第43話 私にはできる
「パストゥール夫人? 一体何を」
不審そうに尋ねてくるディオン様に視線を向ける。
「お医者様が到着するまでできる限りのことをやってみます」
「あなたは治癒魔術を」
彼に返答せず、視線を戻して手に魔力を集中させると乏しい光が手の周りを浮遊し始めた。
「っ」
小刻みに震えた自分の手を見つめる。
アレクシス様を失いそうな恐怖で心が乱れているからだろうか。差し迫った時間に焦りを覚えているからなのだろうか。ミレイさんの手を治癒した時にも満たない力しか発揮できない。
これでは焼け石に水どころか、いたずらにアレクシス様を苦しめるだけだろう。
ブランシェなら。ここにいるのがブランシェなら、きっとアレクシス様をお助けすることができるのに。私ではアレクシス様をお助けすることができない。ささやかな傷を治せてもアレクシス様のお命まではお救いできない。彼のお命を守ると宣言したのに。私には何もできな――。
頑張って!
不意に少女の叫び声が頭の中で響いた。
誰かを励ますような、自分を奮い立たせるような決死の思いが込められた力強い声だ。
そうだ。私はまだ何も頑張っていない。今、私ができる最大限のことをしていない。私はまだ死力を尽くしていない。諦めている場合ではない。自分の無力さを嘆いている暇はない。
もっと集中するんだ。奥へ。もっと奥へと集中すれば見えてくるものがあるはず。奥へと手を伸ばせばそこに捉えられる何かがきっと。
さあ。それをつかまえるんだ!
今にも消えんばかりだった光が勢いを増して大きくなる。
しかし直後、目の前に火花が散り、頭部を鈍器で殴られたかのような頭痛が起こる。激しい痛みと共にめまいがして景色が揺れたかと思うと真っ赤に染まる。
「奥様!」
目の前に広がる赤い光景。
この光景はいつかどこかで見た光景。
どこかで見た遠い記憶。
――めてやるよ。
誰かの声がまた頭の奥から響いてくる。
――を取ったらお前を認めてやるよ。
誰かが、少年が不遜そうな口調でそう言った。
しかし強い波が岩にぶつかる音で少年の声がかき消されて聞こえない。
何を? 何を取ったら? 何を取ったら認める?
すると少年は真っ直ぐに崖を指差した。
赤い花を。
崖に咲く赤い花を。
――あの崖の花を取ったらお前を認めてやるよ。
不敵に歪ませて笑う少年の唇が見える。
――何て意地悪な方! そんなことをする必要なんてありません!
誰かに振り返った少女は言った。
――はっ。女に庇われて尻尾を巻いて逃げるのか。情けない奴!
――こんな方のお話を聞くことはないです。行きましょう。
――いや。やる。取って君の髪に付けるから。そしたら。
はやし立てる少年らや、いさめる少女、決意する凛とした少年の声が頭の中で聞こえた。
崖に咲く赤い花。
度胸の証は赤い花。
少年の手に強く握られた赤い花。
赤い花で視界いっぱい埋め尽くされる。
……違う。
これは赤い血。じわりと地面に広がりを見せる赤い血。足を滑らせて落下し、地面に激しく叩きつけられた少年の鮮やかな赤い血。
動かなくなった少年に駆け寄る少女。
恐ろしい光景に逃げ出した少年ら。
――頑張って!
――死んじゃだめ!
――わたくしが絶対に助けてあげるから!
少年の傷口に手を当てて叫ぶ少女の声が頭の中で響いた。
あれは誰の言葉だっただろうか。誰の声だっただろうか。あれは、そう。よく聞いたことがある声。ブランシェの声。……いいえ、違う。私の声。私の言葉。
そうだ。この光景はあの時の私。
できるはずだ。私にはできるはず。大丈夫。できる。私にはできる!
あの時と同じように、足りない魔力は命を削ってでも作り出してみせる!
手からひときわ強い光が放たれると体が炎に包まれたように灼熱感を覚えた。
これは命の炎。アレクシス様の命の炎。
「奥様! いけません!」
私はまだアレクシス様に感謝の言葉を述べていない。
「お止めください、奥様! これ以上は奥様が倒れてしまいます!」
私はまだ謝罪していない。私の話を聞いてもらっていない。アレクシス様がお尋ねになりたいことに何一つ答えていない。
「駄目です奥様! 奥様、お止めください!」
「奥様!」
「――シェ」
力ないかすれた声とは反対に誰かが私の手首を強く握った。
「ブ、ランシェ」
聞き慣れた私を呼ぶ声にはっと我に返る。
とっさにアレクシス様へと視線を向けると、まだ焦点が定まらぬ虚ろな瞳だったが目が開かれ、苦悶の表情が和らいで顔には少し血色が戻っていた。
「も、いい。も、力を収め……」
「アレ、クシス様?」
「大っ……夫だから、もう力を収め、てくれ――ブランシェ」
わずかに開かれた唇からアレクシス様のはっきりした声が最後にこぼれ出た。
「アレクシス様……」
「旦那様!」
「アレクシス!」
意識を取り戻したアレクシス様を次々と呼ぶ声が上がったその時。
「医師が! 医師が到着いたしました!」
背後で慌ただしく人が駆けつけてくる気配を感じた。
「旦那様、今。今、医師が参りますから!」
「私、よりブラン……っ」
「こちらだ! 意識を取り戻した。早く診てくれ!」
ディオン様に急かされたらしいお医者様が近寄り、私は少し身を引くと彼はアレクシス様の状態を素早く確認していく。アレクシス様に何か話しかけているようだが、どくどくと高鳴る心臓の音がうるさくて私の耳には何も届かない。あるいは今、言葉を理解する能力が急激に低下しているのかもしれない。
「これは……。救命処置が良かったようですね。体調は安定しております。もう命に別状はありません。大丈夫です」
「パストゥール夫人、あなたのおかげです! ありがとうございます。パストゥール夫じ――っ!」
私にかけられた言葉は分からないが、振り返ったディオン様の明るい表情を確認して、ああ、もう大丈夫なんだとほっとしたのを最後に私の思考は闇へと吸い込まれていった。
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