第5話 たとえ歓迎されなくとも

「――シェ。ブランシェ」


 妹を呼ぶ男の人の声がすぐ側から聞こえてくる。

 呼んでいるわよ、ブランシェ。


「ブランシェ」


 ほら。

 あなたを呼んでいるわ、ブランシェ。ブラン――違うっ!


「は、はい! わたくしがブランシェです!」


 私はびくりと肩を揺らして勢いよく身を起こすと、すぐ横で人影が素早く動く姿が目の端に映る。


 え、誰!?

 自分が置かれている状況を思い出した今、もちろん思い当たる人物は一人のみだが、慌てて横を見るとやはりそこにいたのはブランシェの夫、アレクシス・パストゥール様だった。

 私の言動に驚いた動きをしていたように思えたが、彼へと顔を向けた時には何事もなかったかのように既に落ち着いた姿だった。


「驚かせて悪い。もうすぐ到着するからそろそろ起こそうかと思った」

「そ、そうですか。ありがとうございます。わたくし、いつの間にか眠っていたのですね。目覚めで騒いでしまい、申し訳ありません」


 眠ったというより心身ともに疲れ果てて意識を失った、という方が正しいのかもしれない。寝ている姿を見られるだけでも十分恥ずかしいのに、目覚めてなお自分を追い込むように、わたくしがブランシェです、なんて強く主張してしまった。寝ぼけていたとは言え、穴があったら入りたい。なかったら掘ってでも入りたい。

 熱く火照った頬を隠すように手をやる。


「いや」


 ……ん? あら? でもなぜアレクシス様が私の横に座っているのだろう。私の場所は変わっていないので、彼が私の横に座ってきたのだろうけれど。――あ。


「も、もしかしてわたくし、アレクシス様の肩をお借りしていたのでしょうか」


 アレクシス様は少しきまりが悪そうに私から視線を外す。


「大きく揺らいでいたので、危なっかしくて見ていられなかった。勝手して悪かった」

「いえ。とんでもないお話でございます。ありがとうございました」


 お礼を述べるとアレクシス様は小さく頷いた。

 なぜかそのまま私から視線を逸らそうとはしないので、私の方が気まずくなって逃げるように窓の外へと視線をやった。しかし暗くなった町並みは日中の活気づいているという様子を捉えることはできない。


「も、もう到着するのですか」

「ああ」


 地元を出発したのは昼頃だったが、今や天頂にあった太陽は周囲の空を美しく茜色ににじませながら連なる山々の間に身を沈めていくところだった。


「きれい……。アレクシス様が守るこのサザランスは、太陽も安心して眠れる寝所なのですね」


 沈む太陽など地元でも見られるいつもの光景のはずなのに、なぜかそう思う。


「――はっ。な、なんて!」


 我に返ると自分の台詞があまりにも子供っぽい夢想的な言い方に思えて、取り繕うためにアレクシス様へと向くと、彼は小さく柔らかな笑みをこぼしていた。


「ありがとう」


 ……笑った。

 死神の笑みは先ほど早々に体験したが、こんなに穏やかにも笑える人だなんて。


 目を離すのが勿体なくて思わずまじまじと見つめてしまったが、彼は困惑したようにすっと笑みを消した。


 残念。笑顔を消してしまった。

 がっかりしていると、馬車の速度が緩やかになるのを感じた。


「もう間もなく到着だ」


 アレクシス様の言葉通り、馬車は静かに止まった。彼は一通り安全を確認すると立ち上って馬車の扉を開け、先だって馬車を降りる。


「ブランシェ」

「はい」


 私の名を呼ぶと手を差し伸べてきたので、私はその手を取って新しい地へと降り立つ。

 町並み同様、屋敷の外観を捉えることはできなかったが、体感的にかなり立派な屋敷だと思われる。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「ああ」


 侍従長だろうか。扉前で待っていた品格のある老年の男性がアレクシス様にしずしずと礼を取った。


「ブランシェ、彼は侍従長のボルドーだ」

「ボルドー・オルティスと申します。何かご不便がございましたら、何でもお申し付けくださいませ」

「ありがとうございます。わたくしはア――ブランシェ・ベルトランと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 家格が高いお家に嫁ぐのだ。一挙一動を見られるような気がした私は緊張しながら慎重に礼を取る。


「奥様。ご結婚なさったのですから、ブランシェ・パストゥールですね」

「は、はい。申し訳ありません」


 早速指摘が入って身を小さくしていると、アレクシス様はとりなすように口を開いた。


「ボルドーは色々と細かい所があるが、古くから仕えてくれていてパストゥール家の全てを統括してくれている。家で分からないことがあったら彼に尋ねてくれ」

「はい。承知いたしました」


 アレクシス様に返すと改めてボルドーさんを見る。


 パストゥール家に仕える方々は、何一つ不手際がないように厳しい教育を受けた方ばかりなのだろうか。不必要な愛嬌を振りまくことはない。あるいは世話をしなければならない厄介な頭数が増えるわけだから、歓迎されていないのかもしれない。果たして彼らとうまくやっていけるだろうか。


 太陽の沈んだ見知らぬ地は心細く、暖かいこの季節なのに冷たさすら感じる中、穏やかな風が私の頬をするりと撫で去った。

 地元とは違う木々の優しい香りを運んできてくれた風は、まるで応援してくれているかのようで、ほんの少し私の心を和らげてくれる。


 ――そう。

 私が自分で望んでここに来たのだ。自分の言動には自分で責任を取る。たとえ何があったとしても、私はこの場所で精一杯頑張ってみせる!(ブランシェと入れ替わるまで!)


 決意をしっかり手の中に固めると、アレクシス様が行こうと促した。


「はい!」


 優しくエスコートしてくれるアレクシス様に続いて私は足を前へと踏み出した。

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