第19話 弱さから目を逸らさない
今日は午後から結婚祝いの確認とそのお礼状を何枚もひたすら書き続けて、疲れてしまった。手首も痛いし、目も疲れた。しかしパーティーを定期的に開く貴族では計画を立てたり、招待状を出したりとかなりの仕事量で大変だと言うから、これぐらいのことで根を上げていては駄目だろう。
そうは思うが、疲労でソファーに倒れ込んだ体を今すぐ起こすことは難しい。
あ。そう言えば。
ブランシェが戻って来て、入れ替わったら私はまた自分の結婚祝いのお礼状を返戻することになるのか。
……私の結婚、か。
戻って来たところで、ブランシェと駆け落ちした私の婚約者と結婚することはないだろう。あるいは体裁が悪いからそのまま結婚を強いられるのだろうか。そのことを考えると今から憂鬱である。――まあ。先のことを考えても仕方がないこと。今は今できることを精一杯することだ。
気持ちを切り替えると共に体を起こした。
すると部屋の扉がノックされる。
「はーい。ただいま」
扉の近くにいたライカさんが対応に当たってくれた。
「……はい。承知いたしました。お伝えします」
ライカさんは扉を閉めると私の元へとやって来る。
「奥様、旦那様のお帰りは夜遅くなるそうです。先にお食事を召し上がってお休みくださいとのことです」
「そうですか。どれくらい遅くなるのでしょう」
「それは残念ながら分かりかねます。ただ、三日間お休みを取られましたので、その分のお仕事はたまっているのではないかと」
三日分の仕事量。
もちろん一日で片付けるわけではないだろうが、早く処理しなければならない案件も多いことだろう。
「そうですよね。申し訳ありません。では食事のご用意をよろしくお願いいたします」
「はい。承知いたしました」
「ただ、あの。このお部屋で食事を取ることはできませんか」
昼間はともかく夜に一人で食事するにはあまりにも広すぎる食堂で、そこで食事するのは必要以上に孤独を感じそうでつらい。女主人としての心構えができていないとまたボルドーさんに叱られそうだが。
「可能だと思いますが、侍女長にも相談してみますね」
ライカさんはそう言うと、早速尋ねに行ってくれた。しばらくして戻ってきた時にはグレースさんと共に食事も一緒に運んできてくれた。
「大丈夫だったのですね。ありがとうございます」
「はい。すぐにご用意いたしますね」
グレースさんとライカさんは手慣れた様子で、テーブルに配膳していってくれる。それが終わると、では失礼いたしますと二人は出ていこうとした。
「あ」
思わず引き留めようとする声が漏れたが、振り返る二人に私は口をつぐむ。
さすがに一緒に食事してほしいとは言えない。言ってはならない。主人と使用人の関係を崩してはいけないのだから。むしろここまで私のわがままを聞いてもらったことに感謝すべきだ。
「いえ。ありがとうございました」
笑顔を作る私にグレースさんは微笑を返す。
「ライカ、あなたは部屋に残りなさい」
「はい。承知いたしました」
ライカさんはグレースさんの考えを読んだようで尋ね返すことなく、すぐに頷いた。
「あ、あの、グレースさん」
「さすがに主人と使用人がテーブルを一緒にすることはできませんが、賑やかしにはなるでしょう」
「ですが、それですと」
私が食べているところをライカさんはただ黙って見ておかなければならない。それは申し訳なさすぎる。
「大丈夫ですよ。慣れておりますから。美味しそうだな、羨ましいなー、食べたいなーと思いますが」
「ライカ」
「うふふ。嘘です嘘です。奥様、大丈夫ですよ」
「……はい。ですが」
ライカさんの気持ちは嘘ではないことは分かっている。けれどその気持ちが分かるだけに、下手に彼女らを引き止めてしまったことを深く後悔した。
「奥様」
「は、はい」
グレースさんに声をかけられて、いつの間にか視線を落としていたことに気づき、顔を上げる。
「わたくしは前パストゥール辺境伯夫人、つまりアレクシス様のお母様に当たるお方ですが、同じことをお願いされたことがあるのです」
「え? アレクシス様のお母様にですか?」
ブランシェの結婚式の時に一度だけお会いしたお母様の姿を思い出す。
気丈夫で凛とした気品あるお美しい方で、まさに理想にすべき立派なパストゥール辺境伯の妻であり、女主人というお姿だった。
「はい。ヴァネッサ様もまた旦那様がご不在時、広い食堂で一人食べたくないので部屋で食事したいとおっしゃったのです。その際、わたくしもテーブルを一緒にしてほしいと」
わたくしはその時、侍女長ではなかったのですけれどねと補足する。
「え……」
グレースさんはくすりと笑う。
「もちろんその時も丁重にお断りしましたが、お部屋にご一緒いたしました」
今は引退されて仲睦まじくお二人で別宅にお住まいになっているが、お義母様もお義父様がご不在の際には一人心細く思われる夜があったのと思うと不謹慎だが何だかほっとした。しかしそんなことを思う自分もまた嫌だ。
自嘲する私の心を読み取ったようにグレースさんは続ける。
「誰も最初から完璧なパストゥール家の女主人となれるわけではありません。夫を知り、家を知り、自分の弱さを知って認めることで、初めて一人前の女主人となることができるのです」
自分の弱さを知って認める。
弱くてはいけないと自分自身を叱咤するのではなく、認める?
「自分の心を無視して自分を守ることもできない者が、何かを、誰かを守ることなどできるはずがありません。ご自分の弱さから目を逸らさず向き合ってください。受け入れてください。そうすればそれはもはや弱さではなく、自分を成長させる糧となってくれることでしょう。誰かを真似て背伸びする必要はありません。奥様は奥様なりの女主人を目指せばよいのです」
「……はい。ありがとうございました」
グレースさんの言葉に胸を打たれた私は、立ち上がると深い感謝と尊敬を示すために最上級の挨拶を取った。
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