第六夜
そして九歳は、程なくして十歳となりました。
オーリンが十回目の誕生日を迎えたこの年は、ローレルキャニオンの創始から実に二百二十年目。
この街の東にもうひとつのドワーフ遺跡が姿を現した、まさにその、都市歴二百二十年でございます。
街道には山越えの人々や旅商いを圧するように冒険者が溢れ、彼らの落とす金で街は殊の外潤いました。東の遺跡からは彼らに屠られた怪物の死骸が次々と運び出され、それを目当てとした錬金術師たちもまた、この土地の賑わいへと加わって参ります。
城郭都市ローレルキャニオンは前代未聞の活気に湧き、この嬉しい誤算の発展も相まって、若き領主は稀代の明君と謡われるようになりました。
さて、地上はこのような大騒ぎだったのですが、知られざるもう片方の地下都市は相も変わらずの有り様です。未だ深緑に埋もれたまま、我らの迷宮はただただ平穏に微睡んでおりました。
その中の、たった一人だけを別として。
遠く街道を行き交う人々の姿を、オーリンはしばしば樹々の影より眺めておりました。
眼差しには憧憬の色も顕わにして。
七歳の夏の日を境に、彼女が山羊頭にねだる物語は人間についてのことばかりになっておりました。それも、それまで聞かされてきた冒険譚の類ではなく、街に生きる普通の人々の暮らしぶりを熱望したのです。
山羊頭は求められるままに語りました。木こり、農夫、大工、パン屋、さらに各種の職人、商人……果ては貴族や領主などについても、オーリンにも理解出来るよう難しいところはかみ砕きながら、毎晩彼女が寝る前などに話して聞かせてやりました。
人々の営みはとろとろとオーリンの耳朶に染み込み、脳裏において架空の像を形取ります。子供らしい想像力を駆使して、彼女は次々と人々の姿を蓄積させてゆきました。
そしていつしか、それらを元手にして空想の街を組み立てはじめます。
空想のローレルキャニオンを、ただ頭の中だけに。
このようにして、強い興味だったものは漠然とした期待の時を経て、切ないほどにひたむきな憧れへと育っていったのです。
ですが、彼女はただ見ているだけです。街道まで飛び出して行って適当な通行人とひとつふたつ言葉を交わすことさえ、断固として自重しました。
それが大切な魔物どもを裏切ることになると、そう考えて。愛する彼らとの別れを、泣きそうになるほど恐怖して。
ああ、オーリン! なんとけなげな!
これを山羊頭が知れば、はたしてなんと言ったでしょう?
もちろん、行って好きなだけお話をして気が済んだら帰っておいでと、優しくそう言ってやったに違いありません。
ですが、利口すぎるほど利口で、優しすぎるほどに優しい少女は、心配を掛けまいとの思いからこの
唯一、どこへ行くにも何をするにも一緒だった毛深い妹だけは、小さな姉がなんらかに思い悩んでいるのを察していたのですが、しかしその正体までは気付くに及びませんでした。
大好きなお姉ちゃんのために一肌脱ぎたいのに、具体的なことはなんにもわからない、なにをしたらいいのか思い浮かばない。もどかしさから、この妹もまた苦悩するようになります。
ああ、そして! あるとき、オーリンはこれに感づいてはっとします。いつのまにか可愛い妹に心配を掛けていたのだと知り、彼女はひどく心を痛めてしまいます。
それからというもの、オーリンは一番の関心事であった人間観察を完全に絶ち、街道が賑わう日中は森の深部からも出ようとしなくなります。さらには空想の街への耽溺すら自らに許さず、憧れのすべてを封印してしまおうと努めました。
無論のこと、こうした心中は決して誰にも、妹にも山羊頭にも悟らせません。精一杯の
人間への熱が冷めたかのように振る舞って、今度は魔族の物語を山羊頭にねだったりもしました。
たった一言、師父であり養父である山羊頭に、たった一言でも相談すれば、呆気なく解決されたはずの悩みです。
しかし誰もが甘やかしたくて仕方のないこの少女は、皮肉にも自分から甘えるということを知らなかったのです。
■
ですが運命が用意した出会いは、彼女のこうした決意をあまりにも冒涜したものでございました。
それが訪れたのは次の年、都市歴二百二十一年の冬のことでした。
オーリンはたった一人、平地にほど近い森の端を疾駆しておりました。早朝特有の澄み切った大気を纏って駆けるのは、彼女のひそかなお気に入りだったのです。
腐葉土を蹴散らして跳躍すると、手近な老木に組み付いてするするとその太い樹枝に登ります。樹間を自由自在に飛び移りながら、そろそろみんなの待っている地下神殿に戻ろうかと彼女がそう思った、その矢先。
樹陰に動いた影を、オーリンの獣の瞳は決して見落としませんでした。
長らく憧れの的であったものが、彼女のすぐ目と鼻の先に、確かに存在していたのです。
苛烈な衝動がオーリンを揺さぶりました。ほとんど目眩さえ覚えながら、次第に加速する心臓の拍動を彼女ははっきりと耳にします。呼吸すら正しく刻めません。
封じ込めてきた数々の情景が。いつも脳裏に親しんできた架空の人々の生活が。
彼女の脳裏に、いちどきに殺到します。
この瞬間、それまで重ねてきたすべての努力は水泡に帰したのです。悲しい葛藤も、いじらしい決意も、幼い犠牲も、すべてが。
ほとんど落っこちるように樹下へと降りると、オーリンはふらふらとその人間の前に立っていきました。そうして気付いたときにはもう、声をかけてしまったあとでした。
「……なにしてるの?」と。
人間は、弾かれたように彼女を見上げます。帽子の下に隠されていた素顔が、驚きに塗りかためられた表情が、オーリンの瞳に飛び込みました。
年の頃は二十歳を少し出たばかりの、それはまだ若い男でございました。
「お、女の子?」
青年は眼に驚きを浮かべて、裏返った声をあげます。
「なにしてるの?」
オーリンはもう一度繰り返しました。
しばし絶句していた青年は、少しあって「地元の子だろうか?」とひとり呟き、それから話しはじめました。
「昨夜、仲間二人といっしょにこの森の近くに野営を張ったんだけどね。朝方になって ちょっとした散歩のつもりで一人で森に入ったんだ。一緒にいた仲間の二人は恋人同士なんで、まぁこっちとしては気を利かせたつもりで……」
そこで彼は言い淀むと、子供相手に言う事じゃないな、と誤魔化すように笑いました。
「とにかく、調子に乗って奥に進んだら元の場所に戻れなくなって、そんでここで途方に暮れてた、そういうわけさ」
芝居がかった仕草で困った状況を表現しつつ、彼はそう締めくくりました。
はじめて同族である人間と交わした言葉のやりとりは、あまりにも鮮烈な高揚感をオーリンにもたらしました。そして彼女に、さらなる会話を促します。決して抗うことを許さぬ強制力をもって。
「オーリンが……あたしが、出してあげようか?」
ほとんど無意識にオーリンは言っていました。
「……なんだって?」
驚いて青年が問い返します。
「その、ここは、森のそんなに深くないところなの。方角さえわかってれば、すぐに外に出られるよ。……だから、あたしが、案内してあげようか?」
オーリンのこの言葉に青年はまたもぽかんとして、しかしすぐさま表情を明るくさせます。
「本当に? いや、そりゃ助かる。うん、助かった」
人好きのする笑顔を満面に広げて、
「君は、あれかい、地元の子供なのかい?」
青年のこの何気ない問いかけに、オーリンは少しばかり逡巡して、答えました。
「……うん、そうだよ、近くに住んでるの」
かくして、成り行きはそのように定まりました。
実際、オーリンがこの青年と出逢ったのは、彼女らが住処としている森の深部からはほど遠い地点だったのです。未明の森は浅い場所でも薄暗く、彼が迷うのも無理からぬ話ではありました。ですががこれもオーリンが言った通り、方向さえ間違わなければ外には呆気なく出られるのです。
オーリンがそのことを説明すると、青年はそれまでの頼りない様子から一転、溌剌と気力横溢させて、すぐさま快活な本性を取り戻しました。がさつながらも全身で彼女に感謝の意を示し、「この土地の人間てのは、子供でも森に馴れてるもんなんだなぁ」などとしきりに感心しています。
情感豊かに喋る青年との語らいは、それまでオーリンが長らく希求しつづけ、しかし決して満たされなかったものを即座に満たしてゆきました。山羊頭との会話では決して埋め合わせのきかなかった空白を、豊かな色彩で塗りつぶしてゆきました。
この人間とずっとお話ししていたいと、オーリンはそう思います。ですが、森が切れる場所までは既に幾ばくもなく、純朴過ぎる彼女では道を誤魔化すという発想にも辿りつけませんでした。
やがて、森の気配にはっきりと平地のそれが混ざりはじめたとき、オーリンはぱたっと歩みを止めて、すぐ後ろの彼を振り返りました。
そして、決然とした思いを込めて切り出します。
「あの、オーリン、いろんな人たちのことを知ってるよ。食べるものをつくる人とか、住むところをつくる人とか、それにあと、領主様とか――」
緊張に引きつった声を喉元で押し殺して、彼女は最後まで続けました。
「それでその……あなたは、なにをするひと?」
こうしてほんの少しだけ立ち止まることが、彼女が自らに許した唯一のわがままであり、選んだ話題がそれだったのです。
もちろん、問われた青年はオーリンの胸中など知るよしもなく、よくある世間話につきあう気楽さでこれに答えました。
「俺はほら、いわゆるあれだ」
そこで、少しばかりの矜持を声音に乗せて、青年は言いました。
「冒険者とか呼ばれてるやつだよ」
オーリンはこのとき、しかし咄嗟には理解出来ませんでした。なにしろ、彼女が返答として想定していたものは、たとえばパン職人や大工、各種技師などの一般職業だけであり、乳飲み子の時分より聞かされ続けた冒険譚の主人公たちには、とんと考えが向かなかったのです。
「ぼうけんしゃ? ええと……それは、なにをする人なの?」
オーリンはさらに尋ねました。
青年はみたび呆気にとられます。無理もありません。これが別の土地ならばまだしも、近年のローレルキャニオンに冒険者を知らぬ子供がいるとは思いもよらなかったのです。
「冒険者ってのは、そうだな……改めて聞かれると結構答えに詰まるもんだな」
青年は迷い迷い答えます。
「ええと……とにかく、普通の人の行かない危険な場所を探検して、頼まれたものをとってきたり、それから」
「それから?」
先を促すオーリン。
ここで青年は、またしても声音に誇らしさを乗せ、
「魔物を退治したりするんだ」
そう答えたのです。
この瞬間、オーリンはすべてを理解し、全身に通う血が一挙に凍りついたような感覚を味わいました。
さっきまで好ましいと感じていた青年の笑顔ににわかに敵性を覗き、隠された残忍な本性を見出した気がして、同時に、取り返しのつかぬことをしでかしたという強烈な罪悪の意識に取り憑かれます。
「お、おい、どうした? 調子悪いのか? だいじょぶか?」
彼女の様子がただごとでないと気づき、青年が心配して支えようとします。
「だいじょうぶ!」
しかし、オーリンは拒絶するような険しさでその手を払うと、一気に捲し立てました。
「ここをまっすぐいけば、すぐに森から出られるから! だから、ここから先はひとりで行って! お話しできて嬉しかった! さようなら!」
最後は悲鳴のように叫んで、そのまま森の奥へと駆け出します。『冒険者』をその場に置き去りにして、決して振り返りませんでした。
追いすがる何かから逃げるように、どこを目指すでもなくただ衝動に任せ闇雲に、オーリンは走り続けました。
――魔物を退治したりするんだ。
そう誇らしげに語った青年の表情が、声が、脳裏にいくども反響します。
やがて涙がしとどに溢れ、歪んだ視界の向こうに魔物どもの姿を浮かび上がらせます。
漠然とした、しかし強烈な裏切りの実感に慄然として、オーリンはただ、吼えるように泣きじゃくりました。
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