第七話 藤林家の年末年始と婿入り

永禄8(1565)年暮 伊賀藤林砦 藤林疾風



 晴天だが強風の西風が吹き、底冷えのする日が続く、暮も押し迫った年の瀬だが。

 伊賀には行商に出ていた男衆や、巡業していた伊勢巫女の皆が続々と帰省し、賑やかな笑い声がそこかしこで響いている。


 父上達は男衆の労をねぎらい、毎晩のように酒宴をして、一人一人から旅先での苦労話を聞いている。

 俺や母上達は、孤児院の子供らと一緒に、伊勢巫女の役目を果たして帰った巫女娘達に、美味しい食事でねぎらっている。

 父上や俺達が一番嬉しかったことは、旅先で命を落とす者が一人も出なかったことだ。


 そんな行商や巫女の皆には、売上や報酬を得た1割を、小遣いとして自由にさせているのだが、禄を貰っているのだからと、わずかばかりを家族への土産に使うだけで、売上として納める者ばかなりだ。


 中には、家族の他に土産を持って帰る者もいる。それはお目宛の女性だったりするのだが、母上とか綺羅に買って来る者が意外にいて、二人の人気の高さがうかがえる。

 孤児院の子供らにも巫女達からお土産だ。

 女の子は木彫りの簪や帯留め、男の子には木彫りの玩具。皆嬉しそうだ。



 年の暮は皆で大掃除をして餅つきをして、天麩羅の入った年越し蕎麦を食べる。

 それと、口取り(おせち料理の菓子)には今年試作したジャムの菓子パン。

 調理人に率いられた女衆が作った、お節の重箱はお正月用だ。




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永禄9(1566)年 元旦 伊賀藤林砦 

藤林疾風



 戦国時代のお正月も今と変わらず、民家でも入口に門松を飾り歳神様を家に迎える。

 そして松の内が過ぎると歳神様を見送り、お供え餅を割る鏡開きを行う。


 門松が松と竹なのは同じだが、今と違い竹の切り口は、平に切られた『寸胴ずんどう』なのだ。寸胴に対して斜めの切り口を『そぎ』という。

 『そぎ』が広まったいわれは、武田信玄が三方ヶ原の戦いで大敗をさせた家康に、新年の挨拶として送った和歌が端緒と伝わる。


 信玄は「松枯れて 竹類なき あしたかな」という和歌を送った。

 松は松平家を指し、家康が滅びてこれから竹が(武田)繁栄するという内容だ。

 これを見た家康は、怒りを込め歌を返す。

「まつかれで たけたぐひなき あしたかな」

 松枯れ(ない)で 武田首なき 明日かな。

 松平は滅びないで、明日には武田の首がなくなるぞという意味だ。

 そして飾ってあった門松の竹を、武田家の信玄の首を切るかのように斜めにそぎ落としたという。また、竹槍にしたとも謂われる。


 凧上げも四角い凧に足がついている形から『烏賊いかのぼり』と呼ばれ、戦においても通信手段や遠くへ放火する道具として使われていた。


 戦国時代の武家では、お正月に鎧兜の前に餅をお供えしていた。

 このお供え餅は鏡餅とは言わず、具足餅や武家餅と言っていた。お供えして一定期間が過ぎると『具足祝い(開き)』の呼び名で、小槌などで砕いて食べていた。

 これが『鏡餅 · 鏡開き』の始まりとされている。



 そして元旦。孤児や巫女の皆で伊勢神宮へ泊まり掛けの初詣に出かける。川舟に乗り、ほとんど一日掛かりだが、幼子達も巫女達に抱かれたり手を引かれて伊勢神宮を目指す。


 神宮では、神官や巫女の皆さんが迎えてくれて、お参りとお祓いをしていただける。

 それから幾つかの神事を拝見して、神宮の境内で『伊勢大神楽』という獅子舞の奉納を見る。

 獅子舞は、飢饉や疫病除けに獅子頭を作り正月に獅子舞を舞う行事だ。

 今夜の宿は、伊勢神宮にある宿坊だ。




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永禄9(1566)年1月20日 伊賀藤林砦

藤林疾風



 正月の松の内も終わったこの日、近江からの来客があった。来客を迎えて舘の広間には藤林の身内と言える一同が顔を揃えている。


 両親と綺羅と養女となった八重緑、家老の半蔵殿と百地殿、伊賀警備奉行の弥左衛門と藤林家警備奉行道順、俺の側近の才蔵と佐助侍女の楓と絋と乳母の梅、台与と侍女の志乃と由貴。

 なぜ皆が揃っているかと言うと、来客というのが台与の父親の平井加賀守殿だからだ。



「娘を救ってくだされ、感謝の言葉もありませぬ。幼い頃に母親をなくし、不憫な思いをさせて来て、浅井家への婚儀では不幸な目に合わせ、親としてやるせなさで、いっぱいでござった。」


「平井殿、そう畏まられるな。貴殿の許しもなく、台与殿を藤林の養女にしたこと。

 改めてお許しを賜りたい。」


「もちろん構いませぬ。こちらからお願いすべきことでありますれば、異存などありませぬ。」


「父上。台与は父上のことを恨んだり、これまでの身の上を嘆いたりしておりませぬ。

 今は伊賀に来て、この上なく幸せに過ごしております。」


「おお、何よりじゃ。儂もこれで、安心して死ねるというものじゃ。はははっ。」


「加賀守殿、六角家は危ういのでしょうか。」


「もう嘗ての六角家ではござらぬよ。家臣と見下していた浅井家に攻められ防戦一方で、六角家を見限り、浅井家に寝返る家も出ておりますれば。」


「加賀守殿は六角家と心中なさるおつもりですか。平井家には郎党も領民もおりましょう。」


「六角家には代々仕えて来た恩義もありますれば、某が当主でいる限りは、見捨てられませぬ。」


「 · · では俺に家督をお譲りください。」


「えっ、それは、どういうことですかな。」


「台与殿を俺の嫁にください。」


「えっ、それは台与、いかがじゃ。」


「はい、喜んで嫁ぎまするっ。」


「はぁ、台与も異存はないとのこと、某にも異存はござらぬが、家督を譲ればどうなさる。」


「俺は六角家に恩義はありませぬ。平井家中領民こぞって、伊勢に移民させまする。

 あたら泥舟と共に沈むなど、見過ごせませぬ。」


「分かり申した。宜しくお頼み申す。」


「よし、手はずどおりじゃ。皆の者、婚儀の仕度にかかれっ栞っ、花嫁の用意を頼む。」


「ええ用意はできておりますよ。台与ちゃん隣のお部屋でお着替えよ。さっ、急いで。」



 そうして、俺と台与の婚儀が始まった。

 実はずっと前から、平井家を救うにはどうしたら良いか、皆で知恵を絞っていて、俺が婿入りして当主になり、近江の領地を捨てて移民することに決めていた。

 台与ちゃんには、いつ嫁に貰ってくれるのかと、せっつかれていたしね。


 別室には伊勢神宮の神官さんが控えていて別館の大広間で行われた結婚式には、伊勢巫女や孤児院の皆、それから急きょ知った砦の内外の人達が参列して、大賑わいになった。

 そわそわして落ち着かないのは俺だけで、台与ちゃんも皆も落ち着き払っているのが、不思議だった。

 ああっ、俺の他にあわあわしてる人が一人いた。花嫁の父平井加賀守殿だ。

 突然、娘の結婚式が始まるとは予想できないよね。



(えっ、平井家に婿入りして、平井疾風になるのかって? 平井家の当主になるのは一時的なもので、加賀守殿の息子に家督を譲って藤林家に戻るよっ。)





【 平井定武の娘 】

 浅井長政に嫁いだとされる、六角家の宿老平井定武の娘の名は、記録がない。

 それこそが、婚儀がなされなかったことの証明にほかならない。なぜなら、婚儀がされていれば彼女はお方様であり、『○○の方』というような呼称があって残ったはずなのであるから。

 彼女の名誉のためにも、事実を記したい。

 まず、浅井長政の嫡子 万福丸を産んだという通説は全くの誤りだ。

 浅井家が滅ぼされ、万福丸が処刑された天正元(1573)年『信長公記』に「浅井備前が十歳の嫡男」とあり、永禄7(1564)年生まれとわかる。

 浅井長政は、事実として永禄3(1560)年に15才で元服し、その年の4月に平井の娘を離縁し、8月に野良田の戦いで勝利している。

 もし、万福丸の母だとすれば、処刑時には万福丸が14才でなければならない。


 また、当時の婚儀の時期は、兵を招集できない農繁期を選んでしたから、3〜4月、9〜10月であり、元服前に結婚するはずもなく、永禄3(1560)年の1月に元服、3月に婚儀、4月離婚というのが妥当と見られる。

 従って、婚儀がなされた記録もなく、婚約解消というのが実態と考えられるのである。

 六角承禎が臣従の証にしようと家臣の娘を正妻にせよと送り付けたが、元服したばかりの主君の下で、浅井家中では戦するか揉めた後に送り返したのであろう。

 まあ、戦前までの日本は、貞操観念などは希薄で出戻りと、非難されることはなかったようだが。

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