14話 アスラン・シェリフ・シャザーン王子
エリザベート王妃の付き添いで、カザリア王国大使館に詰め切りになっていたユーリの一番の心配は、算盤のモデル校の選定だ。久しぶりに国務省に見習い実習にきたユーリは、シュミット卿から既にモデル校が選定されたと聞いてガックリきた。
「やはり、ユングフラウだけだったのですか。各地方に一校づつモデル校を割り当てたかったのですが……」
落ち込むユーリにシュミット卿は、ユングフラウの他にも、貿易港のメーリングも選定されたと慰める。ユーリは田舎の農村部は後回しにされたと、内心で腹を立てていたが、貿易港に住む子ども達に算盤が普及するのは嬉しく感じる。
「メーリングの1校の他はユングフラウに3校だけなのですね。でも、師範学校で、まずは全国に広げないといけませんもの」
シュミットはユーリがエリザベート王妃の付き添いで、見習い実習が出来なかった間にモデル校の選定がされたのを、もっと騒ぎ立てるのではと考えていた。
ユーリは一気には算盤が全国に普及するとは考えてなかったので、農村部にモデル校が無いのにはガックリきたが、文句を付けるより実施内容の方に興味を持ったのだ。
「シュミット卿、予算が決まったら、モデル校の視察に行っても良いですか?」
連日、予算の会議で忙しいシュミット卿は、先の話などに付き合う気分でなく、あれこれと用事を言いつける。ユーリはどのように師範学校とモデル校で算盤を教えるのか、指導要領を決めているのではと気になったが、シュミット卿にこき使われて教育課を覗きに行く暇は無い。
「ユーリ嬢、お久しぶりですね」
アンリは、ユーリがエリザベート王妃の付き添いとして、カザリア王国大使館に滞在しているのを心配していた。こうして国務省の見習い実習を再開したユーリと一緒にランチしていると、嫉妬や焦りが溶けていくのを感じる。
「ユーリ嬢が付き添いをされている間に、モデル校が選定されたのは残念でしたね」
アンリはユーリが風車の特許使用料を国に譲る代わりに、算盤の小学校への普及を願ったのに、最初から参加出来なかったのを悔しがってるのではと心配していた。
「やはり、農村部は後回しにされてしまいましたわ。
でも、来年のモデル校はもっと増やして貰うつもりですの。せっかくロックフォード侯爵には風車で協力頂きましたのに、国に譲り渡すことになりました件を謝っておいて下さい」
アンリは、風車は領地に役立っているから、気にしないで下さいと言う。
「毎日のように見学の人が来るので、喜んで案内してますよ。まるで父が風車を考え付いたように、熱心に説明しています」
「まぁ、侯爵が案内されているのですか。ユングフラウから一番近い風車なので、見学に行くには便利でしょうが、来られる方は迷惑なのではありませんか?」
ユーリはご迷惑をかけてなければ良いのですがと恐縮する。
「大丈夫ですよ、それよりシュミット卿にこき使われているのではないですか?」
アンリは、午前中に国務省の中をアチコチ駆けずり回っているユーリを目撃していたので、少し心配している。
「シュミット卿は、相変わらず人使いは荒いですわ。でも、陳情の人が来なくなったし、予算の会議とかでシュミット卿は会議室に詰めきりなので、前より私は暇なのです」
アンリは見習い竜騎士のする仕事以上を押しつけられていたユーリの、暇と言う言葉に苦笑してしまったが、確かに予算決定の最終段階では出番は無いだろうと思う。
昼からの実習の合間に、ユーリは教育課に行ってユングフラウのモデル校の3校を聞いた。港町のメーリングも竜でならひとっ飛びだけど、地元なら暇を見つけて授業の様子を見にいけるなと考えたのだ。
だが、モデル校は選定されたものの、まだ実際の授業は行われてないと聞いてガッカリする。
「まずは教師が、算盤をマスターしなければいけませんからね。それに教える為の算盤も作らなければいけませんし、子ども達には算盤を貸し出すのか、買わすのかも揉めています。モデル校ぐらいなら、貸し出してもいけますが、全国となると……」
説明を聞けば納得はできるものの、官僚主義というか、お役所仕事ぶりに、ユーリは苛立ちを隠せない。しかし、見習い竜騎士の立場では、何一つ出来ないのを悔しく思う。
実習が終わると、むしゃくしゃした気持ちを変える為に、ユーリはイリスとひとっ飛びしてメーリングまで行く。メーリングはユングフラウの南側の港町で、東南諸島連合王国との貿易の中心地であった。
カザリア王国やゴルチェ大陸に臨むアンジエ海に行くには、象の鼻の様に伸びているプリウス半島とその続きにある暗礁地域をぐるりと大回りしなくてはいけない。
東南諸島連合王国からの香辛料などは、一旦メーリングで船から降ろされ、馬車でアンジエ海に面するラグーナ港まで運ばれるか、プリウス半島を大回りするしかない。
港町の活気のある風景を眺めているだけで、ユーリはウキウキとしてくる。港に停泊している大きな船から、小さな船に荷物を下ろして港へと運ぶ様子や、その荷物を陸へと運ぶ喧騒に溢れている。
ユーリはユングフラウで侍女を連れて歩かなければいけないと言われていたが、より荒くれ者の多い港町メーリングに一人で来たことは、全く命令に反しているとも思ってなかった。
ユングフラウのモデル校で算盤の授業が始まっていなかった苛立ちを解消するために、メーリングの街の様子を見てみようとイリスの遠乗りがてら来てしまったのだ。
秋の日暮れは早く、メーリングの街にはアチコチで灯りがともり始めた。
港湾労働者や、船乗り達が溢れるメーリングの夜は、令嬢が一人歩きするべき所ではないが、ユーリはあちらこちらの屋台から流れてくる香辛料のきいたエキゾチックな香りに空腹を刺激されながら、色々な品物を所狭しと並べている屋台などを見ながら歩く。
さすがにユーリも、荒くれた男達と並んで、屋台で食べることはしない。道の両側にズラッと並んでいる屋台は食べ物だけでなく、南から運ばれてきた果物や、香辛料、色とりどりの布なども売っていたので、見ながら歩いているだけで楽しい。
あれこれ見て歩いているうちに、すっかり日が沈んでいたのにユーリは驚いて、酔っ払いから声をかけられてちょっと拙いかもと初めて気づく。
イリスを呼び寄せようにも、通りの両側に屋台が立ち並んでいるので無理だ。
「どこか開けた場所か、建物の上に行かないとイリスを呼べないわ」
ユーリは少し焦って歩き回り、方向音痴気味なので、よりバザールの中心地へと迷い込んで行く。
『アスラン、イルバニアの竜が騒いでいる』
東南諸島連合王国のアスラン・シェリフ・シャザーン王子は、騎竜のメリルから変な報告を受けて怪訝に思う。
『竜が騒いでいる? メーリングの街は平和そのものだろうに、竜が騒ぐ理由など思い当たらないが』
『絆の竜騎士を心配して、やきもきしている竜がうるさい。どうにかしてくれ。ユーリとかいう竜騎士を心配して、ぎゃぁぎゃぁ騒いでいるのだが、うるさ過ぎて眠れない』
アスランは、メリルの言葉でピンときた。イルバニア王国の、女性の絆の竜騎士の噂は聞いていたのだ。
長旅で疲れて眠りたいと苦情を言うメリルを気遣ったのもあるが、騎竜が心配している状態にあるユーリに興味を引かれる。
『竜を呼べない場所に、迷い込んだのだろう』
何度か港町のメーリングに来た事のあるアスランは、バザールに迷い込んだのだと立ち上がる。
『ユーリ、大丈夫なのか?』
『イリス、道に迷ったみたいなの。どこか建物の上にでも行ければ良いのだけど、酒場に入るのは遠慮したいわ』
バザールの屋台の外側には建物が立ち並んでいたが、普通の商店や、事務所は、既に閉まっている。
開いているのは、酒場や、怪しげな安宿で、建物の上に行きたいのはヤマヤマのユーリだったが、入るのを躊躇う。
華奢な可愛い女の子が一人歩きしているのは、凄く危険なことだ。今のところは酔っ払いに声をかけられる程度だったが、だんだんとバザールの中心から抜けてくるにつれて、怪しげな女性達が客引きしているディープな場所へと迷い込んでいく。
これは本格的に拙いかもと、ユーリが引き返してバザールの中心地に帰るか、突き進んで屋台がきれる場所まで行くかを悩んで立ち止まった時、酔っ払い達に囲まれてしまった。
「姉ちゃん、付き合ってくれないか」
にやにや笑っている酔っ払い達に囲まれたユーリは、困ってしまう。
「道に迷っただけです、先を急いでますから」
「じゃあ、道案内してやろう。でも、その前に一杯飲もうぜ」
酔っ払いの一人が、酒瓶片手にユーリの肩を引き寄せようとした。ユーリは反射的に酔っ払いを背負い投げする。
「なにするんだ~」
仲間を投げ飛ばされた酔っ払い達が怒鳴りだしたので、ユーリはバザールの中心地の方へと逃げ出そうとしたが、捕まってしまう。
「ガンツを投げ飛ばしやがった、落とし前をつけて貰おうじゃねぇか!」
酔っ払い達に囲まれて困っていると、思いがけない助けに救われた。
「私の連れの女性に何をするのだ!」
酔っ払い達は東南諸島連合王国の衣装を身に付けた羽振りの良さそうな若者に声をかけられて、驚いてユーリから注意が逸れた。すかさずユーリは見知らぬ相手ながら、酔っ払い達よりは信頼できそうな青年の後ろに逃げ込む。
「兄ちゃんの連れか、なんだか知らねえけど、その女はガンツを投げ飛ばしやがったんだ。こっちは親切に道案内してやろ~と、してるのにさぁ」
「なによ! ガンツかなんだか知らない酔っ払いが、馴れ馴れしく肩を抱こうとしたからじゃない。第一、道案内なんか頼んでないわ!」
アスランは自分の後ろからプンプン怒って反論している華奢な女の子が、酔っ払いの一人を投げ飛ばしたのだと思うと、笑いがこみ上げる。
「私の連れが、無礼を働いたようだ。これで、飲み直してくれ」
アスランは、酔っ払い達に100クローネ金貨を投げて渡す。酔っ払い達は可愛い女の子をみすみす見逃すのは惜しく思ったが、アスランの腰にある半月刀を見ると、娼婦と時化込める金貨も貰ったことだしと引き上げる。
「兄ちゃんに免じて許してやるよ、二度とこの辺をうろちょろするなよ!」
捨て台詞を吐いて去っていく酔っ払い達にユーリは怒りまくって、怒鳴り返そうとしたが、アスランに後ろから抱き止められて口を押さえられてしまう。酔っ払い達が立ち去ると、アスランは怒って腕のなかで暴れているユーリを解放した。
「酔っ払い相手に喧嘩をふっかけでも、仕方ないでしょう。貴女の騎竜が心配していますよ」
ユーリは酔っ払いからは助けられたけど、いきなり後ろから抱き止めてられて口を手で塞がれたので、凄く怒っていたが、イリスの言葉が聞こえているのに驚く。
『イリス、心配しないで! もう少し待っていて』
ユーリは騒いでるイリスがバザールの屋台をひっくり返しながら着地するのは避けたくて、先ずは上を旋回中のイリスを止める。
「どちら様か存じませんが、助けて頂きありがとうございます」
アスランは、先ほどまで酔っ払い相手に喧嘩していた女の子とは思えない、お淑やかな感謝の言葉に吹き出してしまう。
「いえ、女性の窮地を救うのは男性の役目ですから、気にしないで下さい。それより、貴女の騎竜に静かにしてもらえませんか。メリルが寝れないと苦情を言ってますので、どうにかして下さい」
「メリルは貴方の竜なのですか。あっ、失礼しました。私はユーリ・フォン・フォレストです。騒いでるのは、私の騎竜のイリスですわ」
竜を先に聞く竜馬鹿ぶりにアスランは呆れたが、旧帝国から分裂した三国の竜騎士らしいと苦笑してしまう。
「私はアスランと申します。メリルは長旅で疲れているので、眠りたがっているのです。イリスは、どうしたら大人しくしてくれますか?」
大丈夫だと言っても、心配で騒いでるイリスに、何を言っても無駄だとユーリは思う。
「アスラン様、助けて頂いた上に申し訳ないのですが、竜が着地できそうな場所まで案内して頂けませんか」
アスランはバザールの中心地では無理だと思ったが、自分の宿泊場所に借りている建物の屋上なら竜が降りれると案内する。
『ユーリ、心配かけないでよ』
屋上に出るやいなや、イリスは舞い降りてきた。ユーリは、イリスに駆け寄って抱きつく。
『ごめんね、心配かけて』
アスランは東南諸島連合王国には珍しい竜騎士だったので、メリルを心より愛していたが、人前ではこのように愛情を表したことが無かったので驚いて見る。
「アスラン様、ここにはいつまで滞在されますの?」
ユーリの問いかけに、船の修理が終わるまで滞在する予定だとアスランは答えた。ユーリは助けて貰ったお礼と、金貨を返しに来ますと言うと、寝れないと苦情を言ってるメリルを気遣って飛び去る。
『メリル、これで寝れるだろう』
アスランはメリルに話しかけたが、寝てしまったのか返事は返ってこない。
「アスラン王子、こんな場所にお泊まりにならなくても。すぐに領事館にお帰り下さい」
気まぐれなアスラン王子のイルバニア王国での守り役を押し付けられたシーザリオは、メーリングの領事館を飛び出してバザールの中にある取引先の屋敷に宿泊しているのを咎めた。
「シーザリオ、うるさい! 当分、ここに滞在するぞ。100クローネ金貨を、返しにくると言ってたからな。言っておくが、身分をバラしたら首をはねるぞ!」
乱暴な口振りだけど、アスラン王子の機嫌が良いのはシーザリオにはわかった。船でメーリングに来ないで、竜で飛んできたアスラン王子の気まぐれには毎回肝を冷やすが、屋上に降りたった竜と女性竜騎士との間に上機嫌になるような出来事があったのだろうと察する。
「100クローネなら私が差し上げますから、領事館に戻って下さい」
金貨なら山ほど持っている王子が、そのためにこの屋敷に滞在するわけではないのを承知で、あえて言ってみたシーザリオは笑い飛ばされてしまう。
「ユーリに、もう一度会いたいのだ。酔っ払い相手に喧嘩をふっかける令嬢が、イルバニア王国にいたとはねぇ」
上機嫌のアスラン王子だったが、シーザリオはユーリとはイルバニア王国とカザリア王国の皇太子妃候補だと気づき、厄介なことにならなければ良いがと頭を痛めた。
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