御用商人**屋
@20211201a
始まり・・・語り継がれてきたこと
第1話 寛永9年夏
寛永9年(1632年)夏、肥後熊本藩の加藤忠広が改易された。
幼稚と言えば幼稚、不用心と言えば不用心。嫡男、光広殿のお遊びには呆れるばかり。諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作って遊ぶとは。このご時世、許される事ではない。
誰が後に座るのか衆目を集めるところ、細川ではないかとの噂が聞こえて来た。
話半分と聞き流していたが、京でもそのような話になっていると聞き対策はしておこうと決まった。
大殿曰く、「肥後は陸の孤島。江戸表の動きに遅れては改易も有りうる。小倉から熊本まで道を繋ぎ、小倉に足場を置かねばならぬ。」
宗清を呼べ・・・
*****
我らが主、宗清様から指示がでた。
小倉から熊本までの道を繋ぐ。
真っ直ぐ南に下り、日田・小国を抜け、豊後街道を通って熊本に繋ぐ。
やっかいな事に5里ほど黒田藩を通る。細川と黒田は犬猿の仲、悟られぬよう添田から先は修験者の形を取る。
一つ、求菩提山護国寺で往来手形(パスポート兼身分証明書)を頂くように。
二つ、・・・
*****
セッコク風嵐、モッコク風嵐、求菩提の山から天狗が来るぞ・・・
ここ、みやこ町では三郎と呼ばれている。道が延びて人が足りぬと声がかかった。
河内の国から爺様と来た。爺様は在家の修験者で、金剛山で修行されたそうだ。
「付け焼き刃の修験者など見る者が見れば、すぐに化けの皮が剥がれる。」
日が昇るとすぐに杖術と剣術の修練、修験者修行にホラ貝の練習、夜は爺様の話を聞く。
良い事もあった。普段は昼と夜の2食だが、体作りと言うことで一日3食になった。
*****
十月四日、肥後熊本へ国替えが決まった。将軍、家光様じきじきのご沙汰であった。
二つ、足場として小倉に残る者は、町屋へ。
武家屋敷を解体し、その材を使って町外れに屋敷が作られている。
出来上がれば「細川家御用達○○屋」、当主は助太夫。我らがお頭様だ・・・
宗清様には四人のお子がいる。
足場として小倉に残る者・・・敦盛が好きで幸若舞を舞う、少々型破りな末子の助どのが選ばれた。
「助太夫、兵三百、率いて思うさまやってみよ。」との事であった。
兄上達は新規お召し抱えとなり、熊本に移られた。
※幸若舞
幸若舞とは語りを伴う曲舞の一種。室町時代に流行。福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財の民俗芸能として現存している。能や歌舞伎の原型といわれ、七百年の伝統を持ち、大江天満神社にて毎年1月20日に奉納されている。(Wikipediaja)
*****
三つ、寂れた名刹を探し大門に寺を移せ。
寺をなぜ・・・今で言う役所、往来手形(パスポート)が無ければ藩を越えて旅は出来ない。
他藩は外国と同じ、関所を超えるには手形がいる。手形は住んでいる町の名主か、檀家になっている寺が書くと定められている。
*****
セッコク風嵐、モッコク風嵐、求菩提の山から天狗が来るぞ・・・
毎日、山を駆けている。日に10里(40Km)は軽く歩ける。
爺様曰く、道は一本では無い。添田から先、小国に抜ける道をすべて頭にいれておけ・・・
*****
普通なら江戸から京都まで10~14日、鴨川を下り大阪から山陽道で赤間関まで15~16日、海峡を渡って小倉までおよそ30日かかるところ我らは15日で通している。加えて小倉から熊本まで5~6日。これを「全行程15日で通せ」と、大殿は言われる。
「瀬戸内を船で渡れば・・・」と、申し上げたら「船を買え」ときた。
四つ、船を買え
新しく船を作るには時が足りぬ。使える船を探せ・・・
瀬戸内は穏やかに見えるが難所が多い。潮の流れ、風の向き、知らねば船は動かせぬ。
早船二艘に船頭、船子、支払いはどうするつもりであろうか・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます