第5話 ご挨拶
その日、キーリー宝石店の扉には臨時休業を知らせる紙が貼られていた。けれど客のいない店内も、奥の自宅部分も、くまなく母さんはハタキを片手に忙しく歩き回っている。
そして不安げな表情を浮かべ、玄関の窓を雑巾で拭いているクラリスに聞いた。
「これでやり残した場所は無いかしら。何か思い当たる?」
「ええと……多分、これで大丈夫じゃない?」
「そうかしら。不安だわ」
そう言いながらハタキを手放すことなく、同じ場所を何度も行き来している。奥の台所では父さんがもてなしの食材を確認している筈だ。
二人共腰を落ち着ける気にならないようで、何かやる事を探して気を紛らわしているようだった。
まあ、それもそうよね……。娘が初めて恋人を紹介するって言ったんだから。
円満にロードリックさんと婚姻関係を結ぶために、両親は必ず突破しなければならない壁だった。その為にロードリックさんと打ち合わせをして設定を作り、今日がその紹介の日である。
「それにしても、もう少し教えてくれてもいいじゃない。カフェで出会った軍人さんって……、私全く気付かなかったわ」
「うん。……ちょっと複雑な人でね、私の口から説明するのが難しいの」
「もう。貴女の恋人なのよ? 会う前に何にも知らないなんて、おかしいじゃない」
「お願い母さん。あと少しの辛抱だから」
母さんは納得いかないような顔をしながらも時間を確認すると、ロードリックさんが来ると約束した刻限に差し迫っていた。
「あら。もう本当に直ぐね」
手に持っていたハタキを戸棚にしまい、台所の父さんに向かって声をかける。
「貴方。もう来るわよ」
その声を聞いて、小柄な父さんがいつになく不安げな表情で店内の方へやってくる。両手を何度も揉み、貴族相手にも臆せず宝石を売っていた商人の姿は全くなかった。
「しかしなぁ。小さかったクラリスがなぁ……恋人を連れて来るなんて」
その表情は愛情深い父親そのもので、胸の奥が切なく痛む。これから、どんな事情があれ、両親を騙そうとしているのだから。
赤子の時からこのキーリー家の娘をしていて、その間一度もクラリスは両親の愛情を疑った事は無かった。実の親の事が気にならない程に、二人は一心にクラリスに愛情を注ぎ続けてくれた。
だからクラリスは気兼ね無く他人に二人が自分の両親だと言うし、あえて養子であるのを告げたりなどしない。
ロードリックさんに言われた時、久しぶりにその事実を思い出したぐらいだった。
三人で今か今かと待っていると、家の前に馬車が止まる音が聞こえた。
「来たのかしら」
母さんが我慢できずに扉を開けて外の様子を窺うと、確かに馬車が二台明らかにこの店を目的として止まっていた。
それを扉の隙間から見た父さんは、貴族の家に出入りしている経験からその馬車が決して庶民が乗れるような種類の物ではないのを看破してしまったらしい。
顔を青ざめさせ、私に向かって呆然と口を開いた。
「クラリス。お前の恋人は、一体誰なんだ?」
「ごめんなさい父さん。私が言っても信じてもらえないような話なのよ」
父さんはどうやら思った以上に複雑な相手であるのを、私の様子から理解してくれたようだった。
一方母さんは直ぐには気付かず、娘の恋人の姿を見るのを期待した眼差しで待っていた。
そして先頭の馬車から降りて来た男性の、とびぬけた容姿にまず息を飲む。そして後続の馬車から複数の護衛らしき男性が姿を現したのを見て、ただ事ではないのを察して絶句した。
ロードリックさんは扉を少しだけ開けたまま硬直している母さんの前で立ち止まると、軍人が被る制帽を脱いで胸に手を当て、貴人にするような丁寧なお辞儀をした。
「はじめまして。ムーアクロフト・ローランドと申します。クラリスさんのお母様とお父様ですね?」
ロードリックさんが名乗ったのは、人間として現在使っている名前だった。尋ねられた事で、母さんの硬直が解けて今度は壊れた機械のように何度も頷く。
「ええ、ええ、、ええ、そうです。キーリー・セシリーと申します」
貴族慣れしている父さんはいち早く現状を理解したようで、母さんの前に出ると丁寧な一礼を返した。
「私が、父親のキーリー・テッドにございます。本日はわざわざお越し下さりまして、ありがとうございます。さあ、どうぞ中へお入りになって下さい」
「それでは、失礼します」
促されて店内に入ったロードリックさんは、羽織っていたコートを脱いで護衛へと渡す。コートの下は、最も格調高い式典などに着られる軍人としての正装だった。
私は初めて目にするその恰好の、受章歴を示す略章が年齢に不釣り合いに多い事に気が付いた。それは人間としての彼の地位の高さを示す物であり、父さんならばその意味に私以上に気がつく事も多かっただろう。
視線を父さんに向ければ、額から冷や汗を噴出させていた。そしてすぐさま母さんに飲み物の準備をするように頼み、平身低頭の言葉に相応しい状態で口を開く。
「こ、こんな狭い我が家で申し訳ございません。お見苦しいかと思いますが、ご容赦下さい」
小動物のように怯える父さんを前に、ロードリックさんは軍人に似つかわしくない優しい目を向けて言った。
「何を容赦すると言うのです。ここはクラリスさんが育った場所なのでしょう? ならば、私にとっても大切な場所です」
ロードリックさんの人柄を垣間見て、少し父さんの顔色が改善したようだった。
「奥へ、どうぞ。ご案内します」
自宅の方へと先立って案内する父さんの後に、ロードリックさんが続く。そして当然のように私の手を取って隣を歩かせた。
大きな男の人の手に包まれ、驚いて彼の顔を見上げるとまるで本当の恋人のように微笑んでくる。
……そうよね。恋人なら、普通よ。
自分にそう言い聞かせて心を落ち着けようとしたが、顔が赤くなってしまったのは防げなかった。
戻って来た母さんが目ざとく見つけ、ローランドさんの身分に動揺し通しだった顔に、娘の恋人を見た優しさが混じる。
ロードリックさんの効果的な演技に舌を巻きつつ、用意していた椅子へと座った。両親と机を挟んで向かい合わせに、彼の隣の位置である。ちなみに護衛は店の入り口に全員留まっている。
ロードリックさんは両親が椅子に座って落ち着いたのを確認してから、丁寧な口調で話し始めた。
「それでは改めて名乗らせていただきます。アビーク国侯爵家嫡男、陸軍少佐、ムーアクロフト・ローランドです」
「こ……、侯爵家……ですか」
母さんも流石に平然と受け入れる事は出来なかったようで、呻くような声で言った。
庶民の娘がこの身分の貴族を連れて来たなどと吹聴したら、荒唐無稽だと誰からも相手にされないだろう。
それほどに身分差というものは深く、高く、この国の人々の間に存在している。
だからこそ良いのだと、ロードリックさんは言った。その巨大な衝撃さえ飲み込ませてしまえば、その他すべての嘘を覆い隠す事が出来ると。
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