第35話 救命

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 医学科三年の吉川とは、同じ講義を取ることはまずない。LINEはあれから返事もない。会うのに気後れしているわけではないが、積極的に会いたい気分でもなかった。吉川や平松、また鈴谷や瀬戸、田中や木村など、ほかの団員はこのあたりにはいない。少し安堵しながら講義開始までをベンチで待つ。ちょっとおめかしをしただけなのに妙な自意識が芽生え、リップが落ちないようマスクを着けてこなかったが、失敗だった。――わたしの基準では煙草は完全悪である。増税よりなにより、さっさと違法化するべきだ――と、日当たり抜群のベンチで燻製になりながら、なんでもいいから早く講義室に入りたい、そして純粋な努力をもって周囲と(そして己と)競わせてほしい、と願う。

 前の講義が終わり、涼を求めて室内へ人が流れこむ。

 つい昨日のことなのだ。しかし、生まれて初めて好意を告げられ、こんなにもむかついた気持ちになるとは知らなかった。平松の金髪頭は教壇向かって後方右寄りにあった。国の最高学府にまでロマンスを持ち込むなど噴飯ものだ。前から二列目、やや左寄りの席に座る。テキストと参考図書、ノート、ペンケースを整除よく並べて統計学の准教授を待つ。相変わらずの大人数だ。平松も単位が取りやすく比較的面白いこの講義は、やはり履修登録を外してはいなかった。かれは机に突っ伏して寝ている。


 この准教授は学生から人気があり、統計学に関連した講義の中ではもっとも面白いとされていた。板書はほとんどせず、時には九〇分の間ずっと口頭のみのときもある。そうなると学生もおのずと聞き漏らさないよう、集中が高まる。中学高校と板書をノートに書き写すだけで勉強した気になった学生にとっては、この准教授はイレギュラーであった。黒板になにも書かなければ、学生は急いで頭の中で内容を整理してノートを取るか、あるいは速記者のような殴り書きとなる。そのうち学生自身でも読めない字もあるので、必然的に記憶の新しいうちに講義内容をまとめたノートをもう一冊、作成することとなるのだ。そういった効果が狙われたものであったかどうかは別として、この准教授の講義で単位を落とす者は少ない。学生も緊迫感をもって講義に臨むからだ。

 始業の時刻となり、准教授が口を開く。

「日本の最新の総人口の男女比では女性が多い。女性の方が長生きするからだよね、高校で習ったよね? でもね、出生時の男女比はほぼ半々なんだよね。疑問に思わない? 遺伝子もね、長生きする女性の方をいくらか多く産んだ方がいいと思わない? だって女性は生殖に四十二週もかかるんだよ? 男性は三分間でできちゃうのにねえ」

 学生たちはこの話し口が好きで、笑いの絶えない講義だ。

「よし、ではここで女子の方はちょっと周りを見てください。今まさに笑ってる男子を将来、夫にするのはやめた方がいい。なぜならその男子、子育てには三分間しか参加しないからねえ。わたしは笑えないと思うけどねえ」

 多少下品なおじいちゃん先生だったが、理系はさることながら、文系の学部からも人気があったし、そもそもかれらにとって必修科目であった。およそ学問の上で統計を用いるべき学生はすべて、この准教授から教わり、そして魅了された。単位取得上の必要もないのに、面白いからという理由だけで、半ばこの准教授を追いかけるかのようにして履修登録をしている学生も多い。そのため前期の履修登録の際、必修の者が優先となり、一般教養科目としての履修や、ときには選択必修の者までが後期まで待機せざるを得なかったこともあったそうだ(と、吉川に聞いた)。よって昨年、この統計学の講義はより大きい講義室をあてがわれたというわけだ。


 察するに平松はどういう顔をしたらよいのかわからないか、もしくはわたしを気遣って寝ているのか、そのどちらかだろう。なにも気に病むほどのことではないのに。このあとわたしが「ノー」と断ずればたちまち片が付く。なぜ化粧なんかしたんだろうか。ふと自問する。いいのだ、だれのためでもない。自分のための化粧なのだから。

「ざっとこのように一人っ子政策による産み分けの影響で、現代中国では独身男性の比率が――」

 自らのうぶな反応を思い出し、図らずもノートの字が荒くなる。普段から意図してクールに振る舞っているつもりでもないが、あのような自分はやはり嫌だ。早く処理し、忘れろ。勉強に打ち込むんだ。オーケストラも退団する。元より、平松がいなければ入団さえしていなかったのだから。


 あっという間に減数分裂からセクシャルマイノリティの現在までを説いた九〇分が終わり、出席票が前に送られる。准教授は教壇から下りながら胸をかき抱くようにしながら膝をつき、横にずるずると倒れこむ(頭が教卓にぶつかり、大きな音がする)。ひっ、という女子学生の短い悲鳴が上がり、一、二秒の全き空白の時間があった。しかしそのすぐあと、学生はざわめきだす。だん、だん、とドラムのような大きな音がした。振り返ると男子学生がひとり、わたしの右後ろから階段型教室を駆け下りていた。その男子学生は教壇に上って倒れる准教授を抱きかかえたまま、ゆっくり頭を床に下す。同時にじゃまになる教卓を足でよそへ移動させようと試みるが、教卓は大きな音を立てて教壇の下へ落ちた。電源が入ってしまったのか、教卓のテーブルマイクがスピーカーに正対し、すさまじいハウリングを発す。学生は一気に騒ぎ立てた。

「い、医学科か看護学科は先生、あの、ドクター連れてきて! 理学部は三-C――じゃない、三-B棟からAED持ってきて。あと、一番前の左端の女子ふたり、あんただよ、一一九番! ぜんぶ三分以内で!」

 指示を飛ばしながらその学生――平松は准教授に大声で大丈夫かなどと大声で呼びかけ(だれの目にも准教授に意識はがないのは明らかだった)、そののち教壇に完全に水平を保ち仰向けに寝かせ、ネクタイやベルトを取りにかかっていた。

「だれでもいいから、蘇生術習ったやつ、男子ふたり! 頼むから早く来て! 女子でもいい!」わたしは鼓動が激しく高鳴り、吐き気にも似た胸苦しさを感じていた。

 平松は這いつくばって准教授(もはや顔面蒼白なのはわたしの席からも見て取れた)の胸を見て、そして胸に右手を置く。准教授はひっ、ひっ、としゃくりあげるような声と顎の動きをしているのが見えた。平松は胸骨圧迫に取り掛かった。ただ呆然とする学生が大半で、平松の胸骨圧迫を後ろの方でスマホのカメラに収める者もいた。

 男子学生と女子学生がひとりずつ階段を駆け下り(これも見事としかいえない早さだった)、三人は交替しながら無言で早いテンポの胸骨圧迫していた。平松はもう一人の男子学生が胸骨圧迫を施している間に、准教授の腕時計や指輪を外す。両隣の講義室から講師がのぞきに来て、ふたりともあたふたとどこかに電話をかけた。

 なにがどうなっているのかわからない者、「人工呼吸しないのかな」と座ったままざわめく者、あるいは過呼吸になって紙袋を吸う者、外から遠巻きに見る隣の講義室の者、平松にいわれた通り、もしくは自分の意思に従い外へ走ってゆく者、後ろの高い席でなおも動画を撮影する者など、様々だった。最前列左端のひとりはスマホの緊急電話の掛け方がわからず、もうひとりが代わりに一一九番通報していた。時間を見ると准教授が倒れてからたった二、三分のことだった。

 医学科の女の子が医師ふたりを連れてくるまでにAEDは届いたし(近くで見つかったのだろう、AEDを取り外した壁面ユニットからのけたたましいサイレンも聞こえた)、救急車の音もだんだん近づいてきたし、三人交替での胸骨圧迫は分速一二〇回以上を維持し、かつ一瞬たりとて休まなかった。

 AEDを取ってきた学生は半ば這うようにしてユニットを渡し、その場でへたりこんだ。平松と一緒に胸骨圧迫をしていた学生の女子の方は、震えながら准教授のワイシャツのボタンをひとつずつ外してはだく(最近の質の良い縫製のボタンは、フィクションのように力ずくであっても吹き飛ぶことはない)。だが肌着が邪魔をしたので、結局は上衣全体を上にずり上げることになった。平松が胸骨圧迫をする合間に、別な男子学生がAEDのアナウンス通りに電極パットを貼った。心電図を読み取るので離れろとAEDはたびたびいい、そのうち何度かはテレビで見るような除細動が動作した(准教授の体が跳ね、後頭部が鈍い音を立てて床に当たる)。AEDが叫ぶ間を見計らって三人は胸骨圧迫を続ける。

 エアコンが効いているとはいえ、真夏である。扉を開けており、熱気が流れこんでいる。ただでさえ一分間に一二〇回以上も、人の胸を五センチも沈ませるような力で圧迫しているのだ。平松も、ほかのふたりも汗で頭から水をかぶったようだ(途中、女子学生は完全に疲れ切ってしまい、平松ともうひとりの男子学生とが胸骨圧迫を行なっていた)。

 ふたりの医師の教官が息を切らせて駆け込んでくる。准教授にAEDのパットがうまく貼れていることを確認し、胸骨圧迫に加わる。

「君ら、もう休みなさい。あとはこっちでやるから。ありがとう」と、三人をねぎらう。「皆さんも外に出なさい」と、ほかの者へも声を張り上げた。「あとで訴えられてもいいのか!」と怒鳴られ、三々五々に講義室を出た。

 わたしは口のなかがからからに乾き、手のひらも腋の下も、汗でじっとりしていた。

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