第8話 受洗

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 その教会は自宅からほんの数分で通える距離にあり、夏になれば風向き次第で、窓から讃美歌やパイプオルガンの音が聴こえてきていた。キリスト教は面白そうだが、高校の礼拝堂にそうたびたび寄っていては目立ってしまう。でも、そういえば家の近くにあったな、とカトリックなのかプロテスタントなのかすら調べもせず、屋根にある十字架だけを目印にその教会の門を叩いた。

「神の御恵みを」とか「主の慰みを」とか、そういう吹き替え映画のようなセリフがあふれているところだと思っていたが、そうでもなかった。

 中へ入れば質素だが掃除の行き届いたきれいな教会だった。プロテスタントだったが、教会は教会である。実際、ロビーで「お久しぶりです」と祈りあう信徒もいたが、胸で十字も切らず、聖書と讃美歌の本の貸し出しもあり、あとは身一つで(任意の献金もあるにしても)行くことのできる場所だった。

 求道の徒として幾度となく教会に通うなか、牧師に受洗を勧められた。そういうシステムがあることは知っていた。

 そのころにはわたしは聖書の流れをほぼ網羅し、有名な箇所はそらんじることもできた。

 しかし引っ掛かりがあった。キリストの贖いと復活を信じ、信仰告白と、およびそれに揺るがずに立つ自らの信仰こそが、天国への唯一の道であるということはわかる。頭ではわかっている。


 洗礼式の前日の土曜日だった。受洗に向けて用意している質問の予習をしましょう、とかねてより牧師との約束があった。吹奏楽部の練習が夜七時過ぎまでかかってしまい、着替えもせずお腹も空かせたまま、家の玄関で脱いだばかりレインコートを再び着て教会へ自転車を走らせた。自転車置き場に駐輪し、今週の聖句として聖書の一文が掲げられた掲示板の脇を通り、ほの暗い教会の廊下を抜ける。教職用の小さな祈祷室へ通された。「すみません、遅くなりました」

「いいんですよ、人生は長いんだから」わたしは牧師に椅子を勧められたので掛けた。

 洗礼式で、礼拝に来た信徒の面前で問う、とされた質問が五つあり、そのどれも初めて聞く内容だった。

「――五番目ね、最後の質問です。あなたは明日、死にます。絶対に死にます。それでも朝野さん、あなたは信仰の義によって、かならず天国に行きます。さて、あなたはこれを信じますか?」

「(やや押し黙る)いえ、でも、先生。思うんですけど、いくらそう決まってても両親とか、周りのひとより先に死んだら天国に行く資格、ないと思うんです。資格っていうか自信というか。あんまりに思い残すことが多くって。死にたくないからとか、自分のエゴだけじゃなく――順番も守らずにそんな親不孝したら、むしろ神様に怒られます」

 牧師は少し間をおいて、ゆっくりとした口調でこう話した。

「朝野さん、やっぱりよくできた人だね、若いのにえらいよ(わたしは曖昧にうなずく)。でもね、神様はあなたがよく生きて、よく死ぬ日を定められている。神様は、あなたにとっても、また遺された人たちにとっても一番いい死に時を決められたんだよ。人は一回しか生まれない。一回しか死ねない。人間という存在が死に時を決めることだってできない。それに、神様のご計画を超えるような判断力も持ってないのよ。だから、あなたが生まれからずっとそうであったように、神様があなたのことをすべて決めて、すべてから守ってくださる」

 ここで牧師は水をひと口含み、また続けた(外の雨音は聞こえなくなっていた)。

「安心してね、朝野さん。神様はね、親不孝な死をあなたに与えることよりも、もっとずっといい、最良で最高の死をあなたに与える。神様は絶対に失敗をされない。あなたが明日死なずに長生きしたとして、神様の代わりにそこまでのことができる?(わたしは首を振る)人が死を恐れたり死にたくないと思ったりするのは、死が得体の知れないい怖いものだと感じているからなの。確かに人間にはもともと死はなかった。アダムの罪によって初めて死がもたらされたからね。それでも、神様は召された人間を地獄に叩き落とすことはしない。神様は人間に二つのプレゼントを与えた。一つは生きる喜び。もう一つは死による、救いへの道。ここまで、質問はいい?」

 わたしはようやく口を開く。

「あの――やっぱり、正直にいいます。わたし、自分で決めたいんです。死ぬとか、生きるとか。二十歳までに決めたいんです。二十歳すぎても自分の人生が思い通りにならなかったら、そんなの楽しい人生じゃない、って思ってました。今でも少し、思ってます。でも、あらかじめ神様に定められた人生なら、人間の範疇を超えて決められた人生なら、そう悪くもないんですよね――明日、わたしが死んでも死ななくても、神様がなんとかしてくれると信じます。信じたいです」

「そうだね、信じることより信じようとする努力の方が大変なのよね。いまこの場で先生が朝野さんの人生観を変えることはできないけど、それにつながる橋渡しなら、お手伝いできると思う。じゃあ、明日の礼拝、ちょっと早めにきてね」と柔和な笑みを見せ、「じゃあ、おつかれさま。休憩ね。先生のこれ、半分こする?」と訊いた。

 わたしは「はい」と即答し、ただちに恥じ入ってうつむく。「いいのよ」と牧師は頬笑み、お祈りをしてチョコレート味のカロリーメイトを一本ずつ食べた。わたしにはこのカロリーメイトが最後の晩餐になっても悪くないな、と当時思えた。


 教会から帰ったわたしはベッドで祈りをささげていた。

 自分の死が現実に、確実に訪れるなら、どんな準備をしようかと思うのが人の常だろう。しかし、わたしはいつ死んでもいい、いつ生きてもいい、それが許されたことで救われた気持ちになった。わたしの始まりも終わりも、すべて望ましく用意されていた。それはわたしを安心させた。自分の人生が良いのか、悪いのか、そしてそれらに値するのか。人は自問するが、その判断に伴う苦痛ですら神がすべて預かるのだ。つまり、ひとの生死は神の領域であり、人間の意思ではなく、神によって調えられるのだ。神は生きよと、神は休めと、すべてが望ましく与えられるのだ。生きとし生けるものは、神による必要があって生きているということだ。このこと――神の要請で生きること――はその時のわたしから重荷を取り去ることになった。

 人は必要があって生まれ、また天の国での必要があって死ぬ。いらない人間なんて、いないのだ。


 洗礼式は通常の主日礼拝に組み込まれていた。受洗するのはわたしともうひとり、日焼けした小学生の女の子だった。牧師に前日問われた五つの質問に対し「信じます」と答えた。そののちに滴礼という、牧師がわたしの頭に少量の水を垂らす儀式に浴した。洗礼式はほんの短時間で終わった。カトリックではないので聖人にあやかった洗礼名(マリアとかテレサとか)こそないものの、内面を豊かに満たすものはあった。

 高校一年生の夏だった。

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