第10話 軽重
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人の価値は天が決める。なおかつ、あまねく人は平等に大きな価値がある。だが、人は人を評価する際、天にその軽重を問うこともできない。まったく矛盾としかいいようもないが、それをはねのけた時代もあった。
高校の世界史の授業で軽く触れられた程度だったが、こんな話だ。
中世ヨーロッパにおいて乳飲み子はまだ天の国の子とされた。仮に口減らしに手にかけても罪ではなかった。なぜならその嬰児は、まだ人の子ではないのだから。つまり、嬰児に対しての生殺与奪は殺人として成り立たず、もちろん徒刑場へも連行されない。人の価値も意味も、人が決めた。法や口碑伝承で、人が人の命の軽重を決めた例だ。
のちの人類には自らまいた耐え難い災い――戦争、革命、圧制、テロリズム――によって皮肉にも、神にすがりついた。身の毛もよだつような恐怖を感じるたびに神へとまた立ち返るのだ。現に第二次世界大戦をまたいで、アメリカ人科学者を対象にした調査では、戦後の方が「神の存在を信じる」と答えた者の占める割合が、戦前、戦中を上回っているのだ。大きな災厄は、人に徹底的に無力を教えこむ。
天の役目やその意味、生死にまつわる一切を天が決めるものとし、わたしたちには戦争であろうと革命であろうと、なんら計り知れない「天の采配」とされた。だから信じ、正しくあるしかないのだ、遺された者にとっては。
帰りの新幹線で、酎ハイを飲みながら問いかけた。わたしは死ぬにも生きるにも値しないのかもしれない。ね、高志。
かれの実家での葬儀法要、その他のできごとを経て、わたしは再び大学生としての身分に戻るべきであった。
スーツケースを持ち上げてアパートの階段を上り、部屋に入ってパンプスを脱ぐと、その場に座り込むことしかできなかった。ああ、要するに疲れだ、そういい聞かせる。この靴擦れと同じですぐに和らぐのだ、と。しかしなにも手につかず、やる気も起きず、自分がなんの必要があってこのアパートにひとりでいるのだろう、だれか、だれか教えて――部屋の真ん中で立ち尽くした。
スーツケースは明日開けよう。もういやだ。なにもかもいやだ。抹香臭い礼服のままベッドに入る。
しばらくアパートからからほとんど出ず過ごした。漫然と暮らす自分を恨んだ。死に損なった自分を恨んだ。
大学にまったく行かなくなったわけでもない。大講堂が空いている時間は、そこでただぼんやりとして過ごした。それが最終時限であってもオーケストラは活動停止中で、わたしはなにを待っているのだろうと訝しみながらのろのろと帰宅した。
講義をすべて休講し、後期試験も欠席した。なにもせず家で寝るか、大講堂で座っているだけの日々を送った。しかしワンルームの家も大講堂も高志とわたしの居場所であったため、こと高志のいない現実に直面化することになった。
かれとは文系キャンパスの図書館で出会った。図書館、そして大講堂で数々の会話や楽器の練習、ふたりでそれぞれの部屋でお酒を飲んだり愛を睦び合ったり、そのどれもが遠くへいってしまった。
父がわたしを抱きかかえ、高い高い、と遊んでいる。本当に高いところへ行っちゃうからよしてよ、と母がいさめる。いいじゃないか、この子は本当に高いところへ行くんだから、と父が笑みを浮かべたまま眠る。幼いわたしも眠る。だれもが眠る。
夢から目が覚めると朝でも昼でもない、ワンルームに充満する夜の海の中にわたしはいた。この世にはわたし以外、だれもいないのだ。
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