルートいないからクラとオーボエがメインかな。ピッチ気をつけて広がって」疲れを見せてきた吉川がニュアンスの指示を加える。

 わたしもファーストの譜面のみならずセカンドの譜面も拾って吹いているので、そろそろしゃがみ込みそうだと感じていたところだった。必死に食らいついていると自分でも納得できそうなフレーズが吹けた。

「そう、それ。『タルルーンァーア』。いいね。音場の広がりね。遠達性あるやつで。ダイナミクスだけじゃなくてね。いいよ聖子、あたしよりうまいよ」

「ヨッシー」

「なんだ、高志」

「そろそろじゃない?」

「あ、もう? こっちはまだまだできてないのに――まあいいか、みんなお疲れ。ダッシュで帰ろう」

「お疲れさまでした」とパートが唱和する。


 鈴谷や瀬戸の帰ったあと、三人でステージのへりに腰かけていた。おおかたの学生は帰宅すれば、おおむねひとりの生活に戻るのだ(それが嫌なのだろう、練習が終わったあとも大講堂で課題をこなす者もいる)。今は広い大講堂に三人だけ。

「なあ」と吉川は楽器庫の鍵束をしゃらしゃらともてあそびながら訊いた。「もうエッチしたん?」

 夏季休業中の大講堂で鍵束の金属音が響く。間を置いてから平松は「それ、セクハラ?」と訊き返す。

「あほ。違うわ。月下老人としてな、気になるお二人のお世話でもしようかと思ったんだよ。ねえ、ショウちゃん? もうしたの?」と、わたしの膝頭をさらさらとくすぐる。わたしは吉川の手を払いながら咳払いし、帰るタイミングをうかがう(とはいえここにいるのは三人だけという事実が厳然としてあった)。

「そっか、すまん。悪いこと訊いたな。でもいざというときにはゴムくらいしろよ。うちにいっぱいあるから分けてもいいんだぞ、若人」

 横目で吉川の横顔を見る。伏せられた長いまつ毛は細かく動き、床に視線を落としている。「お下がりかよ」と茶々を入れるかれも言葉尻が弱々しく、いい終わらないうちにやはりうつむく。

 吉川にも諦めきれない気持ちもあったのだと、おそらくだが三人ともこの時初めて知った。吉川のというべきか平松のというべきか、だれのものでもなく、だれのためでもない避妊具。もはや不用品として、吉川の部屋に残っているのだ。そうした痕跡もかの女にしてみれば辛く感じるのかもしれない。だからというわけでもない。純粋にわたしたちを案じてのことだろう。かの女にしてみれば、その避妊具はわたしたちのものだという認識なのだ。お下がりではなく、古いカップルから新しいカップルへの譲渡。かの女に必要のないばかりか、あまり見たくもない避妊具を(動機はどうあれ)、わたしたちへの気配りという形で昇華させようとしていたのだと推測した。大人びた風体でいるものの、まだ若い学生だ。

 わたしと平松はただ浮かれ、吉川の寛大さに甘えていたと思うと胃がきゅっと締まる。常識がないのはわたしの方じゃないか。

「ショウちゃん?」吉川は鍵束を鳴らすのをやめ、わたしの肩に手を置く。

「おい、どうした? ていうか、なんで?」やや動揺した声で平松も尋ねた。目元を拭い、「なんか、わたしって、駄目だなって思って(吉川がハンカチを差し出す。わたしはそれを受け取って目頭にあてがう)。高校の頃や、入学してから今まで、そうだった。ずっと勉強だけして、成績が取れればそれでよかった。わたし、恋愛したことないんです、一度も。それで、平松と会って浮かれてた。ヨッシーの気持ちも考えずに」

 エアコンの切られた大講堂は静かで、わたしが小さく洟をすすり上げた音だけが聞こえた。吉川がひとこと、「ばーか」といった。


 警備員がいつの間にか階段状の教室の上の席に掛けており、「青春してるのかなんか知らんけど、あんたら早く帰った方がいいぞ。おじさんにも帰る家があるんだからな」と催促した。わたしたちは黙って荷物を持って、平松が吉川に渡された鍵束を持って階段を駆け上がる。わたしと吉川はとくになにを話すでもなく、駐輪場へ向かい、その間に平松は歩いて帰っていった。駐輪場の放置自転車(と見なされるが、その多くは二つのキャンパスの行き来や、近くのコンビニなどに行くためだけの現地用だ)の中にある吉川のスクーターにわたしは自動的に歩いてゆく。ヘルメットをかぶり、先に吉川が乗る。セルを回しエンジンをかけ、またがったまま九十度曲がるようバックする。わたしはリアシートをまたげるほど足が長くないので、吉川にいったん降りてもらい、わたしが後ろに乗ったのちに吉川がシートにまたがる。吉川がスロットルをゆっくり開ける。夜風に沈黙と女二人を乗せ、白いホンダのPCXはキャンパスを後にした。

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