第六話 永禄の変と甲賀 和田惟政

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【 緊急報告ですっ。 】

 驚きですっ。歴史部門で週間ランキングでベストテン入りして『9位』に入りました。

 日間順位も『2位』、応援していただいた皆様のおかげです。

 フォロワーの皆さんが47人になった時に『悪稿老師の討ち入り』は言えなかったけど、嬉しいですっ、ありがとうございます。

 

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永禄8(1565)年5月下旬 伊賀藤林砦 

藤林疾風



 伊賀の山々に青々とした樹木が生い茂り、水を入れた田には、田植えを終えた苗の緑が映えて、初夏の訪れを感じる季節となった。 


 そんな中、京の見張組から急報があった。 

 二日前の5月19日、京の二条御所が襲撃され、幕府13代将軍 足利義輝が殺害されたとの報せだ。史実の『永禄の変』だ。

 襲撃をしたのは、三好義継や松永久通らの軍勢であるとのこと。


 事件の知らせは、伊賀甲賀伊勢各地の代官に速報し、6月初旬の定期評定で変事の詳細と我が領への影響を協議し、畿内の大名達の動静に注意を払うことを周知した。


 永禄の変の原因は、将軍足利義輝が三好家との敵対を崩さないばかりか、三好家の重鎮らが、次々と暗殺とも見える死を遂げていることに、業を煮やした三好三人衆主導の下、将軍の挿げ替えを意図したものではないか。

 ことに将軍の側近で、側妾の小侍従局の父進士晴舎は、三好家に敵対する急先鋒とされ三好長慶殺害未遂の黒幕とも思われていた。

 ましてや、進士晴舎は変事の際の訴状の取次ぎに当たっており、逃げ出した義輝の娘を産んだばかりの小侍従局も、後で捕えられて斬首されている。

 訴状に進士晴舎や小侍従局の引渡しの要求があったなら、押し問答になったであろう。

 定かなことは分からない。進士晴舎は三好勢を二条御所に入られたことを詫びて、義輝の御前で自害してしまっているからだ。




 史実であれば幕臣である甲賀の和田惟政が将軍の弟である覚慶を助け出すのだが、伊賀に臣従して、今は甲賀の警備奉行をしているから、そうはならないかと思っていた。


 それが今日、和田惟政殿が訪ねて来て父上に願いの儀があるとの申し出があった。

 父上は家老達と俺に同席を命じて、それで今書院に来ている。


「和田殿、どうかされたかの。甲賀の警備で何か、ありましたかな。」


「大殿、誠に申し上げ辛いことなのでございますが、私事にてお願いの儀があり罷り越しました。

 私は先年、幕臣として亡き義輝公に仕えておりました時期があり、意見を違えたことで蟄居を命じられ、幕臣を辞しております。

 幕府とはそうしたご縁があるところ、此度の事件で、難を逃れた幕臣の細川藤孝殿より義輝公の弟君『覚慶』様が幽閉されており、このままではいつ殺されるやも知れぬ故に、救出の手助けしてほしいと文が届きました。

 今は伊賀の下に、領民の一人として生きる立場でございます。

 しかし、将軍家には恩義もありますれば、此度の儀を私個人の一存にて、私事としてお許し願いたく罷り越しましてございます。」



 見張組の報告によれば、覚慶は松永久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉されているはずだ。


「救出していかがするつもりじゃ。」


「六角殿の下へ、お連れしようかと。」


「疾風、いかが思う。」


「覚慶殿は御年28才のはず、ご自分の考えをお持ちかと思いますよ。

 あたら兄君の死で巻き添えになるは不憫。 

 救出をすることはやぶさかではありませぬが、そのあとのことを考えねばなりません。

 たとえ和田殿の私事であっても、伊賀が関わったと知れるのは避けねばなりません。」


「御曹子、いずれにせよ、手を貸せば幕臣達から伊賀が助けたと知れてしまいますぞ。」


「若殿は、お助けする気ですな。はて、どのような企みをお持ちですかな。ふふっ。」


「百地殿、俺を悪者みたいに言わないでほしいな。まあ、手立てはあるにはあるけど。

 父上、伊賀が直接手を貸さなければ良ろしいのですよ。雑賀衆を雇って使いましょう。

 和田殿、雑賀衆との交渉をお願いします。

そうなると、覚慶殿の救出の指揮もですが、よろしいですか。」


「御曹司ありがとうございます。この御恩、和田惟政、一生涯忘れませぬ。」




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 7月28日、奈良の興福寺に伊勢屋の数台の荷車が入って行った。一条院門跡の部屋へ挨拶に入った伊勢屋の手代と伴の者二人は、四半刻もして退出して行った。

 その後の門跡の部屋からはお経を上げる声がしていたので、周囲を監視する三好の兵は怪しむことなく、警備を続けていた。

 だが半刻後にはお経が途絶えて、訝しんだ三好の兵が部屋に入ると、中はもぬけの殻であった。

 覚慶が逃亡したと気づいた三好の兵達は、すぐに追っ手を四方に走らせた。


 そのうちの一組は僧形姿の一行を見つけ、捕縛しようと近づいたところ、雑賀党の八咫烏の旗を掲げた一党に射撃を浴びせられ、追跡を断念して逃げ帰った。



 覚慶の一行は雑賀衆に護られて、大和から木津川を逆上り伊賀を経由して、都から遠くない近江国の矢島村に辿り着き在所とした。(矢島御所)

 六角家の兵に警護が代わるまでは、雑賀衆が警護をしていた。


「雑賀衆は、覚慶様にお味方されぬのか。」


「我らは傭兵。さるお方に雇われて覚慶様の警護をしておるのですじゃ。

 六角家の兵達が来れば、用済みにておさらばしますのじゃ。」


「そなた達を雇い、覚慶様に助力してくれたさるお方とは誰なのじゃ。」


「そのお方は、亡き義輝公に御恩を返すためと申されておりましたのじゃ。身元は明かせんのじゃと。」



 覚慶は、還俗して義秋と名乗り、義輝公の側近達の、一色藤長、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝らを従えて、足利将軍家の当主であることを宣言した。




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永禄8(1565)年8月 伊賀藤林砦 藤林疾風



「あの時は、内心冷や冷やでしたよ。だって 

 興福寺は南都六宗の法相宗なんですよっ、なのに俺が唱えたのは、真言宗の般若心経、なんですからね。

 興福寺のお坊様に聞こえて咎められたら、どうしようかと思ってましたよっ。」


「夜霧丸。それならば、他のお経を覚えに

いろんな寺へ修行に行ってはどうじゃな。」


「え〜。父上、お経が幾つあると思ってるのですか。全部覚える頃には、よぼよぼの年寄りになっちゃいますよっ。」 


「「「あははっ、」」」



「夜霧丸殿はようやりましたぞ。坊主姿の『七方出しちほうで』の腕前も、なかなかのものでしたな。はははっ。」


 七方出とは、虚無僧、出家、山伏、商人、放下師(大道芸)、猿楽(物まね)、『常の形』を言い、常の形とは武士や百姓、町人達で、他国に住み着き、草として潜伏する場合だ。

 戦国時代の関は、武士や百姓、町人は他国への逃亡を防ぐため通さなかったのである。

 ちなみに今回の救出作戦にあたり、伊勢屋の商人に扮し、覚慶殿に入れ替わり、お経を唱えたのは夜霧丸くんである。



「夜霧丸様は、ご活躍なさったのですね。」


「ええ、そうよ台与ちゃん。夜霧丸殿はもの凄〜く、活躍したのよっ。

 それに比べて、うちの疾風は陰から隠れて見てただけだってよっ。」


「まあっ、栞様。全ては疾風様の策略なのですから。ただ隠れていただけなんてっ。」


「「「あんまりですわっ、あははっ。」」」


「綺羅も、綺羅もっ。隠れんぼ、上手だもんっ。」


「あら、綺羅はいつも疾風の後ろに隠れているだけでしょっ。すぐに笑うから、楓たちが耳を塞いでないとすぐにばれちゃうわっ。」


「だって、だってっ。面白いんだもんっ。」


「「「ふふっ、(ほほほっ、)」」」



 今日は藤林砦に、望月家一家と和田惟政殿が見えている。和やかなのはいいが、なんか知らんが、最後に俺を弄った話になるのは、やめてほしい。

 覚慶殿の救出劇は、こうして終わった。





【 関 所 】

 飛鳥時代の大化改新の詔に「関塞せきそこ」を、置くとあり、これが始まりとされている。

 東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関が、畿内を防御する三関であった。

 鈴鹿峠から東を、東国や関東と呼んだ。

 平安中期以降は愛発関が逢坂関に代わる。

百人一首の『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』である。

 戦国時代の関は、関銭を取るが通行の安全を保証し、その礼銭としての側面があった。

 戦国大名の領国一円支配が広がるに連れて個々の勢力での勝手な関所の設置は否定され次第に減少していった。

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