第36話 選択


 私は久しぶりの家をリビングで寛いでいた。

 知ってしまった衝撃の事実をどう自分の中で言葉にしようかと迷いながら、気を落ち着ける為に紅茶を啜る。

 あれから、共に来てくれたザラさんにさえ何も言う事が出来なかった。彼女は様子のおかしい私に思うところがあったようだが、あえて聞かずにそっとしておいてくれた。

 最初に私の正体を伝えるとしたら、それはやはりロードリック以外には考えられない。

 言うべきか、言わざるべきか。

 私は人生最大の選択を迫られているのだった。

 言わなければ、私は今の幸福な生活を続けられる。ロードリックに愛を囁かれ、隣に妻としてこのまま立てるのだ。

 けれど代わりに、私の死後のロードリックに残されるものは何もない。

 言えば、私が今手にしているロードリックの愛を失うに違いない。

 以前コリンが話していたではないか。ハーヴィーの血統ならば、主人の子供としてロードリックは純粋な敬愛から大事にするだろうと。主人の血統に手は出さないだろうと。

 けれど私が他の人間との間に設けた子に、ずっと寄り添い続けてくれるだろう。それはきっと、長く生きるロードリックにとって救いとなる。

 ロードリック以外の、他の誰かと……。

 私は胸が苦しくなり、泣きそうになるのを堪えた。

 人間ではない人に嫁ぐと決めてから、子供を持つ事は諦めた。ロードリックに寄り添った時間はその悲しみを上回るぐらいに幸せで、構わないと心から思えた。

 それなのに、ロードリックが本当に求めるものが私の子供かもしれないなんて。

「クラリス。お帰りなさい」

 自分の考えに深く沈み過ぎて、ロードリックが帰宅していた事にも気づかなかった。

 後ろを振り向くと、リビングに入って来た彼の姿が目に入る。

 数日ぶりに見る彼は変わらない様子で笑顔を向けてくれていた。けれど私の顔が泣きそうになっていたのを見てしまい、表情が曇って行く。

「どうしたのですか? 旅行で何か嫌な事でもあったんでしょうか?」

 慌てた様子で傍に駆け寄ってくるロードリックが愛しくて、堪えきれなくなった涙が一粒頬を伝って落ちていった。

「……ハーヴィー様の血統が見つからなかったからですか?」

 言わなきゃいけない。

 私が、ハーヴィーの血統だったと。

 けれど感情が高ぶってしまって、否定の言葉を出す事が出来ない。

 その沈黙をロードリックは誤解したようで、泣く私を前に取り乱しながら私を宥めようとしてくれた。

「元々、見つからないつもりで貴女を送り出したのです。泣くほどの事ではありません」

 ロードリックはハンカチで私の目元を拭い、そのままそれを私の手に握りしめさせる。

 震える肩を抱きしめ、落ち着かせようとゆっくりと撫でてくれるその手を、自分の物のままにしたくてどうしても口が動かない。

 そんな私の内心など露知らず、ロードリックは私を抱きしめて頭を撫でてくれた。

「確かに、見つかれば喜んだでしょう。けれど見つからなくても、今はクラリスが隣にいてくれる。私にはそれで十分です」

 どうしてこの人は、私が欲しい言葉をくれるんだろう。

 本当に信じても良いだろうか。

 ハーヴィーの血統よりも、ただのクラリスを欲しているというその言葉を。

 その一言は、するりと私の口から出て行った。


「……私は、ロードリックを置いて逝きます」


 ロードリックの私を撫でる手が止まる。

 後々悲しむロードリックの時間を考えれば、愛されるのは罪だと思った。

「どうして貴方は、それでも私を愛せるの?」

 聞かずにはいられない。それでも躊躇なく私に手を伸ばせるのは、一体何故なのか。

 真意を探るように、彼が私を覗き込む。

「苦しめたくない。それだけは、私はしたくないんです」

 ずっと秘め続けていた感情を吐露する。

 それが自分の感情を彼に教えてしまう質問だとしても、これ以上抑え込むことは不可能だった。

 ロードリックは呻くように出されたその言葉を聞いて、表情を緩めていく。

「ずっと……そう思っていたのですね」

 私は溢れる涙を流しながら首を縦に振った。ロードリックは嬉しそうにその涙を指で拭う。

「幸せだからです」

 余りにも満ち足りた声色に、驚いて涙が止まる。金色に染まった瞳が蜂蜜のように甘く溶け、私に向かって細められていた。

「幸せ?」

 この愛は悲しみしか生まないと思っていた。絶対に、私達は離れるのだから。

 それなのに一片の悲劇もないように、彼は幸福の笑みを浮かべている。

「はい。クラリスと共にいるこの時間が、何よりも幸せなんです。後に悲しむ何倍もの時間と引き換えにしても構わない程に」

 それほどの幸福なんて、この世にある筈がない。

 けれど目の前のロードリックは唯々満ち溢れていて、眩さに目が眩む。

 

 それは美しく、永遠に輝く宝石のような愛だった。

 

 臆病で目をそらし続けていたそれが、一生のうちに一度手に出来るかどうかの貴重な物であることに不意に気付いてしまう。

 或いはそれは、ロードリックの長い時間にとっても同じ事であるのかもしれない。

 何重にも心を閉じ込めていた殻が、彼の思いに曝されて剥がされていく。

 この思いを口にしても、いいのだろうか。

 私はいつの間にか手の中にあったそれを、自分の物だと認める勇気を出した。

「……たった数十年しかいられません」

「はい」

 未来の貴方ではなく、今隣にいる貴方に全てを託しても良いだろうか。

「ロードリックが泣くところは見たくないんです」

「では、泣きません」

 子供の様なその顔も愛おしい。

「何があっても手放さないでくれますか?」

「勿論」

 ああ、それほどに力強く微笑んでくれるならば。

 四百年前を昨日の事のように思い出すこの人に、刹那の幸福を贈ろう。


「愛しています」


 ずっとずっと言いたかった言葉を、とうとう口にする事が出来た。重石を抱えていた心が羽が生えたように軽くなる。

 ロードリックの顔が甘く蕩けた。

「……私も愛しています。クラリス」

 柔らかい唇と共に、二人の思いが重なった。あるのは只、溢れるような喜びだけ。

 抱きしめてくるその人の背中に手を回し、暖かなその熱を共有した。

 ああ、生きている。過去でも未来でもなく、今この時に。

 先を見過ぎてしまう目を閉じて、その幸福だけに酔いしれた。

 まるで人間の男女のように私達は寄り添い合う。

 私は静かに、自分の血統の秘密を彼に告げない決意をした。

 

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