8.禁断のミルフィーユ
翌朝はここ最近では珍しく目覚まし時計とスマホのアラームで起きた。大音量で交互に鳴り響く異なるタイプの音はリビングで寝ていた和希の耳にも届いたらしく「うるせぇなぁ」と不機嫌そうな声がした。
これから着ていく服に万が一メイクがついたら困ると考え、パジャマ姿のまま寝室を出る。和希がこちらを覗き込むのも同時だった。
「おいなんだよトマリ。まだ七時じゃねぇか。出かけるのは夜だろ?」
「すまない和希。午前中は面接の予定があるんだ」
「えぇ!? 面接って今日かよ! 私のこと泊らせてる場合じゃなくね?」
「……? 何故だろうか。問題ないが」
「……いや別にいいけどよ、あんた妙なところで肝が据わってるよな」
和希の言っている意味はよくわからなかったが、やはりアラームの音が大きすぎたか、私はあれくらいの音量でないと起きれないのだが……などと思考を巡らせた。
いずれにしても普段から遅番が多く夜型生活な和希に対して配慮が足りなかったかも知れない。反省しなければ。
煙草を吸っている間にオーブントースターでクロワッサンを三つ焼く。
軽く温まったくらいのところで取り出し、あまり使っていない白い皿に乗せ、ガラスのコップに注いだ牛乳と一緒にリビングへ持って行った。
「和希。良かったらこれを朝食にしてくれ」
「えっ、いいのか? わりぃな。なんかハンパな数だけどあんたはいくつ食うの?」
「それは全部和希のだ。私はこれでいい」
冷蔵庫からゼリー飲料を取り出して見せると和希が大きなため息をついた。
「あんたなぁ、昨日の私の話聞いてたか。メシはちゃんと食えって」
「朝から固形物を口にすると重いと感じるときがあるのだ。最近特に」
「普段から食わなさすぎて胃が縮んでるんじゃねぇの。知らねぇけど」
リビングのテーブルに置いてある物を端に寄せ、そこにコスメの入ったバニティケースを置く。ティッシュの箱に土台の壊れた卓上ミラーを立てかけて安定させた。
黙々とメイクを施している間に和希と少し言葉を交わした。
「栄養
「昔からだったかは覚えていないのだが……よくわからないのだ」
「わからない?」
「食べる楽しみというものが」
そう、本当にいつからだったか。
食べなければ生きられないということを知っているから倒れないようにする為に最低限のものを口にしている。これが今の私の現状。
鏡を見たまま、振り向けない。
和希がもっと寂しそうな顔をするのが予想できてしまうからそれ以上は言えなかった。
メイクと髪のセットを終えた私は、この日の為に考えておいたコーディネートに身を包む。
ショート丈のロンTはデニムカラー、下はハイウエストのスキニーパンツで色はブラック。よほど激しい動きでもしない限り肌は露出しないように考えてある。この上にオーバーサイズの白いブルゾンを羽織って全体のシルエットにメリハリをつける。
今回面接を受けるのはストリート系ファッションが目立つブランドだからその方向に寄せつつ、でも初対面であることを考慮して極端にダメージの入ったアイテムなどは避けている。
アパレル業界は大体、私服で面接に来ることを求められる。正解がないという難しさを感じつつも腕が鳴るのは、私もなんだかんだとその業界に染まっているからなのかも知れない。
「私はこれから出かける。面接の場所はそんなに遠くはないから十時半くらいにはここへ帰れると思う。和希はそれまでゆっくりしていても構わないのだが」
私が言うと、着替えだけを終えた和希が「いいや」と短く呟いて立ち上がる。バッグを拾い上げてこちらへ歩み寄る。
メイクをしていない為か普段はクールな顔が今は少しだけ幼い。
「私も一緒に出るよ。一人でいてもつまんねぇしな。帰って一息つくわ」
「そうか。ならば気を付けて帰ってくれ」
「はは、深夜だけじゃなく朝まで心配すんのかあんたは」
“気を付けて”という言葉をかけられた相手は事故などの災難に遭う確率が下がる、いわゆるお守りの言葉なのだとおばあちゃんから聞いたことがある。和希は知らないのだろうか。いや、知っていてもなんだか彼女は信じなさそうだ。
そんなことを考えながら二人でアパートを出た。
和希とは近所の駅前で分かれた。ここは二つの異なる駅が隣接しており、今回私たちはそれぞれ別を利用するのだ。
駅前に新しく出来たというケーキ屋さんがふと目に止まった。四月だからなのか青空に桜の花が
自動ドアの横にあるブラックボード看板にはオススメのケーキの写真が貼られ、色とりどりのチョークでキャッチコピーが書かれている。
とても綺麗な字だ。最初はそこに意識がいったのだが、次第に私の目はその全体をはっきり捉え言葉の意味を理解した。
「ミルフィーユ……」
ぽろりと呟きが零れたのが自分でもわかった。それは何かストッパーが外れた瞬間だったのかも知れない。
頭の中が、目の前が、肌を撫でる風の温度が物凄い勢いで変わっていく。
息が詰まるような感覚と共に。
季節は春ではなかったけど、夏の苺は特に酸味が強く爽やかだったように思う。
夏だったのに。ほんのり涼しい夜だったせいか店内のオレンジ色の灯りとウッド調のテーブルに温かみを感じた。
少し零れた涙はこの唇の隙間に入り込んだけど不思議とそんなに塩辛くはなかった。あの人が食べるのに夢中になってくれてて良かった。
ああ、今思うとこのとき感じた味ははっきりしてる。美味しいという実感も確かに……
――いらっしゃいませ。
すぐ側から女性の声がして、私は我に返った。
声のトーンからすぐにわかったが、エプロン姿の彼女はやはりニコニコと優しい笑みでこちらを見ている。
「もう開店していますよ。良かったらどうぞ」
「あっ……すみません、今は、その……」
どれくらいの間そうしていたのかもわからないし、自分がどんな顔をしているのかもわからない。ただ顔に当たる微風がやけに冷たく感じて狼狽えた。
「すみません、また今度……」
「はい、いつでもお待ちしております」
逃げるようにして身体を背けたのに店員の女性の声は相変わらず朗らかだった。
駅構内に入って肌に感じる違和感は去ったけれど、胸の奥がなんだかおかしい。締め付けられて、苦しいような。
ミルフィーユに罪はない。だけど思い出してはいけないことを思い出してしまったような気がしてならない。
ついこの間、和希にも言ったではないか。自分の口で。
後ろめたいことなんてないはずだったのに。
――誤解をさせてしまったかも知れないが千秋さんとは本当に何もなかった――
何もなかったはずなのに。
それでもなんとなくわかってきたことはある。
いま自分に何が起きているのかわからないというという戸惑い。それはあの頃にもあった。誰かに訊くことも出来たはずなのに、打ち明ければ迷惑になるという確信は何故かあって。
前の職場を辞めたのは、あの人を守りたかったからだ。でもきっとそれだけじゃない。
私は逃げ出したのだろう。自分勝手に。
無理矢理にでも離れなければ、大切なもの全部、壊れてしまいそうで怖かったから。
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