第30話 困惑
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もちろんこの頃はただ自分の勉強とオーケストラで多忙であり、それ以外のことは興味を抱くことさえなかった。オーケストラへ入団したてのころは多少の(珍しいものを見るような)注目を受けたが、一週間も経つとわたしも団員として周囲に馴染んだように感じられた(とはいえほかの団員と仲良しになったという訳でもないが)。馴染むというか、団員として認知されたらそれでよかったのだ。それでも、フルートパートの女子学生三人は少し違った。
「朝野――さん? ごめんなさいね、あたしら、挨拶まだだったよね」ある日、練習の前に呼びとめられる。「いえ、先輩。わたしの方こそ失礼しました。でも、高校の部活でもないですし」と、とくに考えもせず答える。たぶん、面倒な輩だとの見当はつけていた。フルートパート三年次の女子三人組。陰で『お嬢さま方』と呼ばれているのも知っていた。
「まあ、それもそうね。でもせっかくあたしたちのオケに入ってきてくれたんだから、話しかけたくなるじゃない、ね? まあ、よろしくね、朝野聖子さん」とリーダー格の――木村といったか――が、ほかのふたりを促しつつ背を向ける。向こうへ行きながら、わたしにははっきりと「かわいくない」と木村がいったのを聞き取った。
二年次前期が始まる際、わたしは一般教養科目も多めに履修した。手っ取り早く多くの単位を得るためで、期末試験の難易度などは講義内容から鑑み、どれも単位数稼ぎにはもってこいといえた。
二年次になっても一般教養をみっちり履修する学生は少ない。わたしは図書館の自習と同じスタンスに心理学の講義に臨んだ。ペテンともいえる講師だったが、催眠術だけは達者だった。眠気を抑えるべく、ほかのテキストを机上に広げる。わたしが今進めているのは、AIがコンピュータ上で動作した「戦闘」に関する項目で、二年次後期に履修できる(全学共同の講義だが一年次よりレベルも高く、習熟度でクラス分けのある)情報処理演習への予習も兼ねていた。本に没頭していると肩を叩かれる。「出席票。送って」と、出席票を前に送るよう促したのは平松だった。出席票を後ろの者の分をまとめて前に送る。
「なんでいるのよ、真後ろに。ほかに席はあるでしょ」と、講義室から出ていう。平松が煙草を取り出す。
「たまたまだよ。それ以上に妥当な理由がある? それより自分、なんで二年にもなって心理学取ってんのさ」
「わたしはともかく、あなたはもっと人の心理と向き合った方がいいと思うんだけど」と婉曲になじり、「あなたも工学部? あまり見ないけど」とまたも興味もないくせに訊く。「理学部数学科。分野横断的に履修してるんだよ、っていうと格好いいけど、楽したいんだよね、あとあと。だから単位になりやすい一般は取れるだけ取ってるんだよ。もちろん微積もAIも数論も、恋に勉強に音楽に、ってとこ」
「は? 恋?」
「恋」
「なにそれ」
「特定個人に対する、自らの生命を燃料とした焦がれる思い。念のため」
「そう。あなた文学科の適性あるわよ。バーンアウトしないでね、詩人さん」
平松はややあって、
「君、わりと鈍い方?」とわたしの目を見ていった。特に考えもせず、
「行間を読むよりも明文化されたテキストの方が重要かな」と返した。
「深いねえ」と平松はいい、「オーケー、またあとで」とわたしとは違う講義棟へ走っていった。
わたしにだって、それくらいわかる。だからこの時に行間がどうのといったわけでもないが(もちろんその事実を確かめるようなことはしなかった)。
キャンパスをとぼとぼと歩く。直射日光にずっと晒され、汗ばんできた。
「困ったな」
ほんとうに困ったのだろうか。口に出して、なにに困って、どうあれば困らないかを考えてしまった。日照条件のよいキャンパスを歩き、これでもかと汗をかいて講義棟へ向かう。恋か。これもキャンパスライフの一環、と世間一般は致命的な誤解をしているが、わたしにはそうは思えない。わたしは高校時代も、いわんやそれ以前にも、恋人がいた経験はなかった。その必要もなかったのだ。いつか楽器店で見た高校生カップルを思い出す。
わたしにも男と女がなにをどうすればそのような状態になるか、という知識はあった。あの男がわたしに事に及ぶなどと、想像しそうになって大きく咳払いをする。
構内にはたしかにカップルはいたし、中には公然と睦び合っている者もいた。それを全否定するつもりはないが、少なくともわたしには縁も必要も価値もないことだ。わたしがかれらへ投げる視線はいつも冷ややかだった。今後もそうであろう。
一生独身でいるつもりだとか、一生処女でいるつもりというのは、あるともないともいえない。考えたことすらない。その可能性を身近に感じたことがないからだ。つまりは、人に好かれたことがなかった、それだけだろう。
「困った」十九歳の初夏、それがわたしの結論だった。
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