第2話 死後の世界へはかなり遠い

 最初に感じたのは日差しの暖かさだった。

 もう二度と感じることはないと思っていた感覚。

 目を開けば眩むほど眩しい光に思わず手で遮断する。

 そのまま体を起こせば辺りには木が生えていた。

 適度に水分を含んだ空気とひんやりと冷たい腐葉土、そんな光景が俺の周りに広がっていた。

 ここは森か山なんだろうか。

 でも、そんなことはどうでも良かった。


「生きてるのか、俺?」


 今の俺にとって、それが一番重要なことだった。

 近くにあった小川まで這ってみると、見慣れた自分の顔が写っていた。

 遺伝か、それとも生活習慣が悪かったせいか毛先が灰色になっている髪に日本人らしい黒い瞳。

 どれもこれも飽きるほど見慣れた、俺の身体だ。

 体のあちこちを触っても怪我も痛みもありはしない。

 五体満足、健康優良な体の感触があった。

 間違いなく生きている。


「ハハッ……」


 乾いた笑いが零れた。

 いやいや、冗談じゃない。

 何で俺が生きている。

 何であいつが死んで、俺が生かされているんだ。


「ふざけんな……ッ!」


 燻っていた感情が憎悪と嫌悪で燃え上がった。


「ふざけやがって、ふざけやがって! 何で俺が生きてんだ、何で俺だけが生きなきゃならねぇんだ! 善人を救わねぇくせに、何で俺みたいなゴミを救った!!!」


 俺を救ったであろう『何か』を呪った。

 何をと聞かれても具体的には答えられない。

 強いて言うなら、世界そのものだろう。

 何時もそうだ。生きたい奴が死んで、死にたい奴が生かされる。

 もう沢山だ、もう腹いっぱいで十分だ。

 そんな現実なんてもう見たくはなかった。

 水面に映った俺を、俺は力一杯に殴りつけた。


「死ね、死ね、死ね、死ね、死ねぇぇ!!!」


 何度も何度も殴りつける。

 自分が生きていることに耐えられなかった。

 本当に生きるべきはあいつなのに。

 俺があいつの代わりに死ねば良かったのに。

 そう思う俺を水面に写る俺が嗤った気がした。


 この偽善者め、と。


「死ねぇぇぇぇぇぇッ!!!」


 満身の力を込めて振り下ろした右の拳は川の底にあった岩にぶつかり、ゴキッと音を立てた。

 痛みのせいか、体力が尽きたせいか、血が昇っていた頭が冷静になった。

 その場で仰向けに倒れると、鬱陶しいくらい暖かな太陽が目に入った。

 夢であってくれればと思ったが、痛みも疲労もしっかりと感じた。

 やはり、生きているのだ。


「……無理だ」


 今度こそ死のう。

 そう思って、何か手ごろな道具がないか探した。

 石でも、木の枝でも何でもいい。

 すると、折れて先端が尖った木の枝を見つけた。

 丁度ボールペンくらいの太さですっかり乾いていて固さも申し分なさそうだ。


「……」


 折れた右手には力が入らないので左手で枝を持つ。

 どこを刺せば確実に死ねるのか分からず、取り敢えず胸元に刺してみようと思った。

 けれど、それにはこの枝では心許ない。

 太い血管がある場所を刺せば死ねるかもしれない。刺すなら喉だ。

 左手に力を籠める。

 チクリとする痛みに少しだけ恐怖を呼び起こされるが、大きく息を吸って覚悟を決める。


「っ、うごぼぉぁ!」


 思い切り枝を刺した瞬間、血がせり上がって思わず吐き出す。

 しかし喉が詰まったような違和感はなくならず、依然として苦しいまま。


 まだ死ねない。


 左手で枝を押し込む。


 まだ死ねない。


 いっそのこと枝を引き抜いた。血が噴水のように溢れてくる。


 まだ死ねない。


 痛い、苦しい。息が出来ない。

 意識がなくなり始めた時、不意に小さな揺れを感じた。


「…………ぁ?」


 仰向けに倒れ、徐々に薄れる視界で辺りを見ると大きな熊のような獣がそこに居た。

 黒い体毛に覆われた優に三メートルを超える体。

 イノシシの様な牙を生やした口からは涎が垂れていた。

 どうやら腹を空かしているらしい。

 これはツイてる。

 俺の意識がなくなった後、あの熊に俺の死体を食ってもらえば万に一つの可能性も消える。

 後始末を任せるようで悪いが、熊にとっても悪い事じゃないだろ。

 獣はゆっくりと近づいてくる。

 獣臭が鼻につく。


「ぐるぅらぁ!」


 呻き声と共に開かれた口は、罪人の首を刎ねるギロチンを連想させた。

 罪人、か。

 確かに俺は罪人だ。母親を殺して産まれて、目の前で友人を見殺しにした。

 なるほど、これはその報いだ。

 獣の牙が俺の喉に触れる。

 俺は目を閉じた。

 どうか、俺が地獄に堕ちますように。


「危ない!」


 けれど、最後になるはずだった願いは一発の銃声によって無に帰した。

 飛ばしかけていた意識を必死に繋ぎ止め、辺りを見ると俺を喰らおうとしていた熊の片目が抉られていた。

 突如として獲物を食い損ねた獣は新たに現れた敵を標的に定めた。

 追い詰められた熊は獣の本能のまま雄叫びを上げて、しかし続けて放たれた三発の弾丸によって命を狩られた。

 一体、誰が……。


「大丈夫ですか!?」


 霞む視界で声の主を探すが、必死に繋ぎ止めていた意識が限界を迎えた。

 何が起きたのか、誰が俺を助けたのか、何も分からない。

 ただ一つだけ分かったことがある。

 多分俺は死に損ねた。

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