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翌日の月曜日の昼すぎ、パソコンでスタイルシートのコードを書いていた。会社の営業が新たに取ってきた案件で、仕様書にはこれから作成するウェブサイトに記載する「SDGs」とか「ESG」という、最近流行の文言がならんでいる。新たに設立される予定の企業で、ジェンダーフリーや環境に配慮した経営を行うためのアドバイスをするコンサルタント会社のようだ。
グローバル、イシュー、ソリューション、サスティナブル、コミットメント、パラダイムシフト、ヒューマンリソース、フィージビリティー、アファーマティブアクション……、もはやどこの国の言葉なのかもわからない意識の高そうな単語を眺めてうんざりしていると、一階で固定電話の呼び出し音が鳴っているのが聞こえる。
率直なところ、美咲は電話に出るのが面倒くさく感じていた。美咲個人に用事があるなら、スマホに直接電話を掛けてくるか、メールかSNSのメッセージを送信してくるはず。母の敏子も、いわゆるガラケーというやつだが、携帯電話を持っている。固定電話にわざわざ電話を掛けてくるのは、保険やリフォームなどの勧誘ばかりだった。母に、「固定電話、契約解除したら?」と何度か言ったことがあるのだが、「もし何かがあったときのために」という曖昧な理由で、契約を続けている。
十回コールを終えても、電話は鳴り続けている。十五回、十六回と数えながら、一向に止まない。
美咲は仕方なく一階に下りて、受話器を上げた。
「はい、古瀬です」
「もしもし、二班班長の高崎と申します。お世話になっております。古瀬敏子さんはいらっしゃいますでしょうか?」
役員班長会議に出席していた高崎達子の姿を思い出す。六十代半ばで、ごく普通の婦人。白髪染めをする習慣がないのか、長い髪の毛はグレー。真夏でも濃い色の長袖のシャツに、足首まである長いスカートをはいていて、大きなハットをかぶっていた。
役員班長会議ではほとんど口を開かず、高崎が何かを主張しているところを見た記憶は美咲にはない。高崎の住む二班は、美咲の六班とは離れた位置にあるため、道端ですれ違うということもなかった。
「母なら仕事に行ってます。帰ってくるのは、五時くらいになると思いますけど、何か御用でしょうか?」
「あの、お願いしたいことがありまして……」
次の言葉を美咲は待ったが、なかなか出てこない。
「なんでしょう?」と催促する。
「回覧板で回してもらいたいことがあるんです。大事なことですので……」
「えっと……、回覧板のことなら、次の役員班長会議で提案すればいかがですか? 次の会議は再来週でしたっけ」
「できれば、早いほうがいいと思いまして」
何が言いたいのか、いまいち掴めない。
「まあ、私には決める権限はありませんので。母が帰ってきたら、そちらにお電話差し上げるよう言っておきます」
「お手数お掛けして、申し訳ございません。よろしくお願いします」
電話を切って、美咲は多少の不愉快を感じていた。回覧板の文書を作るのが、他愛もない作業とはいえ、そう何度も便利に使われると、気分のいいものではない。新たに買ったプリンタの黒インクも使用する紙も、美咲が自腹で購入したのだ。
今になってインク代を会計担当役員の東に請求しようかと思ったが、雄一郎に連れて行ってもらって買ったときのレシートはすでに捨ててしまっている。
美咲は自室に戻って、作業の続きを開始した。
五時すぎに敏子が帰宅してきた。
二班班長から電話があったことを知らせると、
「いったい、何の用じゃろね」と言った。
「よくわかんないんだけど、回覧板で回してほしいことがあるとか言ってたよ」
「何なんじゃろ」
達子は冷蔵庫にマグネットで留めてある自治会の名簿の紙をはずし、固定電話の受話器を上げてダイヤルした。
「あ、どうも。古瀬ですけど、お電話いただいたようで。ええ、ええ……。回覧板? 何でしょう……。被害者の名前? なんでそれがわかったんですか。ええ、ええ。そんなこと言われましても……。自治会長さんのほうにも聞いてみないと、いや、それは私には何とも。……すみません、何を言うとるんかちょっとわからないです。……わからないです。えっと、今からですか? いえ、問題ないですけど。……とりあえず、それを見ればいいんですね? お待ちしております」
美咲は敏子が受話器に向かってしゃべっているのを横で聞いていた。しゃべりながら、敏子の表情はだんだん険しくなり、眉間にしわが深くなっていく。
電話を切った敏子に、
「何なの、どんな用なの?」不信感と好奇心を消すため、美咲が訊いた。
「いやあ、正直、わからん。この前の殺人事件の被害者の名前がわかったとか言いよったけど、途中から言いよることの半分も理解できんかった。まあ、とりあえず今からうちに来るらしいけん、お茶でも用意して待っとくしかないじゃろ」電話で話すときと打って変わって、敏子はいつものように方言を使うようになった。
美咲が急須にお湯を入れていると、来客を告げるインターホンが鳴った。敏子が玄関のほうに向かう。
「お疲れのところ、いきなりすみません、お邪魔します」
「むさくるしいところですが」
そのような形式通りの挨拶の後に、敏子が高崎を仏壇のある和室に導いた。
敏子と高崎が冬にはコタツになるテーブルに向かい合って座った。両者とも正座をしている。
「どうぞ」美咲はそう言って高崎に熱い緑茶を出した。
「どうも、すみません」と高崎は丁寧に頭を下げた。
美咲はお盆を空になったお盆を畳の上の置くと、敏子の横に座った。どうやら高崎の訴えようとしていることに回覧板が絡んでいるらしいので、自分も話しを聞いたほうが良いだろうと判断した。
「で、いったい何のご用でしょう?」
「電話でもちょっと言いましたけど、この前の事件で殺された人の名前が判明したんです」
「なぜ、それを高崎さんがご存知なんですか?」
「先生に見ていただいたんです。亡くなった方の霊を降ろして、先生の肉体に憑依させて、語ってもらったんです。亡くなった方は、
思わず美咲は敏子と目を見合わせる。そして、敏子が得体の知れないものをみるような視線を高崎に向けた。
「あの……、その、先生というのはいったい、どちら様なんでしょう」敏子が言った。
「あ、すみません。そこから説明しなければいけませんね。
再び美咲は敏子と目を合わせる。
「えっと……、それは宗教団体ということでいいんですか?」
「まあ、世間一般の言い方をすれば、そうなるんでしょうが、清光弥勒会は宗教法人の法人格は持っておりませんし、自らの活動を宗教だという認識は持っていません。弥勒会は、いずれ現れる未来仏たる弥勒様をお迎えするための準備をする人が自発的に集まって、日々修行をしているのです。つまり、弥勒会の活動は宇宙の摂理なんです」
高崎はまっすぐな視線でそう言った。どうやら、洒落や冗談ではないらしい。
あなた頭狂ってるんじゃないか、そんな言葉が喉元まで出かかったが、下手に刺激するとどんな反応がやってくるのか、わかったものではない。何とか努力して苦笑を作り出すのが精一杯だった。
敏子が顔を引き攣らせたまま黙っているので、美咲が、
「で、その何とか会のことはわかりましたが……、いえ、正直言ってわからないんですけど……、それと亡くなった方とがどう関係するんでしょう?」と言った。
高崎は一口お茶を飲んでから、
「見ていただいたほうが早いと思います」
脇に置いていた小ぶりのバッグから、スマホを取り出した。六十代の人には似つかわしくない、最新のスマホだった。
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